二
青年はふと、眉をひそめてから血の塊を吐き捨てた。思い出したかのように血肉の臭いが漂ってきて、フィリナはわずかに顔をしかめた。
すると薄闇の中で、明朗で柔らかな声がした。
「無表情の白の死刑執行人でも、そんな顔をするのか」
フィリナは驚いた。
彼は死を目前とした人間のものとは思えないほどに落ち着いているからだ。
そしてもう一つ。一族の人間でさえ気づくことが稀な、フィリナのささいな表情の変化を指摘してきたことに。
「……私にだって、感情はある」
「どうかな。それなら今、どう思ってる?」
彼はくだけた軽い口調で問いかけた。
なぜか無防備に、彼の懐へ入ってしまった気がした。
皮肉や嘲りではなく、彼は純粋にフィリナの内面を見極めるように目を細め、薄く微笑している。――――自分を殺すであろう人間に対して。
彼はフィリナが口を開くのを、黙って待っていた。その時間さえも手放し難いとでもいうように、じっと見据えて。
雑言や嘆きなら、いつものように無視できた。
相手にする必要などないのに、何か答えなければと焦り唇が震える。
「……私、は、……わからない。難しい」
思いついたまま口にしたのは、あまりに稚拙な言葉だった。
それはまるで答えにはなっていないのに、彼はそっと微笑んだ。さっきまでの愉快そうな笑みとはまた違う、ほんの少しの困惑と、安堵の笑み。
それから瞑目するようにひとつ、瞬いた。
彼は土の壁に右手をつき、左手で脇腹を押さえながらふらふらと立ち上がると、一度背を預けて息をついた。吐息とともに髪がこぼれて顔を隠し、苦笑しながら緩く頭を振る。
そして少しだけ首を傾げ、細めた目にフィリナを映した。
「何か用があって来たんじゃないの?」
仄暗いベール越しに、お互い視線を外せないほど見つめ合う。橙色の蝋燭の炎が揺蕩い、陰がいくつもの表情をつくった。
彼の言葉でようやくフィリナの翠緑瞳に、すぅっと冷たさが帯びた。ここに来たのは罪人に口汚く罵られるためでも、哀願を受け入れるためでも、ましてや自由を与えるわけでもない。
フィリナは彼らに、何もしない。
欲しいのは、たった一言――――。
「最後に何か、言いたいことは?」
今度はフィリナが待つ番だった。何も返ってこないとは思わなかった。これまでの罪人たちが、そうだったから。
しかし彼は口ではなく、足を動かした。重りでも背負っているかのように、体を引きずりフィリナの方へと踏み出す。ずり、と靴底が土を削り、また一歩進む。
明かりに触れた髪は茶金色で、瞳は淡い琥珀だった。鉄格子の際まで近寄った顔は、腫れていても端麗さを損なってはいなかった。
彼は片手で鉄格子を掴むと、背をもたれさせながら力尽きたようにずりずりと落ち、座り込んだ。自分の情けなさに苦く笑い、顔を捻らせフィリナを見上げた。
「……君の欲しい言葉は、あげられない」
彼が何を言ったのか、初めはわからなかった。だがフィリナの求めるものの核心に、それが掠めたことは確かだった。
肩を震わせ鉄格子を両手で強く握りしめると、彼の目線に合わせて膝を地面へとついた。
何かを求めるような素振りなど欠片も見せていないというのに、わかるというのか。誰も言ってはくれなかったその言葉を、くれるのだろうか。
フィリナの懇願に満ちた眼差しに、気後れしたように肩をすくめ、彼は続けた。
「口先だけでなら、言えるけど」
心からの言葉でなくてもいい。嘘でもいいから聞きたかった。
「……言って」
掠れた声を掬い上げるように、鉄格子の間から片手が伸びてきた。血と土に汚れた手だ。
フィリナの雪白の頬にその指先が触れたが、嫌悪感はなかった。頬を滑り、手のひらが包み込むよう押しつけられる。乾いた土塊が張りつき、擦られるとさらさらとこぼれた。
端の切れた唇が、愛を囁くように言葉を紡いだ。
「君に僕を殺させて……ごめんね」
次の瞬間、握り締めていた鉄格子から手がほどけた。うつむくと、金糸の髪がはらはらと落ちてくる。地面の土を爪が深く掻いた。
ずっとずっと、謝って欲しかった。
彼らが罪を犯さなければ、フィリナが刀を振るうことはなかったのに。
なぜ彼らのために、人殺しとならなくてはいけないのか。
触れたままだった彼の手が、涙の枯渇した目の下を親指の腹で拭った。
「……泣いていないわ」
「そう?」と言うと、彼はすんなりと腕を下ろした。
「あなたは罪を犯したことを、何とも思っていないのね」
「殺されるほどの罪は犯していないからね」
ふっ、とフィリナは顔を上げた。
「無罪だと?」
「さあね。それを決めるのは裁判官であり、神であり、君たち死刑執行人だ。……つまりこの国ってことかな。――――違う?」
違わない。その通りだった。
「……なぜ、逃げないの?」
彼は意外だという表情でまじまじとフィリナを見てから、快い声音で言う。
「逃がしてくれるなら、いくらでも逃げるさ」
「それは無理。罪人でない証拠がない」
きっぱりと告げると、全く期待していなかったのか、彼はふっと微笑んだだけだった。
冤罪がないとはいえない。だがこの国の法では、疑わしきは監獄だ。
証拠か自白がない限り、よほどのことでは死刑にならない。――――自国民は。
「あなた……、今更だけど、名前は?」
「本当に今更だね。……というか、知ってて来たと思ってたけど」
呆れた顔でため息をつかれたフィリナは、内心むっとしていた。
伝令をしっかり確認するのはレガートの仕事で、フィリナは日時だけ見て後はさらっと流す。
名前を知ってしまうと、その人が罪人ではなくただの人間だと気づいてしまうからだ。
家族がいて、友達がいて、恋人がいて……。
ふいに何かが頬をついた。
彼の指先がフィリナの頬に窪みをつくる。
フィリナが一瞥すると、彼は可笑しそうに笑った。
「案外つけ入りやすそうだ」
地下牢にいると思わせない飄々とした態度からは翳り一つ見受けられない。
悟っているわけでもないのだろう。投げやりとも、違う。
あまりに、おかしい。
彼の持つ緩らかな雰囲気にすっかりと乗せられていた。こういう性質なのだと勝手に思い込んでいた。
そんなはず、ないのに。
気づいた途端、鼓膜に激しい警鐘が打ち鳴らされた。
何かを見落としている――――?
初めに何と思った――――?
『彼は死を目前とした人間のものとは思えないほどに落ち着いていた……』
はっと、目を見張りフィリナは距離を取ろうと後退したその時――――、
――――ドカンッ……!!!
破壊音と共に、扉と人間が二人階段を転がり落ちてきた。扉が真っ先に墜落し、続けざまに二人折り重なりながらその上へと落下する。人形のように手足を投げ出す彼らの顔には、見覚えがあった。
ついさっきまで牢の中の彼に、乱暴していた見張りの兵士たちだ。
彼らは気を失っているのか、ぴくりともしない。
咄嗟のことに動けずにいたフィリナは、どうにか視線だけは上へと向けた。
すると角灯を片手に、人間とは思えないほどの大男が快活な野太い声を出した。
「よぉ、犯罪者!」
軽く手をあげ、野獣のような影が恐ろしげに揺れた。
大男は無精髭を撫でながら、陽気に鼻歌でも歌っていそうな足取りで階段を下りて来る。そしてのびている兵士たちには目もくれず、青年のいる牢の手前で足を止めた。
「元気そうじゃないか、レイズ」
角灯を掲げて豪快に笑う大男に、牢の中の彼――――レイズは、かなり痛めつけられているのに、「まぁね」と言って苦笑した。
少しして、上からもう一つ、角灯の明かりが増えた。
下りてきたのは若い男。
白目を剥いている兵士たちを見つけると、その場で大男を睨めつけた。
「置いてくなよ、おっさん。しかも、派手にやり過ぎ」
若い男はため息をつきつつ赤銅色の髪を掻き、牢の中のレイズをひょいっと覗き込んだ。
そしてそのひどい傷の具合いに、一瞬押し黙る。
「…………おっさん。さっきの言葉は取り消す。やり過ぎじゃないな、全っ然。――――歩けるか?」
「肩は貸して欲しいかな」
レイズは困ったようなはにかんだ顔で言った。若い男は了解と、レイズの肩を親しげに叩く。
そしてようやく、そのことについて言及した。
「……で?そこで小さくなってる彼女は誰なんだよ」
若い男は怪訝そうにしゃがみ込むと、フィリナの鼻先に角灯をかざした。フィリナとレイズを交互に見遣って、レイズへと戻す。
距離を詰めて来た彼の年格好はレイズより少し若く、フィリナと同じぐらいだろうか。
褐色のややきつい目には、しきりに疑問符が見え隠れしている。
地下牢にいるのに、フィリナは牢のこちら側にいるのだ。不思議に思っても無理はない。
すると大男が角灯を下げ、やっとその存在に気がついたというように、目をぱちくりとさせた。
若い男と同じ褐色の瞳には、驚きが映し出されている。
「本当だ、女がいるぞ!おいおい、最近の牢はずいぶんと親切なんだな。……ということは、邪魔したか?」
にやっ、と笑う大男を若い男が適当にあしらう。
「そんなわけないから。大方迷子か何かじゃない?何か泥だらけだし」
何者かを探るように、上から下までフィリナじろじろとながめている若い男の不躾な視線から逃れて、レイズに説明を求めるために目で訴えた。
あまりのことに動揺していたが、この状況は楽観視できるものではない。厳重な警備の行き届いた監獄でないにしても、この地下牢の警備も磐石なはずだ。
そうでなくてはいけない。
また同じ轍を踏むことになってしまう。
彼女の時のように――――。
フィリナの脳裏に浮かんだ光景を、急いで追い払った。
虚無の夜の下、見上げた断頭台の先にあったもの。
フィリナは悪夢から必死に目を背けた。
レイズがフィリナに微笑みを向けている間に、牢にかけられた南京錠へと大男が鍵を差し込んだ。
あっけなく南京錠が外れると、若い男が牢内へと侵入し、レイズに肩を貸すように屈む。その肩に腕をまわして、レイズはのそりと立ち上がった。
やはり腹部に痛みが強いのか、庇うように脇腹辺りを手で圧迫している。
二人が牢の外へと出ると入れ違いに、大男が倒れていた兵士二人の足を一本づつ両手で鷲掴み、牢内へとズルズルと引きずっていった。
仲良く並んで寝かされた兵士たちを閉じ込め、南京錠をかけた大男は鍵を懐へとしまい、一息ついた。
そして角灯をフィリナの頭上へと掲げた。
「この娘はどうするんだ?」
「連れてった方がいいんじゃない?どこの誰かは知らないけどさ」
フィリナのことを知らないらしい二人に、そっと安堵しかけたが、レイズが迷いなくさらりと事実を告げた。
「その子、死刑執行人。名前は――――フィリナ・カメリア」
沈黙があった。長い、無音。
「………………はぁ!?」
静寂を突き破り、若い男の素っ頓狂な声が地下牢に響き渡った。
信じられない、という顔の若い男とは反対に、大男はあっさりと事実を受け入れたのか、面白そうに片眉を上げている。
「死刑執行人って……」
「連れてくか?」
大男はレイズに問いかけた。ついでだから持っていくか、というほどの気楽さだ。
それに若い男がすかさず口を挟む。
「はぁ?冗談は顔と性格だけにしとけよ。連れてくわけな――」
「いや、連れて行くよ」
言葉を被せ、レイズは有無を言わせず明言した。
絶句している若い男の肩を借りたまま、にっこりと妖艶に微笑む。そして愛しいものでも見るような柔和な目でフィリナを見下ろした。
「この子は僕のものだからね」
フィリナは虚をつかれ、何か言わねばと口を開きかけた時、牢の中から呻きがもれた。
若い男が舌打ちをして、「もう逃げねーと」と二人を急かす。予定ではレイズを助けてすぐに地下牢を脱するつもりだったのだろう。
フィリナの存在はいわば想定外の出来事だったはず。兵士たちが異変を感じとるにはどれぐらいの時間がかかるのか。
そんなことを考えていたフィリナの両脇に大きなぶ厚い手が差し込まれた。ふわっ、とフィリナを持ち上げた大男は、そのまま軽々と肩に担ぎ上げた。
「下ろしてッ……!」
じたばたと足を動かし腕を振り回すが、あまりに薄弱すぎたらしく、大男が初めて猜疑のこもる眼差しでフィリナをながめた。
「本当に死刑執行人か?町娘でももっと暴れるぞ?」
フィリナは自分の無力さに項垂れると、大男が地上へと続く階段を上がり始めた。腹部が大男の肩に擦れて痛みが増す。一歩上がるごとにフィリナの頬は大男の硬い背にぶつかった。
階段を登りきると、地上の澄んだ空気が肺を潤した。
後ろから来ていたレイズたちは大男と顔を見合わせ、まだ周囲に気づかれていないことにやや呆れながら走り出した。
怪我をしているレイズに合わせて小走りではあるが、着実に地下牢から遠ざかって行く。
そしてそれは、黒血城からも――――。
フィリナは揺られながら顔を起こした。夜闇にまぎれて黒血城がどこにあるのかわからない。視界がぶれて今どこかさえ、わからない。
フィリナは手を伸ばした。おそらく城のある方向へと。
声も上げず、後悔もなく、大男の肩の上で跳ねながら、フィリナは不思議と――――安堵していた。