二十・追憶(後)
翌日も男の子は地下牢へとやって来ていた。
勝手に牢に入っていたのか、岩の陰から出てきた男の子は、そこに立っていたフィリナと鉢合わせてぎょっとして声を上げた。
「リナ!その顔は!?」
「顔?」
「頬!腫れてる!……もしかして、怒られた?」
男の子が視線を落として、何かを堪えるように唇を結う。
フィリナは自分の頬に触れてみた。
そこは熱を持ち、膨らんでいる。さらには触れたことで痛みがぶり返して来た。
「エヴィル兄さまがぶったの」
「……ごめん」
「何で謝るの?エヴィル兄さまはリナにしか怒ってないよ?手を繋いで帰った気がするから、たぶんもう怒ってないの」
実際は泣きじゃくっていて、あまり覚えてはいない。
目が覚めたときに部屋にいたので、あのままエヴィルが送ってくれたのだろう。
「それでね、さっき起きたの」
男の子は首を傾げてから、森を禍々しく染める夕影を一瞥した。そして縺れた髪の向こうから、フィリナを見つめ言った。
「もうすぐ夜だよ?」
フィリナは目を瞬き、きょとんとした。
泣き疲れたせいか、すっかり寝過ぎたらしい。
普段から夜ふかししているせいで、おかしいことという感覚が欠落していた。
「夜しか森の奥で遊べないからいいの。今日はどうしたの?」
男の子は申し訳なさそうに頬をながめながらも、フィリナへと端的に尋ねた。
「リナ、食べ物ってどこにある?」
フィリナはにっこりとして、近くのプラムの木へと男の子を誘った。
短い道のりを手を繋いで並んで歩いていると、男の子がその手に目を落として、自嘲するようにつぶやいた。
「リナはよく平気で、この汚い手を握れるよね……」
「汚いの?」
「汚いよ。ごみとか漁って来たし、もうしばらく洗ってないから。皆、近づくどころか避けてくよ?」
辺りはほの暗くなっていて、フィリナにはその汚れを見つけることは出来なかった。
元より、そんなものを気にする性格でもない。
「リナは石を投げられるの。それと一緒?」
「うーん。……ちょっと、違う」
フィリナには難解な問題で、首を傾げている内にプラムの木の下へと着いてしまった。
昨日いくつかもいだが、大振りの赤い果実はまだ、数えきれないほどたわわに実っている。
ここは森の木々に覆われて、日があまり当たらないせいか、とても酸っぱい実が生るのだ。
だから、いくらも減りはしない。食べるのはフィリナか、物好きな鳥か虫だけだった。
持って帰っても誰も食べてはくれずに、結局腐る直前にジャムに加工されてしまうのだ。
「あの酸っぱいのか……まぁ、いいか」
男の子はプラムの木の枝を掴み、幹に足をかけると、するする頂上まで登っていった。
男の子は目を凝らしながら、よく色づいたプラムを選別してもぎ採ると、フィリナへと落とす。
慌ててスカートを広げ、降ってくる実を一つ一つ収穫した。
ある程度溜まった頃、男の子はすとんと下りてきたので、フィリナは成果を見せるためにスカートの端をさらに掲げた。
「いっぱい採れたね!」
喜びをわかち合うつもりのフィリナだったが、男の子は気まずそうに目を逸らした。
「どうしたの?」
「いや、見えてるから」
「何が?」
「スカート下げて。……下着、見えてる」
フィリナは顔を赤くして、言われた通りにスカートを下ろした。
プラムが落ちてしまわないように、そっと。
「……これ、どうするの?父さまに?」
「父さま……いや、父さんに」
「父さまじゃないの?」
「そんな呼び方してるんだ?」
「うん。リナの父さまは、絵の中にいるの。母さまと一緒に」
レガートが描いた二人の肖像画。
それだけが唯一フィリナに残された、両親の面影。
怪訝そうに、男の子は「絵……」と小さくつぶやいた。
「絵の中にいて、いつもリナを見てるの」
「……そっか」
「行こう」
フィリナはたくさんのプラムを抱えて、にっこりと笑った。
◇
その次の日は、薬草を探して歩いた。
「これ?」
フィリナはしゃがみ込み緑色の葉っぱを指差して尋ねた。
白い花のようなものが咲いてるが、匂いがきついので、いかにも薬草らしいと目をつけたのだ。
「必要なのは血止め用の草だって言っただろう。それは解毒とか利尿用」
「りにょう?」
「……リナには関係ないよ、たぶん」
男の子は紫を帯びた白い小花をたくさんつけた、丸い艶のある葉っぱを摘み取っている。
「それをどうするの?食べるの?」
「……これは揉んで、血が出ている部分に当てると、血が止まるんだよ」
フィリナはまた一つ、賢くなった。
しげしげと葉っぱを観察していると、
「何にも知らないんだな、リナは。あの地下牢で、執行人たちが何をしてるか知ってる?」
あれだけ密かに出入りしていれば、彼らのしていることがどういうことなのか、幼くとも察しがつく。
フィリナは膝に顔を埋めて、男の子の表情を見ないようにした。
「……うん。リナのこと、嫌いになる?」
「リナのことは嫌いじゃない。よくしてくれるし、友達だから」
フィリナは、はっとして顔を上げた。
「――――でも、リナもあいつらみたいになるんだよな……」
哀しいような、どうしようもないと諦めるような言葉に、フィリナの胸がズクンと疼いた。
「リナはしないよ。絶対、ごーもんなんてしないよ」
男の子がこのままフィリナを見捨てて行ってしまいそうで、すがる思いで手を取った。
その手は振り払われることなく、繋いだまま、地下牢へと歩いた。
岩に辿り着くと、葉っぱを持った男の子は一人、暗がりへと消えていった。
フィリナがいては邪魔になる。それに、エヴィルに殴られたことを気に病んでいるようでもある。
フィリナは大人しく、座って待つことにした。
不思議と待つ時間も楽しい。
相手が友達だからだろうか。
男の子といると、いつもよりも早く時が過ぎる。
月がゆったり遠ざかり、フィリナはこくりこくりと船を漕いでいた。
「……リナ?」
呼ばれて、まぶたをそっと開くと、すぐ目の前に男の子の顔があり、お互いに仰け反った。
心臓が走った後のように、とくとくと鳴っている。
「……こんなところに寝てると、風邪引く」
目を逸らした男の子は、まだ少しぼんやりとした様子のフィリナを起き上がらせた。
「家まで送る?」
もっと遊んでいたかったが、お昼寝ばかりしていたら、夜更かしを疑われてしまう。
そろそろ帰った方がいいかもしれない。
フィリナは一人で帰れると言ったが、彼はついてきた。
暗夜の森を子供二人、並んで歩く。
ずっと歩いていられる気がした。
いつまでも歩いていたい気がする。
触れた指先から絡めるように手を繋がれて、フィリナはどきどきしながら、囃し立てる月の下を家へと帰る。
帰りたくない、とフィリナは思った。
わざと少し、遠回りをした。
「――――カメリアの家は最悪だけど、リナみたいなのもいるんだな……」
「リナは執行人なんてやりたくないの。でも姉さまが、やらないとだめだって言うの」
「リナは何がしたいの?」
改めて訊かれると困ってしまう。
フィリナにあるのは、やりたくないことばかり。
「したいこと……?」
「例えば、美味しいものをお腹いっぱい食べたいとか、大金持ちになりたいとか、優しい恋人が欲しいとか、そういう普通のこと」
「リナは、……わかんない。難しい」
哀しいほどに、思いつくことが何もなかった。
黒血城の玄関の大扉が見えてきて、彼は歩みを緩やかに止めた。
「それはリナが幸せだからじゃない?生きることすら叶わない人だっているのに」
彼はとても嫌な言い方をした。
この逃れられない宿命を、無理矢理背負わされているフィリナに、幸せなどと言う。
心が、粉々に砕かれる音を立てた。
「幸せじゃないッ!リナはッ、人殺しになんか、なりたくないッ……!」
うわーっ、と泣き出したフィリナに、彼は弱りきり、慌てて宥めにかかった。
「ごめん!泣かないで……」
何度も繰り返し頭を撫でてもらい、フィリナが嗚咽を飲み込んで最後の涙の粒をこぼし終えると、彼は深々とした吐息をもらした。
描かれた涙の跡を、頬を包み込んで親指で拭う。
その仕草は彼の父親そっくりだった。
罪人だけど、彼には優しい父親だったのだろう。
「リナは……ただの人間になりたい。執行人でも罪人でもない、人間になりたい」
死神などと言われるのは、もう嫌だった。
彼は噛み締めるように、フィリナの切なる願いを受け止めた。
「……リナがずっと、リナのままだったら人間になれる。だから、リナは、――――血に汚れたりしないで」
ぎゅっと抱き締められて、フィリナはその真摯な想いを胸へと刻みつけた。
こくりとうなづき、幼けない未熟な心で誓った。
いつしか破られてしまうその誓い。それは、呪いのようでもあった。
「約束する。リナがそのままだったら、いつかここから逃がしてやる」
それが慰めの言葉だとしても、フィリナは嬉しかった。
その約束だけで、この先生きていけそうなほどに。
ずっとこのまま、この日のフィリナで居続ける。
彼が来るまで、――――例え、来なくとも。
血の呪縛に、逆らえるだろうか。
「もし、リナが変わってたら?」
抱き竦める腕に、力が込められた。
そして彼は言った。大人のような声で――――。
「そのときは、殺す。リナが、人間に生まれ変われるように」
またね、と言うフィリナに、彼は答えず、ただ手を振った。
さよならを、しているみたいだった。
そしてフィリナの不安は次の朝、形となった。
彼の父親が、断頭台へと連れて行かれたのだ――――。
◇
処刑場の空気が、フィリナは嫌いだ。
断首を見ようと集まる好奇心たちが嫌いだ。
遺族の涙も嫌いだ。
何もかもが、フィリナへと重たくのしかかる。
いくら逃れようともがいても、再びこの場所へと引き戻す、この、ーーーーカメリアの血が大嫌いだ。
通常の死刑執行には、数百人集まれば多い方と言える。
有象無象が犇めく広場。
断頭台の上で、彼の父親はすでに息をしていないかのように、ぐったりとしていた。
それでも、生きていた。
何の安らぎにもならない言葉を、教戒師たちがのたまう。
皆そうなのだ。嫌なことは人に押しつけ、高みの見物。
自分たちは安全地帯で、正義という名の刃を振りかざす。
手を汚すのは、穢れた血の死神ばかり。
国も、神すらも、フィリナは大嫌いだ。
断頭台に上がったのは、カメリアでもフィリナとは遠い血脈の者だった。
名も膾炙されていないような親戚。保守派の末端。
黒衣は義務ではなく、汚れた血が目立たなくさせるため。
そして、畏怖の対象であると誇示するため。
ならば黒も嫌いだ。
白だけ身につけ、鎧としよう。
罪人は嫌いだ。フィリナを苦しめる。
なぜ罪を犯さなければいけないのか。
世の中が悪いと言うのならば、それも嫌いだ。
レガートの信念が、正しいことだった。
死刑制度は廃止にするべきだと言う、従兄が。
あどけなく拙い頭の中で、フィリナは全てを罵った。
一生分の嫌いを使い果たした。
純粋な少女はもう、どこにもいない。
そして、ーーーーその瞬間が訪れた。
フィリナは処刑場の一番後ろで、それを見据えた。
執行人は刀を二度、振り下ろした。
下手で雑な手際に、悲鳴が上がり、野次が飛ぶ。ーーーー彼の声は、聞こえない。
フィリナは後で、あの執行人を詰ってやることを決めた。
二度と刀を持てないほどに。
何が保守派だ。執行一つ、まともにできなくてよくそんなこと口を叩ける。
フィリナはそんなやつらが大嫌いだ。
そしてどんどん自分が嫌になる。
彼の望んだ、フィリナが薄れていく。
気持ちがささくれて堕ちていく最中、人垣の向こうに彼を見つけた。
どろどろと蜷局を巻いていた感情が、一瞬で霧散した。
断頭台から運ばれていく亡骸を、彼はぼんやりと生気のない瞳でながめている。
見物人に肩をぶつけられ、罵声を浴びせられても、ずっとその場で立ち尽くしていた。
人がまばらになっていく景色の中で、彼の周りの時間だけが停止したように動かない。
初めて、日の当たるところで姿を見た。
だけど、遠い。
フィリナには近づくことはできなかった。
だって、名前も知らない。
呼びかけることのできないフィリナに、何ができるというのだ。
彼の父親を殺したのは執行人――――フィリナの体に流れる、血だ。
合わせる顔なんて、ない。
罪人の子供と友達になるということがどういうことなのか、理解していなかったのだ。
忘れていたエヴィルの声が、唐突に蘇ってきた。
『罪人の子供となんて、友達になれるはずないだろう』
今さら、嫌われることが恐くなった。
フィリナは後退し、身を翻してその場から逃げ出した。
走り去るフィリナが最後に振り返り見たのは、彼の頬を流れた、透明な涙だった。
あの涙が目に焼きついて、今も離れない――――。




