二十六
――――どかんっ!
チリルは馬に弾き飛ばされた。
「ぎゃっ!!」
幸い掠っただけであったが、勢いよく尻餅をついてしまった。
いたた、と呻きながら見上げた先で、馬が鼻を鳴らして足踏みをしている。
「大丈夫か!?ちびっ子!」
ロトが青ざめながら駆け寄り、チリルを抱き起こした。
それから怪我がないか腕や足の骨や関節から、体のいたるところを触って確かめる。
チリルは赤くなりながら、「大丈夫ですよ」と言い張った。
「馬に轢かれたんだぞ?骨とか折れてるかもしれねーだろ」
「チリルッ!」
レガートも馬をエヴィルへと預け、チリルの傍へと膝をついた。
すると、空から馴染みのある声が降ってきた。
「――――あら、レガート?」
チリルは慌てて馬に乗る人物へと視線を向けた。
そこにいたのは紛れもなく、レイチェルだった。
「久しぶりじゃないの。ぞろぞろとお供までつけて。あたくしなんて、五人も連れて来たのに、いつの間にか一人なのよ。信じられないわ」
「叔母さま……?いつこちらに?」
レガートは茫然としながら立ち上がった。
「さぁ、いつだったかしら?フィリナに会ってからも大分経つし――」
「フィリナに!?」
レガートが驚愕し、チリルもこぼれるほど大きく目を見開いた。
いつもと何一つ変わらない様子のレイチェルに、困惑しかない。
フィリナと会ったならば、なぜ連れ帰ってこなかったのか。
一人馬を走らせてきたわけが、まるでわからない。
ロトやレカルド、さらにはエヴィルまでもが怪訝そうにしている。
「なぜフィリナを連れて来なかったのですか!」
レガートに怒鳴られ、レイチェルは迷惑そうに顔をしかめた。
「フィリナが逃げろと言ったのよ。――――そうそう、レガートにおかしな託けをしていたわ。東国が一族を暗殺しようとしてるとか、どうとか」
やはりそうなのだろうか。
チリルはレカルドをうかがった。
彼の予想は完全に的を射ていたらしい。
「それでフィリナは」
「行けって言うから置いてきたけれど、一人だったわよ。罪人に捨てられたのね」
その言い種に、チリルはカチンときたが我慢した。
これでもお仕えする家の方だ。
レガートはほっとしているようだが、レカルドとロトは不可解そうに目配せをし合っていた。
レイズがいないことを気にしているのだろう。
「――――レガート。それで、どうするんだ?」
エヴィルが焦れたのか、レガートに今後の指針を尋ねた。
「目的は変わらない。フィリナを連れ帰ることだ。叔母さまに情報を託したぐらいだ、フィリナ自信も切羽詰まる状況なのだろう。早く助けないと。――――叔母さまも私たちと一緒に行動してください。狙われている可能性があります」
レガートがそう告げた直後、エヴィルが不審そうに問いかけた。
「さっき……、配下はどうしたと言った?」
レガートがはっとして、レイチェルを振り仰いだ。
彼女はきょとんとしながら、いなくなった経緯をそのまま口にした。
それを聞いたレガートは、みるみる顔色を失い、絶句した。
チリルですら、説明がなくともわかる。
彼らはもう……。
レガートはすぐさま馬へと跨がると、レカルドに敬意を払った口調で言った。
「私たちは先に行ってフィリナを捜します。その間、チリルのことをお願いできますか?」
レカルドは当然とばかりに、鷹揚とうなづく。
レガートは慇懃に頭を下げると、すでに騎乗していたエヴィルへと声をかけた。
そしてレイチェルも引き連れ、三人で颯爽と馬を走らせて行ってしまった。
残されたチリルには、手を振る暇さえ与えられなかった。
「……なぁ、レイズはどうしたんだよ?」
「フィリナに振られたんだろ。一人で逃げてるってことはな」
ロトは、チリルの手のひらについた砂を払いながら、眉を顰めた。
「あんないちゃついてて?」
「女心は男にはわからんもんだぞ。おまえだって、ちびの乙女心がわかってないじゃないか。いくら怪我がないか心配だったとしても、体中まさぐられたら赤面もするだろ」
よく見ている。チリルはレカルドを感心して見遣った。
逆にロトは無意識だったらしく、「そんなことしたか?」と首を捻っている。
胸もお尻も触られたが、ここは許すとしよう。
こうして一つずつ大人になるのかと、チリルは達観しながら二人の会話に耳を傾ける。
「というか、レイズの子供を産むって話だったのか?」
「そりゃあな。そうじゃなきゃ、わざわざ自分で拐って来んだろう。みすみす他の男に渡す女を、道中猫可愛がりするか?」
「初めっからあの子狙い?でもあの子が牢にいたのは、偶然じゃなかったのかよ」
そういえば、とチリルは口を挟んだ。
「リナさまは罪人が捕まると、必ず地下牢へ行きますよ。狙っていたというのなら、それを知っていたんじゃありませんか?」
ふむ、とレカルドが無精髭をなぞった。
だいぶ伸びてしまっているせいで、山男のようだ。
「そうかもしれん。いや、おそらくそうだ。ずっと気になってることがあったんだが、これはひょっとするとあれかもな。レイズがいつも女に振られる原因の、あれだ」
いつも振られるとは意外な話だ。
レイズが女の人を捨てるというのなら、腑に落ちるのだが、その反対は想像がつかない。
「それの何が気になんの?いつも前の女の名前、呼んじゃうんだよな。レイズって意外と天然?」
それは天然の一言で片付けてよいものなのだろうか。
「狙ってやってたりもするが、あれは素だな。一回だけ怒鳴り散らしてた女の話を、盗み聞きしてたことがあるぞ。レイズのやつ、やってる最中いつもリナって呼ぶって」
やってるうんぬんは聞き流して、リナという名前にだけ反応した。
「リナって……」
「偶然だと思ってたんだが、レイズとフィリナは昔馴染みなんじゃないのか、ということだ」
したり顔のレカルドに、チリルはロトと揃って仰天した。
「「えぇっ!?」」
「ちびが来なかったら気づかなかったがな。リナさまって呼ばれてるのを聞いて密かに、おっと思ってたんだ」
「はぁ〜?で、何?お互い知らない振り?――――いや、レイズだけかもしれないけどさ」
ロトが呆れのため息をついて、空を仰いだ。
雲一つない清々しい晴天だ。
「えー……と。リナさまとレイズさんは、昔お付き合いをしていたと……?」
「どうだろうな。レイズの片想いかもしれんし、そこは定かではないな」
ううむ。チリルは唸る。
あのフィリナがと、どうしても疑ってしまう。
レイズの片想いというのも、いまいちしっくりとこない。
この件に関しては憶測の域を出ないようだ。
三人はとりあえず歩きながら、話を進めることにした。
「フィリナは東の要求を突っぱねた。そして、逃げた。これが現状なら、フィリナは東国の兵あたりに追われてるだろうな。俺らをつけてたやつらも、レガートたちを追って行ったからな」
チリルは尾行には全く気がついていなかったので、いなくなったこともわかるはずなく、一度だけ振り返ったが、当然怪しい人の姿はどこにもなかった。
しかしレガートたちを追っているという点は気がかりだ。
そして、フィリナ。
「リナさま、大丈夫でしょうか……」
たった一人で、逃げているだなんて。
「俺らはどうすんの?」
「東に入った時点で任務終了に近いしな……。一先ず静観するか。レイズがどうオチをつけるか、見届けるぞ」
「オチって……」
「私はリナさまを助けます!」
唐突なチリルの宣言に、二人はぽかんとして足を止めた。
「いやいや、無理でしょ?俺ら足だし、今行っても遅いから」
それはそうかもしれないが、何かできることがあるかもしれないではないか。
チリルは頬を膨らましてロトを見上げた。
「う、上目遣いは反則だって!」
たじろぐロトをながめて、レカルドがニタニタとしている。
チリルは構うことなくロトへと詰め寄った。
「とにかく、急ぎましょう!」
髪をくしゃりとして面倒そうにしていたロトだったが、最終的にはチリルに圧されて陥落した。
力なく両手を挙げて、降参している。
ならば次は、レカルドだ。
「お父さん!」
チリルはあえて、そう呼びかけた。
おっ、と眉を上げ、レカルドは乗ってきた。
「リナさまを助けに行きましょう!」
「おう、いいぞ」
軽い調子でレカルドが答え、ロトが額に手を押し当て、げんなりと項垂れた。
緊張感は欠片も存在しないが、チリルたちはフィリナ救出のために一致団結した。が。
「時に娘よ」
チリルは初めの一歩をレカルドによって邪魔をされ、踏みと留まった。
「はい?」
「これは仕事として請け負う形になるぞ?」
「えっ!?――――そ、そうなんですか?」
てっきり善意だとばかり思っていたチリルは、世の中の世知辛さを痛感した。
女中の給金では足りないということは目に見えている。
「お、お金は、その……働いて返します」
しゅんと肩を沈ませ言うと、ロトがチリルの側へとついてレカルドへと反論した。
「ちびっ子から金取る気かよ」
「俺たちは善人じゃないんだぞ。いくらちびとはいえ、人を雇うのにタダというわけにはいかん。身売りしてでも払って貰わんとな」
チリルはびくりと体を竦ませ、さっきまでの勢いは急速に萎んでいった。
「身売りって……。おっさんふざけんなよ!ちびっ子を花街に売る気か!」
ロトの激しい剣幕に、チリルはますます身を縮こめた。
「いや、花街には売らん」
レカルドはきっぱりと断言した。
なのでチリルはおずおずと彼を仰ぎ見た。
びたりと目が合うと、快活な笑顔で言ってのけた。
「俺の娘にならんか?」
「え?」
「はぁ〜?」
チリルは予想の斜め上をいく言葉に、何度も瞬きを繰り返した。
レカルドが本当の父親に――――?
「おっさん!何だよそれ、どんだけちびっ子気に入ってるんだよ!」
「いや、待て待て。最後まで人の話を聞け」
手のひらを前に突き出し制するレカルドに、ロトは渋々といった様子で口をつぐんだ。
「俺には一人、実の息子がいてな。そいつの嫁にならんか、という話なんだ」
「――――ッ!?おいッ!ふざけんじゃねーぞ!!」
それを聞くなり、ロトは憤怒で歪んだ顔を紅潮させて、レカルドへと掴みかかった。
肌がひりつくほどの怒気だ。
感情が錯綜する瞳は初めて目にするもので、チリルはあわあわとして、二人の間に突入した。
「ま、ま待ってください!お、落ち着いて、話し合いましょうよ。ね?」
一拍して、ロトがレカルドの胸ぐらを、振りほどくように手を離した。
けれども彼は苦痛にも似た表情で、レカルドを睨み続けている。
レカルドはその眼差しを真摯に受け止め、まっすぐに告げた。
「俺はこの条件を取り下げん。もちろん成功報酬で構わんぞ」
「俺はっ――!……いや、ちびっ子。おまえはいいのかよ。こんな馬鹿げた条件」
チリルのために心を砕き、辛そうにしているロトの表情に、きゅう、と胸が締めつけられた。
しかしレカルドの協力なしでは、城まで辿り着けるかさえ、わからない。
溢れてしまいそうな感情を押し込め、こくりと深くうなづいた。
そのまま顔を俯け、足元へと目を落とす。
「…………。馬鹿だな、ちびっ子。おっさんの息子なんてろくなやつじゃねーぞ。堅気の仕事どころか、悪事働いてたりするんだよ。絶対」
ロトは忌々しそうに吐き捨てた。
「まぁ、間違ってはいないな。息子が幼い時分に別れたきりだったし。俺には似てないから、安心していいぞ。――――ちび。どうするんだ?自分の身を売ってでもフィリナを助けたいなら、協力してやるぞ」
チリルの心はもう、揺らぎを止め、冬場の湖のように固まっていた。
「……はい。お願いします」
丁寧に頭を下げると、ロトの舌打ちが聞こえてきた。
涙が出そうになったが、ぐっと堪えて顔を上げた。
「ロトさんは、条件とかありますか?」
「……特にない。強いていうなら、――――後悔するなよ」
ざっくりと切りつけられたように、チリルの心は痛みを負った。
それでも、一人でも多くフィリナの味方が必要なのだと言い聞かす。
何を犠牲にしてでも、フィリナを助けたい。
チリルを、救ってくれた大切な人だから。
チリルは切なさを振り切り、無理矢理笑顔を作った。
「はい!」
ぽん、とロトの優しい手が頭に乗った。
下手くそ、とつぶやく彼を、チリルはじっと見つめた。
子供の時間はきっと、もう終わりなのだ。
憧れは胸の奥に、リボンをかけてしまっておけばいい。
たまに手に取りながめて、昔を懐かしむ。
それだけで、満足だ。
風化しない想いというものは、時が経っても色褪せることはないのだから。
背中を押すように柔らかな風が吹き、チリルはようやく新たな一歩を踏み出したのであった。




