一
午後から降り始めた雨に、百日紅の花が水滴をたっぷりと含み、大きく頭を垂れていた。
その様子に、かすかに眉を寄せたフィリナは、枝をむんずと掴むと思い切り上下に振った。動物よろしく雨滴を飛ばして、百日紅の花は元の高さへと戻っていった。
満足して手に届く全ての枝を振った代わりに、フィリナは濡れネズミだ。
ぺたんこになった金糸の髪が、顔に張りつき、指先で弾く。
木の根元にしゃがむと、服が泥だらけになるのも時間の問題だった。
幹に体を預け、空を仰ぐ。
泥にまみれた服は、フィリナ自身を投影しているようだった。
この両手で、何人の命を屠ってきたのだろうか。
無意識に数えることをやめることができたのはいつだったか。
幼い頃の純粋な信念と、大切な約束を切り捨てた。
希望はもうない。
フィリナは、自分の足を締め付ける漆黒の編み上げ靴にそっと触れた。
血だまりを踏みつけて地獄を歩くための、誓いと、枷。
『リナ、これは運命じゃないの。宿命なのよ』
『リナは、――――血に汚れたりしないで』
記憶の澱で、霞むことなく鮮明に響く二人の声。
耳を塞ぐことに、意味はないことを知っている。
だから、まっすぐそれらに問いかけた。
雨のベールの向こうにしとどに濡れた墓石がずらりと並ぶ、その全てに。
「……どうしてあなたたちは、こんなことを続けてきたのですか」
疑問であったが、責めているだけなのかもしれない。
この十八年間、ずっと――――。
ひっそりと物悲しい森の中で、人々が暮らす街を遠くに臨むこともなく、死してなお、縛りつけられている。
安らかに、眠れているのだろうか。
ばらら、と葉にたまった滴がこぼれ、フィリナの頬を濡らした。
涙のように頬を撫で、滑り落ちる。
冷たい墓石は答えを返してくれず、ただ強まる雨だけがフィリナの耳を打ち続けていた。
♦︎♢♦︎♢♦︎♢
黒檀の屋敷は雨で艶を出していた。
烏さながらの闇夜を思わせる黒さは、森に囲まれ禍々しさを際立たせている。
果てしなく続く樹海と屋敷は、不気味な調和を見せていた。
死刑執行を生業とする一族、カメリア家。
穢れた血が脈々と受け継がれて黒く染まったと噂される屋敷――――黒血城。
その回廊を、ぱたぱたと小さな屋敷女中が駆けていた。
「リナさまー?……フィリナさまぁー!」
走るたびに結わえられた赤毛がひょこひょこと揺れ、先輩女中たちに微笑ましく見られていることを、当の本人は全く気づいていない。年齢よりも幼く見られがちなのは、くりっとした大きな茶色の瞳と屈託のない笑顔のなせるわざだ。
おどろおどろしいこの屋敷で働く使用人たちは、それぞれ街にいられなくなった理由がある。
楽しそうに仕事をする少女は、荒んだ気持ちを和ませる癒しだった。
屋敷内を右へ左へ走り回り、ちょうど正面の玄関口を通りかかると重厚な大扉が開き、雨風と共に若き城主レガートが金の髪を振りながら入ってきた。
「だ、旦那さま!ずぶ濡れじゃないですか⁉︎」
レガートは、雨よけの意味をなさないぐっしょりと濡れた外套を脱ぎながら、深く息をついた。
「すまないね、チリル。傘を忘れたんだ」
苦笑する彼に、どこに、とは聞かなかった。
朝きちんと持って出掛けたのを知っているので、出先に忘れてきたのだろう。
たぶん、聞かれたくないことだ。
濡れた髪をかき上げるレガートの姿は絵になったが、風邪を引くといけないので、チリルは慌てて拭くものを取りに走った。
この城でチリルが仕える主はフィリナだ。一番慕うのは彼女だが、レガートのことはその次に好ましく思っている。
従兄妹同士で顔立ちが似ているということもあるが、あまり死刑執行人らしくない雰囲気だからだ。
彼は若き一族の長でありながら、使用人たちにも気さくに話しかけてくれる。
ぱりっとよく乾いたタオルを取って返し、両手で差し出すとレガートが腰をかがめて、にこやかに受け取ってくれた。
ありがとう、と言われるとチリルの顔は自然とほころんだ。
レガートは髪を拭いながら、はたと気づいたように首を傾げてチリルを見た。
「そういえば、何をしていたんだ?リナでも探していたのかい?」
チリルもそのことをすっかりと忘れていて、はっと大きく目を見開いた。
「そうです!リナさまに伝令があったのです!」
王宮からの伝令鳩が、ついさっき来たところだった。
鳩はしばらく雨宿りをしていくのか、今は軒先きのある窓辺で灰色の空を見上げているはずだ。
レガートはすっと冷たく目を細めてから、「……そう」とだけ口にした。
チリルは黒血城に奉公に来てしばらく経つが、レガートがフィリナに仕事をさせることを、殊更嫌っていることにはすぐに気がついていた。
だがそれに反するように、フィリナへの召集は増えるばかり。
死刑の執行は一種のパフォーマンス。犯罪の抑止効果という名目で、大げさに人々へと晒すのだ。
カメリア家の中でも、名の知れた執行人の場合、恐ろしほどの盛り上がりを見せるという。
大剣を携えた黒衣の執行人は死神と揶揄され、普段は忌み嫌われた存在でありながら、このときばかりは正義の味方とばかりに囃し立てられる。
チリルはそれを見たことはない。
見なかった、という方が正しい。
裁判で死刑判決を受けてすぐ、罪人は組み上がった断頭台で三日三晩衆目に晒される。
それさえも、見たくはなかった。
だからチリルはいつも、お迎えをする。
本当は一番行きたくないと思っているフィリナが、安心して帰って来られるように。
刀一振りの、苦行から――――『白の死刑執行人』を。
「あの、……どうしてリナさまは、白い服をお召しになるんですか?」
執行人の正装は決まって黒衣だ。フィリナも靴こそ黒だが、いつも純白のドレスを着ていく。
執行人が黒を着るのは、血で汚れても目立たないからだ。
しかしフィリナは、そのドレスに一滴の血染みも作らず帰ってくる。
黒を着て行けば、気づかれることはなかったのに。
その服を洗濯する、女中以外には。
血が彼女を避ける。
白い少女。穢れなきカメリア一族の末娘。
名が知れ渡るのにさほど時間はかからなかったという。
その頃チリルはまだこの城にいなかったので、これは先輩たちからの伝聞だ。
レガートは遠くを見つめたまま、痛みをこらえるような顔でため息をついた。
「反抗期なかのかもね」
……はぐらかされたらしい。
なのになぜか、その言葉がすとんと腑に落ちた気がして、チリルはレガートが見続けている窓の外へと、目を向けた。
雨足が弱まり、雲間からひとつ、天使の梯子が伸びていた。
♦︎♢♦︎♢♦︎♢
レガートは自らの執務室へ籠ると、チリルに渡された湿気ってへろへろになった伝令書を、屑籠へと放った。
雨で溶けて消えてしまえばいいのだ。
忌々しい伝令のせいで、午前の会議での苛立ちが蘇ってきた。
椅子に腰掛け、執務机に頬杖をつく。
さっきから眉間にシワが寄りっぱなしだ。一人でいるときぐらい、城主らしく振る舞わなくともいいだろう。
レガートよりも年上の人間はいくらでもいるというのに、世襲制のせいで一族の長だというのは気が滅入る。
まだ、三十になったばかりだというのに、窓に映る自分をながめて、随分と老けたな、とレガートは嘆息をもらした。
カメリア一族は実質二派閥が存在し、レガートは少数派閥の革新派だった。
長となれどそこは変わらない。
カメリア一族でありながら死刑の廃止を訴える異端児。自らの首をしめる自虐者。
どう言われようが、構わない。好きにすればいい。
議会に席があるだけで、レガートに発言権はあってないようなもの。
死刑廃止法案が可決されないのは、レガート以外が揃って首を横に振るからだ。
内容のない上っ面だけの会議に、国の予算が使われていることを、国民は知る由もない。
傘が一つ、だめになっただけで済んだのは幸いだったと言えるだろうか。
死刑を廃止できないのは、東と西に位置する国の存在が大きい。
かつてこのアルシエ中央国は、東のクルシと西のナイシェをまとめて一つの国だった。
国が三つに分裂するはるか以前、神と崇められた当時の国王とカメリア一族の祖先が、ある契約を結んでいた。
――――死刑の執行を、カメリアの血にのみ許可をする。
過去の遺物である魔術を持った国王によって行われた契約は、二人が交わした契約書を破棄することでしか無効にできない。
その契約書は王宮内のどこかに保管されているようだが、レガートはそれを見たことすらない。
見ずとも、契約に縛られていることは、一族のものならば身をもって知っている。
アルシエ中央国は、分裂と同時に死刑執行人の他国への渡航を禁止させた。当時の国王による臨機応変な素早い判断によって、カメリア一族は黒血城という名の檻に幽閉され続けている。
カメリア一族以外の死刑執行は、神をも恐れぬ行為。
故に、東と西に死刑制度はない。
先の戦で捕らえた捕虜も、命だけは無事だろう。
――――この国と違って。
捕虜の返還を求められ、どんな顔をして拒み続けているのだろうか。
もちろんそれはレガートには関係ないことだが。
狡猾な笑みを浮かべながら、フィリナへと召集命令を出した法務担当グロッツ・オーウェンの顔が脳裏に浮かび、レガートの握りしめた拳が小刻みに揺れた。
他の誰かなら、まだ心に余裕があった。
それなのに、またフィリナだ。
ばかのひとつ覚えのように、フィリナ、フィリナ、フィリナ!
カメリア家による死刑執行は正義。人を殺しながらに神の加護を受けている、と歪んだ正論を振りかざして腹の中では蔑みの言葉を吐く。
「殺人者と何が違う!」
神が認めれば安心できるとでも言うのか。
ちっぽけな人間の精神が、壊れないとでも言うのか。
フィリナは変わってしまった。
――――あの日から三年。
その月日は、もう、とも、まだ、ともつかない。
幼い頃の無邪気なくったくのない笑顔も、透きとおった大粒の涙も失ってしまった従妹に、レガートは己の無力さを痛感していた。
悪と知りながら剣を振り下ろす苦しみを、誰より理解できるというのにだ。
ふと、部屋の壁に掛けられた油絵へと目を向けた。
レガート自身が描いた、両親の肖像画。その中で寄り添う二人は普通の人間のように、後ろ暗さのない穏やかな表情をしている。
それが息子の前で繕われたものなのかは、思い出すこともできない。遠い過去だ。
そしてもう一つ、この部屋には不釣り合いな淡い紅色の額縁におさまった、肖像画。
主をなくした部屋から移したものだ。
相変わらず頬杖のままのレガートを、絵の中の彼女は悲しげな眼差しで見つめ返している。
「君はもっと……意思の強い目をしていると思っていたよ」
どれだけ待っても、彼女は何も言ってはくれない。レガートの言うことを素直に聞く性格ではなかったからだろうか。
いつしかすっかりと雨は上がり、西日が差してきた。
朱に染まったレガートの横顔に、影がさす。
見透かしたかのように、ピアノの物悲しい旋律が城内に響いた。
その夕刻の鐘に促され、白亜の王宮城へと鳩が帰っていく。
黒血城はその城の影にすっぽりと飲み込まれ、夜に溶けていった。
♦︎♢♦︎♢♦︎♢
鳩が無事王宮へと飛び去り、暗澹とした森の下にふわりと羽根が落ちた。
フィリナは百日紅の花の影から、それをじっと見上げていた。
ここは人が迂闊に足を踏み入れない、闇と死の森。
迷い人は生気と正気を吸いとられ、最期には木々へのささやかな糧として土に還る。
そんな不吉な噂が流布しているため、フィリナが他人を見かけることは久しくなかった。
恐ろしの森とは名ばかりで、フィリナにとってはただの広い庭のようなものだった。
手探りでしか前に進めない暗がりも、どこに何があるかさえ把握していれば、目を閉じていても歩くことができる。
しかしそれは黒血城から王宮側に続く表の森だけの話で、果てしなく広がる裏の森には入ることも禁止されている。
フィリナがそれに背いたのは、一度だけだ。
幼い少女は森の果てを知った。
永遠だった森にも終わりがあって、その先に始まりがあった。
今は、表の森を進む。
フィリナは生乾きの白い服を揺らし、闇と同化した編み上げ靴で泥の水溜まりを踏み締めた。
ばちゃり、と泥が飛び散り、素足に水玉がいくつもできた。
伝令鳩が来たということは、召集命令があったのだろう。
誰が呼ばれたにせよ、極めて死刑判決に近い罪人が捕らえられ、地下牢にいることだけは確かだ。
またか、とフィリナは思う。
裁判とは儀礼的なもので、あらかじめ決められた判決を言い渡す場だ。弁論を行う場ではない。
だから早い段階で、執行人へと伝令が来る。
牢に囚われたが最後、反論の機会もなく罪人となる。
それがこの国の制度で、この国のやり方だ。
木々の間を縫い、ようやくフィリナが立ち止まったのは、地面からせりだした巨大な岩の下。
その陰にある空洞へと、ためらわず身を滑り込ませた。
人一人通るのがやっとの抜け穴を潜り抜けると、洞窟のような開けた場所へと出る。
普通の家が難なく収まるような高さの天井からは、ひっそりとした月光が細い筋をいくつも引き、足元を照らしていた。
誘うように風が右側にある通路の方へと背中を押すが、フィリナはそちらには見向きもせず、左側の淀んだ空気の通り道を選んだ。
ひたひたと触れる土は、湿っていて冷たい。
人為的に掘られたのか地面は平らで、暗くとも歩きやすかった。
探検といって心をときめかす幼心もなければ、先行き見えぬ不安もありはしなかった。
そしてフィリナは導かれるように仄明るい光の輪を見た。
この先にあるのは奈落の手前。
死を待つ罪人たちの怨嗟を閉じ込めた、地下の牢。
ここがあの洞穴に続いていることを教えたのは、世界でたった二人だけ。
フィリナを慕う、可愛いチリル。
そして、永遠に失ってしまったかつての友達――――。
フィリナは左肩に強く爪を立て、痛みで思考を打ち消した。
穴を塞いでいた膝丈ほどの泥玉を横へと転がすと、鈍い音と鼻をつく悪臭が洞窟の方へと一気に流れ出してきた。
地下牢内に溜まっていた汚れた空気が、足元を次々に抜けていく。
フィリナは中の様子を伺うために、屈んで穴を覗き込んだ。
フィリナの立場なら、特別尋問だと言って正面から堂々と入ることもできるが、レガートが悲しむのでしないことにしている。
特別尋問とは拷問のことで、死刑執行人にのみ許された権限だ。
例え中で何もしなくても、看守の兵から一族の長へと逐一情報が伝わる。
彼を一時でも不快にするぐらいなら、服を泥だらけにすることぐらい訳もない。
止まない鈍い音と、兵士たちの愉快そうな声がし、フィリナは黙ってやり過ごした。
一方的な暴力の響きを――――。
それらが一族の誰かではないのは明らかだった。
擁護するわけではなく、彼らはもっと陰湿だからだ。
拷問する方が声を荒げたりはしない。
ましてや今聞こえているような、卑下た笑いなど……。
殴る、蹴る。単純な暴力では、口を割らせることなど望めない。できるのは憂さ晴らし程度だろう。
息を潜めているフィリナに気づくことなく、ある牢から二人の兵士が出てくると、片方が笑いながらも厳重に南京錠に鍵をかけた。
もう一方は角灯の火をつけ直してから、燭台の蝋の火を吹き消す。
二人は他愛ない会話を交わしながら、角灯を手に地上へ続く階段を足取り軽く上がって行った。
扉の閉まる音がして、しんと真っ暗闇が落ちた。
フィリナは地面を探り、指先にこつんと触れた小さな箱を手にすると穴を潜り抜けた。
湿気っていなければいいが、とフィリナは小箱からマッチ棒を一つ取り出しながら、さっき消されたばかりの燭台へと向かった。
シュッ、と擦りつけると、弱々しい炎が浮かび上がり、消えてしまわない内に燭台へと灯した。
フィリナの姿が幽鬼のようにゆらめき、ようやく鉄格子の奥へと、目を向けた。
ひたと見つめる先からは、うめき声ひとつない。
あれだけの暴力に耐え、突然現れたフィリナに驚くこともないとは。
あえて靴音を立てて近づいた。
燭台の明かりでは、牢の奥までぼんやりとしか照らせない。
だからだろうか、壁にもたれ片膝を立てている青年の顔が、面白そうにほころんでいるように見えた。
彼は赤紫色に腫れた、血のにじむ口の端で、静かに笑っていた。