ニ十三
夢の中で幼い少女が笑っていた。
くるくる表情を変え、純真で無垢な象徴を清潔な白い服で表すかのように。
年齢はだいぶ下なのに、普段からろくに物を食べていない少年より、頭一つ小さいだけだった。
汚れてぼろぼろの、いつ洗ったかも記憶にないような服を着て、心まで荒みきっていた少年にとって、その少女は不思議な存在であった。
王都の片隅で、物乞いと蔑むやつらは決して、少年に何かを与えようとはしなかった。
だから少年も、空腹の限界が訪れようと、決して他人を頼ったりはしなかった。
だからだろうか。少年の父親はどんな些細な仕事でも請け負い、少年もそれを手伝い、細々と暮らしていた。
だがそれも、いつまでも続かず、ある日少年の父親は罪を犯すことになる。
地下牢の場所は、いくら探しても見つからなかった。
恐怖を抱くほど真っ暗な闇。蠢く木々に、揺れ動く草むら。
そんなものよりも、少年の心はもっと恐ろしいもので支配されていた。
早く行かなくては。もう二度と、会えなくなる。
なのに、どこへ向かえばいいのかわからない。
ここがどこかさえ、わからないのだ。
少年は力尽きて地面へと倒れ、死をすぐそばに感じていた。
全て無駄だったのだと、自分の短い人生を嘲笑った。
せめて、ここよりは楽なところへ行きたい。そう願いながら、まぶたを下ろしかけた時だ。
誰かが自分の体に足を引っ掛け、盛大に倒れた。
それはむくりと体を起こすと、うっうっと泣き声をもらす。
少年はそちらへと、億劫そうに視線を向けた。
そこには真っ白な天使がいた。――――死神の血を引く、天使が。
♢
――――レイズ。
名前を呼ばれてレイズはぼんやりと目を覚ました。
レイズという名前にもすっかりと慣れたようだ。
いくつもある偽名の内の一つではあるが、気に入っている。
枕から半分だけ顔を上げると、隣で眠っていたはずの彼女がすっかりと服を着て、靴を足に捻り込んでいる姿が映った。
寝台にかけた後ろ姿は、ほとんど金色の長い髪に覆われている。
そっと艶のある髪に振れると、彼女は振り向きざまにレイズの手を容赦なく弾いた。
そして寝台から立ち上がると、ほとんど吐き捨てるように告げた。
「もう別れましょ」
レイズは三ヶ月付き合った彼女の急な別れ話の申し出を、とりあえず寝たままではいけないと思い、上体を起こして受け取った。
一応、それを聞いてみる。
「理由は?」
わかってるでしょ、と言わんばかりの眼差しが少々痛い。
「いくら顔がよくて、優しくしてくれても、前の女を忘れられない男なんてごめんよ!」
「前の女……」
「気づいてないとは言わせないわよ!昨日だって途中からわたしのこと違う名前で呼んでたでしょ!いつもいつだって、そう!その女の代わりなんて、もう我慢できない!!」
彼女は散々レイズを罵って、靴まで投げつけてから、建てつけが悪くなるほど激しく扉を閉めつけて去って行った。
嵐が通り過ぎた後、残るのは静寂だ。
毎度毎度同じ理由で振られるレイズは動じることなく、くすりと笑って伸びをした。
向こうから、後腐れなく別れを切り出してくれるのはありがたい。
ここでの仕事はほぼ終えたので、ちょうどよい頃合いだ。
彼女がレイズの腕の中でしゃべったことの裏はもう取ってあるので、後はこのまま姿を消すだけ。
レイズは寝台から出ると、浴室へと向かった。
それから着替えて、部屋の隅々まで丁寧に掃除を施す。
そして跡形もなく痕跡を消去して、早々に部屋を後にした。
すでに日は昇りきって傾いているが、夜の肌寒さと打ってかわり麗らかな陽気だった。
どこからともなく花びらが飛んできて、レイズの前を子供たちが走り抜けていく。
靡く金髪の少女に、レイズはまぶしそうに目を細めた。
中央国を離れて八年。
レイズは東西の兼業密偵として、何とか暮らしている。
先の戦も一先ず休戦という形で終結したことで、これからは水面下の探り合いになるだろう。
久し振りに中央国の王都に滞在したが、王宮付近へは足を踏み入れることはなかった。
せいぜい、東の花街止まりだ。
レイズはふいに、メヒのところにでも顔を出しておこうかと、方向転換して花街へと足を伸ばした。
西に帰ってから、レカルドにメヒの現状をしつこく問いつめられるだろうから。
東の空が朱に溶け始め、ようやく起き出した花街に着くと、すぐにメヒの店へと訪ねた。
メヒの店は他とは異なり、特定の上流階級者か権力者、有力者のみ奥の扉を潜ることを許される。
もちろん信用されるまで何度も足を運び、メヒに認められる必要がある。
顔馴染みのレイズでさえ、奥には行かせて貰えず、だいたいは二階か、店内で飲みながら会話をする程度だった。
親しくとも、きっちり公私を分けるのがメヒだ。
それに、レイズは扉の奥には興味がないので、取り立てて不満があるわけでもない。
幸いメヒは奥で「お仕事中」ではなかったので、レイズはカウンター席へと掛けて、適当に酒を注文した。
「レイズ。また一段といい男になったわねぇ」
年齢は不詳だが美人のメヒに褒められ、レイズは苦笑混じりに、出された酒に手をつけた。
口を湿らす程度のつもりが、その味にはっとして、確認するように数口飲み下す。
ほのかな酸味が古びた記憶をくすぐり、懐かしさを蘇らせた。
「これ、プラム?」
「よく知ってるわね。王都でもあんまり流通してないのよ?これは常連さんが庭で取れたからって、持って来てくれたの」
ふぅん、と相槌を打ちながら、グラスをほんのり色づかせた酒を味わうように舌で転がした。
そんなレイズを、メヒは頬杖を突いて誘うように上目遣いで見つめるてくる。
唇は艶っぽく深い谷間も覗いているが、メヒはレイズの好みの範疇からずれているので、気にすることなくさらりと流す。
これがレカルドならば、鼻息が荒くなり見苦しいことになるだろう。
もちろんレイズは好みの女がいても、そんなことはしないが。
「またどこかの女を、たぶらかしてたんでしょう」
「仕事だよ。それに、いつも僕が振られる」
「そう仕向けてればそうなるでしょう?あの例の、最初の女が忘れられない設定?いい加減ネタ、使い回しのし過ぎじゃない?」
「ネタって……。別に意図してやってるわけじゃないんだけどな。つい、抱いてる最中に、違う名前を呼んじゃうだけだよ」
メヒが、やれやれというように肩を竦めて、グラスの氷を指でくるくる掻き回した。
「長続きしないわけね。――――それで、何て名前を呼ぶのか……ふふっ、気になるわ」
メヒの流し目を躱し、レイズは悪戯っぽく、唇に人差し指を当てた。
「それは僕と、付き合った子たちの秘密だからさ」
「うふふ、相変わらずつれない子。――――今日、泊まっていく?上なら空いてるわ」
レイズが悩む素振りを見せると、メヒがグラスを退けて身を乗り出し、耳元で囁いた。
「明日、クルス大将の処刑が行われるわ」
レイズはその名を聞いて、彼の顔を記憶の澱から引き上げた。
先の戦で、国民を先導して、多くの若者を兵士として東西に送り込んだ人物。
戦は冷戦に入ったが、多大な労働力を失った。
国民感情が高まり、国が罰せざるを得なくなったとは聞いていたが。
「……死刑なんだ?」
レイズは努めて冷静に尋ねた。
死刑と聞くと、どうしても過去が過る。
メヒは勘が鋭いので、弱みを見せないことに細心の注意を払わなくてはならない。
メヒはカウンターを回り、レイズの隣へと来て肩を並べた。
「そうよ。ここだけの話、あの男何かやらかしたらしいの」
何か、とレイズは怪訝にメヒの目を見返した。
内容のせいか、とてもいい表情で微笑んでいる。
これはよほどの話だと、レイズは続きを促した。
「一週間ほど前、処刑場が一時封鎖されたのよ。中にいたのは法務省の人間、兵士、そして――――カメリア一族」
レイズは瞳の奥が揺れ、眉を寄せて誤魔化した。
早鐘を打つ心臓に気取られないよう、慎重にいつもの自分らしい言葉を紡ぐ。
「中に何かあったわけだ。知られるとまずいもの、いや――――死体かな」
「うふ。話が早いわ。どうもカメリア家の誰かが殺られたらしいのよ。詳細はグロッツが巧みに伏せててわからなかったけど、どうやら殺られたのは女らしいわ」
レイズは初めて、メヒの前で動揺しかけた。
グラスを持つ手が震えかけて、コトリと音を立てて置いた。
まだ、そうとは決まっていない。
カメリアの女は数が少ないにしても、他にいないわけではないのだから。
「あら?カメリアの女に知り合いでも?」
獲物へと狙いを定めたように、メヒが探りを入れてくる。猫のような強かな目つきで。
「まさか、いないよ。僕は女性には優しいんだ」
「女に優しい男って、大抵浮気者よ?」
レイズは潔く、その言葉を受け止めておいた。
粛々としてグラスを口へと運ぶと、その味にかつての少女が思い起こされた。
「ふふっ、まぁいいわ。カメリアの死神たちは身内意識が強いから、それなりの執行人を出して来るでしょうね。ただでさえ国際犯。国民の関心も高いわ。集客率千パーセント超の一大行事と化すでしょう。グロッツ大喜びよ」
「ははっ、祭りだな」
「断頭台の周囲は陣取りが始まってるのよ。皆ね、誰が出てくるか賭けたりしてるわ。一番有力なのはレイチェルだけど、大穴として引退した一族長のレガートが挙がってる。でも私は……もっと意外な人間を出して来ると思うのよねぇ」
メヒは楽しそうに唇で弧を描きながら、ゆったりと勿体ぶるようにグラスを回した。
氷がカランと響き、レイズは小首を傾げて尋ねた。
「意外な?」
「そうよ。でも……明日のお楽しみってとこかしらねぇ」
本当は何もかも知っているような顔で、メヒは微笑した。




