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執行人の逃亡  作者: 名紗すいか
前編
17/40

十六



 −−−−妹が、嫌いだった。



 エヴィルは黒血城内にある図書室の窓枠に腰掛けて、分厚い本を膝に乗せ、流すように文字を目で追っていた。

 柔らかな日差しと優しい風を肌で感じていると、庭から桃色の花びらがふわりと運ばれ、開かれた本の上へと栞のように収まった。

 庭を見下ろすと、ちょうどルゥナと向かい合っていたフィリナが、身を翻して走り去っていくところだった。

 声は聞こえずとも、やりとりのおおよそは察しはつく。

 あの二人は毎度懲りもせず、同じことを言い合っている。


 エヴィルはそっと花びらを摘まむと、外の風へと返した。

 花びらはくるくると宙を舞って、視界から逸れていく。


 そしてパタンと本を閉じたとき、図書室の前の回廊を、フィリナがとぼとぼとした足取りで過ぎていくのが見えた。

 頬が赤くなっていて、エヴィルは嫌なものを見たとばかりに、嫌悪で顔をしかめた。

 執行人であることを拒絶するフィリナだけでなく、しつこく説教するルゥナにも、エヴィルは不快感を抱いていた。


 フィリナのことなど、初めから期待しなければいいというのに。


 だからエヴィルの瞳は、フィリナを追いはしなかった。

 フィリナと話すこともなければ、目を合わすこともない。

 もうずっと、遥か昔からそうだった。


 お互いに、近寄らない。干渉しない。


 一族の皆は、エヴィルの方がフィリナを嫌っていると認識している。フィリナ本人も、そう思っている。


 そうして距離を保ち、関わらないように生きてきた。


 フィリナは、ルゥナやレガートに懐いていたので、エヴィルが何かする必要はほとんどのなかった。

 フィリナの夜歩きさえ、誰にも知らせず、咎めなかった。


 殴ったのも、たった一度だけ。


 だがフィリナは馬鹿なのか、殴った次の日にまた同じことを繰り返す。


 あれは何を言ってもだめな人間だ。


 フィリナに、執行人は向いていない。


 顔も覚えていない子供の戯れ言を、心の支えにしてに生きているような異母妹に、何を期待しろというのだろうか。


 風に揺れた前髪を払うと、同じように髪を浚われているルゥナの姿がそこにあった。

 図書室の扉を開けたまま、ルゥナが入り口付近で立ち止まり、長い黒髪を耳へとかけてから、エヴィルをちらっと見遣り、微笑した。

 白い肌に、ほんのりと赤みが差す。


 エヴィルのもう一つ。片割れの、妹。


 揺るぎない黒い瞳が、ひたとエヴィルを捕らえていた。


 凛とした立ち姿は、いつもながら堂々としている。


「――――もう諦めろ」


 ルゥナが引かないとわかっていても、口にして告げたのは、それがエヴィルの率直な気持ちだったからだ。


 くだらないから、諦めろ、と。


「最初から傍観しかしていないあなたには言われたくないわ」


 ルゥナはエヴィルの座る窓枠とは反対の、二枚重なる窓ガラスへと背を預けた。

 首だけエヴィルへと向けて、甘えるように名前を読んだ。


「ねぇ、エヴィ」


「俺は知らん」


「可愛い妹じゃない」


「そんなこと一度も思ったことはない」


 エヴィルが一刀両断すると、ルゥナは淡々とした口調で訊いた。


「父さまが、若い女中に産ませた子だから?」


「別にそのことは関係ない。この家ではよくあることだろう」


 黒血城で働く女中たちは、少なからずカメリア家に恩義を感じている。

 求められれば、応えてしまうのだろう。

 一昔前まではよくあったことだ。

 今ではそうならないように、レガートが厳しく目を光らせている。

 一族長として、女中たちの嫁ぎ先まで探して来る徹底ぶりだ。


「じゃあ、何で?」


 ルゥナはまるでわからないという顔をして訊いてきた。

 わかっていて、エヴィルに言わせる。

 だから視線を逸らすことなく、ルゥナを見据えた。


「ルナと、同じ理由だ」


 ルゥナは笑った。音をたてずに、表情だけで。


「私はあの子を、妹として愛しているのに?」


「俺はあいつが出来損ないだから突き放す。おまえは、出来損ないの妹というのが許せないから、構う。自分の思い通りになるように。――――違うか?」


 フィリナのことなど、本当の意味で見てはいなかった。


 ルゥナは不服そうにエヴィルを睨んでから、目を逸らした。


「違うわ。私はちゃんとフィリナのことを思ってるもの。あの子が執行人を嫌がるのは欠けたものがあるからよ。私やあなた、レガートとでさえ持っている正義。それがフィリナにはない。恐い、嫌だ、を踏み潰せるほどの正義が」


 ルゥナの断固とした口調に、エヴィルは危うさを感じた。

 ルゥナの中にある確固たる正義が、執行人である彼女を支えている、と聞こえた。

 それを失ってしまえば、壊れてしまうとでもいうように。


「……ルナの正義は、何だ」


 ふ、と我に返ったルゥナはエヴィルに向き直った。

 同じ顔が、同じ瞳に映される。

 鏡を見ているようだった。


 ルゥナは、笑った。だが、泣いていたのだろうか。


 ルゥナはゆっくりと唇を開き、風に浚われそうな声で、言った。



「私の正義は、神さまよ」





 それからたった数日後、断頭台で初めてルゥナの味方をした。最初で、最後の。


 抱き上げた頭は鉛のように重く、羽のように軽かった。


 もう何も聞くことのない耳へと、エヴィルは唇を寄せた。


 ルナ、と囁く。


 仇を取るのはフィリナでなければならない。


 それがおそらく、ルゥナの望み。

 穢れのない妹への、妬み。


 ならばエヴィルの、このひどく歪んだ感情はどうすればいいのだろうか。

 行き場を失った憎しみを、どこへとぶつければよいのか。


 フィリナだろうか。


 ――――いや、違う。


 エヴィルはフィリナを、妹として可愛がっていなかったが、嫌っているわけではなかった。


 もう一度、エヴィルはルゥナの名呼んだ。


 おまえはこれで、満足か。――――大嫌いな妹を、奈落へと導けて。



 ぽろん、と哀しげなピアノの音がした気がして、振り返った。



 フィリナが、一滴の涙をこぼして、立っていた。


 ルゥナの漆黒の編み上げ靴を、その綺麗な、穢れを知らない足に履いて。




◆◇◆◇◆◇



 咆雷と、篠突く雨の中、不思議とピアノの音色だけがフィリナを浅い眠りから揺り起こした。

 廃墟の薄汚れた床、レイズの腕の内側で、はたりと目を覚まして、耳を澄ませる。


 聞き慣れた鎮魂曲。空っぽの響き。ルゥナの痛烈な音をなぞるだけの、エヴィルの演奏。

 フィリナを誘う、花蜜の旋律。


 顔を上げ、レイズ越しに窓を見遣る。

 真っ黒な、暗澹とした夜だ。


 エヴィルが、呼んでいる。

 あの日のように。


 そろりと腕から抜け出そうとすると、戒めがきつくなった。


「どこに行く気?」


 眠っていたのが嘘のような、はっきりとした声だった。


「エヴィル兄さまが、呼んでいるの」


 レイズには聞こえていないのか、周囲へと神経を尖らせている。

 行かないと、と口にしたフィリナに、レイズが皮肉っぽく笑った。


「僕よりも、兄さまを選ぶんだ?」


 そう言われて初めて、逃亡中であったことを思い出した。


 エヴィルが兄として、フィリナを導いている。

 おそらく彼なりの、最後通告だ。


 エヴィルを取らなくてはいけない。

 たった一人の、血の繋がった兄なのだから。


 それなのに、フィリナはレイズから目を離すことが出来なかった。

 答えなんて、とっくに心で決まっているのに、狡くも小さく頭を振る。


「私はどちらも、選ばない」


「……でも、ここにいるんだね?」


 元通り収まったフィリナを撫でながら、レイズは小首を傾げて問い掛けた。


「人質に選ぶ権利なんてないわ。あなたの手が私を離さないかぎり、ここが私の居場所。逃げられないし、たぶんきっと−−−−帰る場所もないわ」


 常闇の世界でフィリナは、今だけは確かにここにある、二人分の体温だけを頼りに、嵐の夜を明かした。




            ◇




 夜明けとともに雨が止み、フィリナはレイズと廃墟を後にした。

 一階で眠りこけている人たちを気遣って、外へと出たフィリナだったが、土の泥濘にぴたりと足を止めた。


「レイズ、靴をちょうだい」


「どうして?」


 フィリナは黄色靴をしっかりと履いている。

 それなのに、編み上げ靴を要求した。

 理由なんて、そんなの決まっている。


「靴が、汚れるから……」


 この黄色い靴は、泥でさえ汚したくなかった。


 フィリナの言い分に、レイズは苦笑しながら編み上げ靴を前へと置いた。


「靴って汚れていいものじゃなかった?この国では新しい靴は、大事に胸に抱いておくものなんだ?」


 フィリナは履き替え終えた黄色い靴を抱えて、少しむっとした。


 これはレイズが買ってくれた靴だからだ。


 からかうような表情をしているので、わざと言っているのだろう。

 はい、と手のひらを差し出されて、フィリナは渋々靴を渡した。

 そして反対の手は自分から取りにいったフィリナに、レイズはいい子だねと褒め、強く握り返す。


 泥水を蹴散らし、泥濘を駆け、二人は東へと目指して走り抜けた。




「ねぇ、チリルたちはどこで落ち合うの?」


「雨が止み次第街を出るとしか決めてないって、昨日も言ったよね?」


「……それって大丈夫なの?」


 さぁね、とレイズは返す。いつも行き当たりばったりだ。


 空が白み始めると、少しずつ街が日常を取り戻していく。

 雨上がりの澄んだ空気は、ひやりとしている。

 樹木の葉からこぼれた滴に朝日が映り、水溜まりへと、ぴちょんと落ちた。

 そしてそれを、フィリナが跳ねるように跨ぐ。

 鮮やかな布の街を金色に染める太陽を背に、フィリナとレイズは先へと進む。

 舗装されていない歩道を行く二人は、徐々に木と草と陰湿な雰囲気に飲み込まれていった。


「本当にこの道で合ってる?」


 鬱蒼とした森林は日の光を遮り、二人の行く手を阻んでいるようであった。


「東へ向かっているという意味では合ってるね。本当は新しい公道もあるんだけど、逃亡者がそっちを使うのも間抜けな話だからさ」


「……あなた、地図でも頭に入っているの?」


 フィリナは感心したように、レイズの頭部をながめ見た。

 金色を帯びた茶色い髪は、樹木の陰で、歩くたびに不思議と黒く揺れ動く。


「旅をする人間は地図が一番大事だからね。君はずっと、あの場所から出たことがない?」


 フィリナはわずかに考えてから、首を振った。


「あるわ」


 旅行はしたことがないが、遠出というならばある。

 幼い頃だ。まだ嫌だという感情だけで、都からも黒血城からも離れて、どこまでも行けた。


 その日、執行人を、一族を、心から軽蔑した。


「……昔の、話よ。鞄の中に大切なものだけを詰め込んで、夜中の内に家を出た。いつもの王宮へと続く表の森の反対、裏の森を真っ直ぐ歩いたの」


「家出かな?それで、どこまで行けた?」


 フィリナは目を極み、あの光景が今目の前に広がっているかのように正確に伝えた。


 あのキラキラと輝く、果てしなき世界を。


「青だったわ。一面の青い水。空の色と似ているのに、はっきりと真ん中で分かれていた。私、こんなに大きな湖があるんだって驚いて、口を開けたまま白い砂の上で立ち尽くしていた」


 レイズがぷっと吹き出し、抗議の目を向けると、ごめんごめんと謝った。


 子供だったのだから、仕方がないのに。


「それが海だってことぐらい、もう知ってるわ。私を捜しに来たレガート兄さまが教えてくれたもの。――――この青くて広大な水域が海だよって。しょっぱいから飲んではだめだと強く言われたわ」


「くくっ……。君が飲むと思ったんだ?……ははっ」


「……笑いすぎよ。湖の水だって、飲んだことないわ」


 レガートだって、そこまでフィリナを低く見てはいなかったはずだ。


「……レイズは海がどうしてしょっぱいと思う?」


「ん?ナトリウム塩とカルシウム塩を――」


「夢がないわ。いい?海はしょっぱいのよ?しょっぱい水といえば、涙よ。海はきっと、人間の涙でできているの。だからあんなに、青くて美しくて、……哀しいの。…………笑わないで」


 体を折り曲げて笑うレイズは、それでも足だけは前へと進んでいて、少々滑稽だ。

 フィリナは無表情のまま、彼と同じ歩調を努めた。


 しばらくして回復したレイズは、フィリナの頭へと手を伸ばした。

 彼に触れられるのは心地よいので、されるがままだ。


「君は時々子供に戻るよね。見た目とのちぐはぐ感がいい」


 褒めていないが、レイズ相手に言及しても無駄だと諦め、尋ねてみた。


「海を見たことある?」


「あるよ。西の海だけど。そっちは青じゃなくて、緑なんだよ」


 緑色の海。フィリナはな想像が出来なかったが、とても惹かれた。


 願望のような独り言を、ぽつりとこぼす。


「……行ってみたいわ」


 無理なことはわかっている。それでも、見てみたいと思った。


「……いつか、連れて行くよ」


 自信のある口調ではなかった。


 今向かっているのは東で、西は真逆の方角にある。

 フィリナが東国に逃亡しようが、中央国で捕らえられようが、西国へ行くことは夢のまた夢。

 叶うはずのない望みであった。


「無理なことは言わなくていい。……気を遣わないで」


「でも、言霊ってあるだろう?口にすれば叶うかもしれないよ?」


 レイズはフィリナの返事を待ちながら微笑んだ。

 なので叶わないと諦めながらも、口にした。


「いつか一緒に。……約束よ」


「約束、か。じゃあ、守らないわけにはいかないかな」


 破られるはずの約束なのに、フィリナはそれを御守りのように大切に、心の奥底へと沈めておいた。




 新しい、生きる糧として。



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