十九・追憶(前)
フィリナは幼い頃から地下牢に出入りしていた。
繰り返し質問をした。
――――何か言いたいことはある?
皆それぞれに言いたいことがあった。
だがどれも、フィリナを満たすことはなかった。
その日は少し肌寒く、それでもフィリナは外套も羽織らずに黒血城から忍び出た。
玄関からだと夜であっても、誰かに気づかれてしまうかもしれない。
なのでフィリナは秘密の通路を活用する。
一階にある厨房の換気窓。
こっそり這い出て閉めておけば、まず早朝までは気づかれることはない。
フィリナは白い靴を履いて、いつものように森へと駆けた。
今日の夕方、王宮から伝令鳩が飛んで来た。
これは罪人が地下牢へと入れられた合図だ。
いつもの質問をしなくては。
フィリナは一度でいいから、罪人に謝って欲しかった。
死刑執行人に人殺しをさせることへの、謝罪が欲しい。
罪人のせいで、フィリナは重い十字架を背負う運命なのだから。
表の森は、フィリナにとっては庭同然で、迷うこともなければ、恐怖を感じることもない。
コウモリもヘビもムカデも、フィリナが何もしなければ襲い掛かって来ないと知っている。
視覚に囚われず、闇夜ほとんど感覚で走っていると、地面にあるはずのない出っ張りで足を取られて、フィリナは顔面から転倒した。
昨日までは平らだったはずなのに。
フィリナは土塊だらけの顔で、じわりと目に涙を溜めた。
白い服が、茶色い服になってしまった。
「うっ……うっ……」
目を擦りながら泣いていると、フィリナの嗚咽に被せて、呻き声が背後から聞こえてきた。
「え?」
驚いた拍子に涙が止まり、フィリナは慌てて振り返った。
てっきり丸太が倒れていたのだと思っていたが、これは人間だったようだ。
這いつくばってここまで進んで来たがついに力尽きた、と全身で表現している倒れ様だ。
そして、今にも死にかけて見えた。
黒血城の女中さんたちが使う雑巾よりも汚れたぼろを纏い、べたつく髪は異臭を放ち、蝿が集ってきそうなほどだ。
ぼろから覗く伸びた腕は、垢と土とで褐色になっている。
大きさからしてまだ子供だ。
フィリナよりも少し大きく、そして枯れ枝のように痩せている。
胴の辺りをゆさゆさと揺らすと、子供はまた、かすかに呻いた。
「どうしたの?迷子なの?それとも、そーなん?」
暗さと、無造作に伸びたぐしゃぐしゃの髪が顔を隠しているせいで、辛うじて男の子だということしかわからない。
男の子はしきりに、『み』と『ず』を途切れ途切れに繰り返す。
それが『水』だと閃いたフィリナは、黒血城へと走り出した。
森には小さな湖があるが、その水は飲んではいけない水なのだ。
だから水が必要なら、黒血城が一番近い。
ほどなくして屋敷の裏手に辿り着いたフィリナは、換気窓から厨房へと忍び込んだ。
人の気配がないがらんとした厨房で、フィリナは自分の花柄のコップを、食器棚から背伸びをして掴み取った。
幼いフィリナが使いやすいように、女中さんたちが下の段にしまっておいてくれたお陰だ。
彼女たちはなぜか、フィリナには特に優しい。
にこにこしながら、水道水ではなく、飲み水用の樽から綺麗な清水をたぷたぷに汲んだ。
床に水溜まりをいくつかこさえたが、朝にはきっと乾いてしまうはず。
コップを両手でしっかりと持ち、フィリナは男の子が倒れている場所へと大急ぎで戻った。
しかし不思議なことに、到着してからコップを覗くと、水が半分にまで減っていた。
おかしいなぁ、と首を傾げながら、倒れたままの男の子の口へとコップを添えて、水を流し込む。
血色の悪いかさつく唇は、湿ってかすかに膨らみを帯びた。
一滴残らず飲ませると、男の子は少しだけ回復して、仰向けになった。
髪の隙間から、黒々とした木々の空を見据えている。
何かあるのかと、フィリナもつられて上を見上げたとき、男の子のお腹が盛大に鳴り響いた。
「お腹がすいてるの?」
フィリナの質問に答えるように、またお腹がぐぅと鳴る。
それを返事と受け取り、フィリナはすぐさま森を駆け巡った。
七つになったフィリナは、六つの頃より速く、長く走れるのだ。
庭に生っている木苺、森の奥で育ったフィリナだけが知る特別なプラム、そして名前は忘れてしまったが食べられる木の実たちをスカートいっぱいに集めて来た。
だけど着いた時にはまた、半分に減っていた。
「あれぇー?」
森に棲む妖精の仕業だろうか。
フィリナはきょろきょろしてから、しゃがんで男の子の口へと木苺を入れた。
素直に口を動かした男の子に、フィリナは顔を輝かせて次々木苺を食べさせる。
木苺が尽きたら、次はプラムだ。
「プラムはね、皮があるからむいてあげるね。種が大きいから、気をつけて食べてね。――――はい、あーん」
皮と一緒にところどころ実が抉れたプラムを、男の子は間隔の空いたでこぼこな歯で噛んだ。
「……酸っぱい」
一口は食べた男の子だったが、その後は唇を固く閉ざした。
「プラム嫌いなの?じゃあ、リナが代わりに食べてあげるね」
男の子が食べ残したプラムを、フィリナは躊躇なく頬張る。
酸っぱいが、この柔らかな果肉と溢れる果汁がフィリナは好きなのだ。
男の子はまじまじとフィリナを見つめて、放心しているようだった。
フィリナが食べ終え、種を草むらへと放り投げた辺りで、ようやく我に返った男の子が口を開く。
「……誰?」
「リナだよ?」
「……誰?」
お互いに目をぱちくりとさせ合った。
視界はほぼ薄闇に包まれているが、フィリナにはそんな気がしたのだ。
「あなたのお名前は?」
「……」
「どうしてここにいるの?」
「……」
「木の実食べる?」
「食べる」
フィリナはスカートの上に転がる木の実を摘まんで食べさせた。
これはプラムと違い、よく食べてくれる。
木の実を一つ残らず食べ終えた男の子は、ふらふらと体を起こすと、側にあった木にもたれて、フィリナと向き合う形で座った。
靴を履いておらず、足の裏は皮膚が固そうだ。
フィリナの靴では小さすぎて、貸してあげることはできない。
同じくらいの年に見えたが、もう少し上かもしれない。
「ねぇ、こんなところで何してたの?新しい遊び?都ではそういうのが流行ってるの?」
「……質問が多い。そっちこそ、何してたんだよ」
ぶっきらぼうに言われて、フィリナは戸惑った。
黒血城と森からほとんど出たことのないフィリナに、同世代の友達はいない。
一族ではフランが一番年が近いが、友達というよりかは家族の方がしっくりとくる。
フィリナは、他人とどう接すればよいのか困難を極め、途方に暮れて俯いた。
「……怒った?」
フィリナが沈黙したからか、男の子はおそるおそる尋ねてきた。
「ううん。リナ、お友達がいないから、どうすればいいのかわからないの」
「普通にしてればいいんじゃない?」
「普通に?」
「うん。こんな魔窟みたいな森で何してた?」
「リナは地下牢に行くところだったの」
「地下牢!?」
普通にと言われたので、嘘偽りなく事実をそのまま伝えた。
そして本来の目的を失念していたことへと意識が向き、すくっと立ち上がったが、男の子が乾いた傷だらけの手でフィリナの手を掴んで行く手を阻んだ。
「地下牢?」
確認するような声色で確認され、フィリナは逃げ腰になった。
「……うん。……あなたも、リナのこと、嫌い?」
「……何で?」
「リナが、……カメリアの娘だから」
男の子が反射的にぱっと手を離し、フィリナはしゅんと肩を落とした。
いつものことなのに、哀しい気持ちに慣れることはない。
誰も、フィリナの友達にはなってくれないのだ。
まだ石を投げつけられないだけ、ましかもしれない。
とぼとぼ歩いて行こうとしたフィリナの手を、男の子が再度取った。
顔を振り向け、窺うように見上げると、男の子は必死な様子で懇願をした。
「連れて行ってくれ!地下牢に行きたいんだ!」
「え、でも……」
「何でもするから!」
「何でも?」
「何でも。……えーと、リナ。リナの言うことは何でも聞く」
男の子は真剣にそう言うが、フィリナには、して欲しいことが思い浮かばずに困ってしまった。
なかなかうなづかないフィリナに、男の子は懸命に頭を働かせている。
「他に、えーと……そう!友達にもなるし、恋人にだってなってやる!」
恋人はさておき、友達、という言葉にフィリナの心は惹かれた。
これまで誰一人として、なってくれなかった友達。
男の子はカメリアの娘と知って、友達になると言う。
「本当?友達になってくれる?」
「なるから、お願いだから、地下牢に連れて行ってくれ」
その切実さに負けて、フィリナは地下牢への道案内をすることになってしまった。
歩き始めると、男の子は黙々とフィリナの後をついて来た。
迷子になっていないか、何度も振り返り確認しては進んだ。
森の妖精に、半分奪われてしまわないかも気にしながら。
大きな岩の下で足を止めると、男の子は隣へと並び立った。
その時になってようやく、男の子の背がフィリナよりも頭一つ分高いことに気がついた。
男の子は、これからどうするのか尋ねるように、フィリナの顔を覗き込んだ。
ここから先、岩の隙間を潜るとさらに暗さが増す。
なのでフィリナはおそるおそるとだが手を差し出した。
嫌な顔をされたらどうしようと、フィリナは自分の手のひらだけを見つめ続けた。
すると逡巡していた男の子の手がそろりと伸びてきて、包み込むように手を握り、フィリナは、思わず顔をほころばせた。
フィリナが半歩前を歩き、岩の空洞を奥へ奥へと進んでいく。
行き止まりとなった土の壁の下部から、円形の明かりがもれ出していて、一度足を止めて耳を澄ませた。
兵士たちの声は、していないようだ。
抜け道を塞ぐ塊を押していると、男の子も一緒に手伝ってくれた。
先にフィリナが地下牢へと踏み込み、大丈夫そうと判断してから男の子を手招きする。
男の子は転がるように飛び込んで来ると、一目散に、一つだけ埋まっていた牢の鉄格子へとしがみついた。
「――――父さんッ!」
フィリナは虚を突かれ、茫然とその光景をながめた。
「おまえ!どうしてここに……!?」
牢にいたのはおじさんだった。
男の子と似たようなぼろを着ていて、牢の奥から鉄格子まで這うように寄って来る。
おじさんは驚きながらも嬉しそうに、涙の溜まった目尻に皺を作った。
そして鉄格子から手を伸ばして、男の子の頬を愛しむように撫でた。そして親指で、何かを拭う。
もしかしたら男の子が、泣いていたのかもしれない。
しばらくして、おじさんは陰に佇むフィリナの存在に目を止めた。
「その子は……?」
男の子はさっと目元を拭い、言いにくそうにしながらこれまでの経緯を説明した。
フィリナがカメリアの娘だと聞くと顔が強張ったが、すぐに優しい表情に戻った。
「こいつを助けて、連れて来てくれて、ありがとう」
その言葉に、フィリナは動揺してたじろいだ。
初めて言われた、ありがとうだなんて。
欲しいのは真逆の言葉なのに、胸を衝かれて声も出ない。
例の質問は、必要なかった。
その時、扉の開く微弱な音を、吹きつける風が運んで来た。
階上からだ。兵士が見回りに訪れるかもしれない。
フィリナは即座に男の子の手を取ると、鉄格子から引き離そうとした。
嫌だと叫ぶ男の子を、おじさんが何とか諭して言い聞かせた。
「行くんだ。おまえまで捕まってはいけない」
徐徐に兵士たちの話し声が近づいて来る。階段を下る足音もだ。
男の子も状況を理解しているようだが、足に根を張ってしまって動けないでいる。
「行きなさい」
潜めた強い口調でおじさんが言い、男の子は後ろ髪を引かれながら重たい腰を上げた。
フィリナが力の限りを尽くして男の子を抜け道へと押し込み、穴を塞いだ直後に、兵士たちが牢へと入って来る気配がした。
胸を撫で下ろして、肩を落とす男の子を地上へと導く。
男の子は何も話さず、フィリナも口を開かなかった。
月明かりの注く道を黙って通り過ぎ、岩の間から外へと出ると、男の子はそのままとぼとぼとどこかへと帰って行った。
その後の記憶はフィリナの中で曖昧になっている。
ただ、男の子を見送った後、エヴィルが現れた。
殴られて、たぶん手を引かれて黒血城へと帰った。
何か言われたはずなのだが、朧気にしか残っていない。きっと、殴られたせいなのだろう。




