二十七
黒い髪が風に弄ばれて、フィリナは刹那、ルゥナの幻影をそこに見た。
黒い外套に、漆黒の編み上げ靴、そして――――黒髪。
フィリナは、パン屋の店先の硝子窓に映る自分自身の姿に、違和感を拭えずにいた。
ぼんやりとしているとパン屋の扉が開き、からんと快い鈴の音を立てた。
紙袋いっぱいのパンを片手に抱えた男が、店員へと硝子越しに手を振る。そしてにこやかにフィリナへと近づいてきた。
「腹減っただろ。そこの街路樹の台座に座って食おうぜ!人の手食うぐらい飢えてたんだから、遠慮すんなって」
生々しい噛み痕の残る手で、背中をずいずいと押され、フィリナは砂が散る台座へと座らされた。
パンの袋を二人の真ん中と置き、男が腰掛けたところで改めて問いかけた。
「あなた、本当に中央の密――――むぐっ」
皆まで言うなとばかりに、男はフィリナの口にパンを突っ込んだ。
一度口に含んだものを吐き出すわけにもいかずに咀嚼しする。はみ出していた分は、フィリナの右手へと収まった。
「誰が聞いてるかわからないんだからさぁ、もっとぼかして言ってくれないと」
「……なぜ、私を助けるの?」
パンを頬張る男――――クラウサは片手を台座につき、視線を斜めに上げる。
焦げ茶色の瞳は、さわさわとそよぐ木の葉からこぼれる日の光で、眩しそうに細められた。
「なぜって言われてもなぁ……。あんたたちの会話を聞いてた限りじゃ、こっちの仕事にも何かしらの影響が出てくるかもって思ってさ。昨日急に一部の兵が動かされて、怪しんで調べてみたら、どうも追われてるのが――」
クラウサは言葉を区切り、フィリナへと視線を下げた。
「何でこんなところに?って思ったけど、一応助けとけばうちの法務のやつらに恩売れるかなっ、と」
軽い調子と稀薄な内容は、他人を欺くための処世術らしい。
あの路地裏でフィリナを抱え込み、「髪の色を変えろ」と言った時の、切迫した空気はもうどこを探しても見当たらなかった。
道行く人からは、仲良く昼食をする友人か、恋人にでも見えているのだろうか。
誰一人、フィリナを気に止めはしなかった。
人殺しの、フィリナに。
「私のことを知ってたの?」
「一回見たことあるよ。例のアレ」
手刀で手のひらをとん、と打つ。
処刑のことを表しているようだ。おかげで一から説明する手間が省ける。
「それなら話が早いわ。東西の捕虜を、ここで処することを命じられたの」
「えーと、あんた一人で?」
「そうらしいわ。そして私以外の家族は暗殺者に狙われてる。つまり、完全に東に出し抜かれてるということよ。――――あなたたち、ちゃんと仕事してるの?」
クラウサが、ぱしんと額を叩いて軽薄な雰囲気を、昔からの友人のような気安いものへと改めた。
「あいたたた。こっちはこっちで真面目に仕事してるのになぁ。それに、助けてあげたでしょうが。あんたのこと。あのままだったら、サクッと捕まって牢行き確実だったんだからね!」
びしりと指を差され、フィリナは言われるがままに何度目かの礼をした。
遠からずクラウサの言う現実が訪れていたはずだ。
「それで、当面の目標は何だ?逃亡じゃないんだよな?」
「皆の無事を確かめないと、逃げれない。この目で、確かめない限りは……」
レイズの言うことは信用できない。
手を回してくると言ったが、果たしてフィリナの思いと一致しているのか不明瞭だ。
一族を殺すための手を、回すかもしれない。
「それならいっそ、内部に潜入する?まさか逃亡中の人間が、城内探ってるとは思わないでしょう。俺、天才かも」
自画自賛するクラウサに呆れるどころか、同じように天才だと思ってしまった。
フィリナでは考えつかない、意表を突いた作戦だ。
決断は早かった。もちろん、一も二もなくその案に乗ることにした。
自らの浅はかさで、一族を危険にさらした償いをしなくてはならない。
逃げて終わりの人生など、どこにもなかったのだ。
終わりがあれば、またそこから何かが始まる。
生きている限り、ずっと続いていく。
先に広がるのが幸せに花開く世界なのか、朽ちた常闇の世界なのかは、逃げてる最中は知りようがない。
この血の呪いが脈々と受け継がれてきたように、永遠の苦痛に歪んだ世界なのかもしれない。
だから、終わらせなくては。この手で。
「あっちに帰ったら、俺のこと褒めといてね」
スカートを握り締めていたフィリナは、はっと我に返りうなづいた。
手の力を抜くと、そこにあった小さなしこりが、決意を揺らがすように儚く感覚を消していく。
またレイズに、すがっている。彼を傍に感じて、求めている。
目を落とすと、そこにはクラウサの右手突き出されていた。
宙に浮くその右手の意味に気がつくと、躊躇いながら握り返した。
握手なんて、初めてだ。妙に気恥ずかしい。
「……よろしく」
「よろしく!」
頬を染めたフィリナは、それでもしっかりと彼の目を見つめた。
◇
東国の要である王城――――通称緑東城は、五つの建物が十字に重なることによって一つの城を形成している。
王都を一望出来る城の前部にある建物を前塔と呼び、ここでは国の行く末を担う政治を行っている。
五つの中で最も古く、広大な敷地と高さを持つのは、十字の中心にある真塔だ。ここでは王族たちが贅の限りを尽くして暮らしていると言われている。
そして脇を固めるのは、宝物庫や資料庫といった歴史を保管するのため塔。これは円柱状で太く低いので、市井からは城壁に阻まれ窺い見ることは叶わない。
そして裏塔――――秘匿すべきあらゆるものを、そこへと葬るという。
その緑東城内において、大小問わず噂が集結する暗部に、フィリナはクラウサの口利きで潜入を果たしていた。
「ここが、暗部……」
廊下を行ったり来たりする繁忙な女中たちに圧倒され、フィリナは壁際で何も出来ずに突っ立っていた。
「そこの新人!何ぼけっとしてるの!これ持ってさっさと前塔に行きなさい!」
眼鏡を掛けた女中頭に押しつけられたのは、よく使い古された竹箒だった。
毛先が千切れて短くなっているが、ちょうどフィリナの大剣と寸法が同じで、手に馴染みしっくりときた。
「いいところのお嬢さんだったのかもしれないけど、きびきび働いてくれなきゃすぐに追い出されるわよ」
フィリナは、「はい……」と小さく返事をして、指示通り前塔へと向かった。
会議室のような広々とした部屋で先輩たちを見つけ、見様見真似で床を掃く。
彼女たちはおしゃべりに興じながらその手を動かしていた。
そのせいなのか、拭き掃除をしている少女たちは、円卓の表面は綺麗に拭いているが、裏や脚の部分は手抜きをしていた。
黒血城の女中たちよりも、士気が低い気がする。
もしかしたら一族の目がないところでは、チリルたちもこうして話に花を咲かせていたのだろうか。
しかしクラウサが暗部だと言うだけあって、噂話の類いも次々に飛び交っていた。
「――――あたし今朝、裏塔の掃除だったんだけどね、すっごい恐かったんだから!」
一人の少女が雑巾で窓を拭きながら振り返り、他の少女たちへと話かけた。
フィリナはそちらへと掃きながら移動し、聞き耳を立てる。
「何でよ?夜なら悪霊がふよふよしてるとか、すすり泣きが聞こえてくるとか怪談話があるけど、早朝でしょ?」
「だって!最上階の部屋の壁に、血文字が!」
「ち、血文字……?」
引き攣る少女へと、話を持ち出した少女が矢継ぎ早に続ける。
「硝子が割れてて、そこに血がねっとりと!ぽたぽた血が垂れた痕とかあったし、絶対あそこで刃傷沙汰があったんだって!恐すぎる!」
ぶるぶる震えて両腕を擦りだした彼女に、フィリナは申し訳なく心で詫びた。
後片付けをする人のことまでは、頭になかったのだ。
「ねっ?それで何て書いてあったの?」
別の少女が机をふきふき、興味深そうに目を輝かせて近づいてきた。
「聞きたい……?」
「うんうん!」
期待に応えるように、こほんと咳払いをしてから、少女はあの恥ずかしい一言を重々しく告げた。
「『さようなら、私の初恋』」
キャー!と恐怖の悲鳴が部屋中に轟き、フィリナはいたたまれなくなり、顔を伏せた。
穴があったら入りたい。
「しかも、ジュンさまが絶対に消すなって……」
「えー!ジュンさまが?まさか、ジュンさまの恋人とかなのかしら……。ちょっと残念」
「残念どころじゃないわよー!失恋よ、失恋!」
レイズの話題で盛り上がる彼女たちへて、フィリナは控えめに声をかけた。
「ジュンさまって、誰のことですか?」
目を瞬く彼女たちは、静かだったせいかフィリナの存在にすら気づいていなかったようだ。
聞き手が一人増えたことで、彼女たちの会話に熱がこもる。
「ジュンさまは、アーサーさまの何番目かの秘書よ。ジュンさまの微笑みは私たちの癒しなの」
「ジュンさまは、あたしたちにも優しくしてくれるから、恐がらなくても平気だよ」
「だからって抜け駆けは禁止だからね!」
レイズは女中人気が高いらしい。
彼女たちは競うようにレイズの話をフィリナへと聞かせた。
ジュンことレイズは、重たい荷物を持ってあげたり、髪を切ったことを一番に気がついたり、城の前庭にあるプラムの木を憂い顔でながめていたりするという、どうでもいい情報ばかりが増えていく。
プラムは嫌いなくせに。
こうやってまたフィリナの心を掻き乱す。
「――――それにしても、今日は城内がぴりぴりしてるよね?」
「兵も出払ってるらしいわよ」
「ああ!それが例の血文字と関係あるんじゃない?」
「裏塔の?でもそれなら、ジュンさまが責任を取らされたりしないかしら……?
フィリナは竹箒の柄を、きゅっと握り締めた。
レイズは何か責任を負わされるのだろうか。
飄々とした彼のことだから、一人だけ安全圏にいると思い込んでいた。
彼だって所詮は国の駒。いつでも切り捨てられる。
そこまで考えて、フィリナは首を振って否定した。
レイズならば、どんな局面でもきっと上手くやれる。
こんなものただの杞憂だ。
「あ、ジュンさまよ!」
一人が窓から身を乗り出して叫んだ。
他の二人も続き、フィリナは彼女たちの後ろから、そっと眼下へと意識を向けた。
前庭に乱立する樹木に紛れて、一つだけ種類が違う若木の下に、レイズの儚げな後ろ姿があった。
寂しく葉をつけた若木に、ぽつぽつと赤い実が彩りを添えている。――――プラム。
道中、決して手を伸ばそうとしなかったその果実を、レイズは黙って見つめている。
ふと、声をかけてしまいたくなった。
レイズ、と呼んでしまいたかった。
あの日、呼び掛けることの叶わなかった名前を、今は持っている。
偽物でも、彼の呼称を。
「レ――」
「あなたたち!何を遊んでいるのですか!!」
女中頭の叱責に、ひゃっと皆の首が竦み、彼女たちは慌ただしく持ち場へと戻った。
――――レイズ。
フィリナは口を閉ざしたまま、あの日と同じように、レイズからそっと目を離した。
◆◇◆◇◆◇
見上げた先に、熟れた赤い果実。
よく日の当たるこの場所ならば、あの沁みるような酸味はないのだろう。
口にしたのは一度だけ。
酒として飲んでしまったが、自らその実を望んだことはなかった。
その実を見ると、二人の顔が思い浮かぶ。
フィリナと、――――父だ。
最後に口にしたのが、あのプラムだった。
レイズのように酸っぱいなどと文句を言わず、美味しいと褒めた。
果汁でべたつく手のひらで、レイズの髪に血と土を絡めながら何度も頭を撫でた。
だからレイズは、冷えた鉄格子の向こうへと、フィリナがしたように皮を剥いては父へと差し出した。
もう二度と、親孝行など出来ないと知っていたから。
涙を堪えて、あの赤い皮を捲っては地面へと落とした。何枚も、何枚も。
フィリナがいなければ、親子揃って空腹のまま死んでいただろう。
あれが神の慈悲だったのなら、あまりに残酷な話だ。
父を失い残された子供が、一人生きていけるほど甘い世界ではないというのに。
どんなことでもした。泥水を啜って生きてきた。
叩けばいくらでも埃が出てくるだろう。
それでも、人殺しだけはしなかった。
この足で踏みつけた人間はいても、この手で殺した人間はいなかった。
命など彼女のものだけでいい。彼女以外は、いらない。
リナ、と呼ぶと、あの愛らしい声でレイズ、と返された気がして、くすりと笑う。嘲笑う。
兵は何をしているのか、一向にフィリナを捕らえてこない。
彼女一人で逃げ回れるとは思えない。何者かが手を貸している可能性がある。
自分から人に話しかけられる子ではないので、相手から接触してきたのだろう。
この手以外の手を、一時的とはいえ取ったことに、レイズは素直に妬いた。
カメリア一族はすでに五人、仕留めたという報告がある。
どれもフィリナからは遠い、一族の末端だ。
フィリナは怒るだろうか。それとも哀しむのか。
城に、三人の死神が向かっているという。
彼らをどうするべきか、レイズは悩む。
迂闊に殺してしまえば、永遠にフィリナを失ってしまいかねない。
交渉材料として生かすならば、レガートか実兄のエヴィルだ。
だが本心では真っ先に消えて欲しい二人でもある。
特にレガートの、フィリナを見つめるあの眼差しは気に入らない。
彼女はずっと前から、レイズのものなのに。
城のどこかから、女中頭の叱声がもれ聞こえてきた。
また下働きの女中たちが、仕事そっちのけでおしゃべりに熱中していたようだ。
振り向き、窓辺を仰ぐと、誰かの黒髪が翻り奥へと消えていった。
そのとき、アーサーからの伝言を秘書の一人が伝えにきた。――――カメリア一族が訪れた。早く戻れ、と。
その潔い家族愛に肩を竦め、レイズはプラムの木へと背を向け歩き出した。
黒髪の少女のことは、記憶にも残さず。




