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執行人の逃亡  作者: 名紗すいか
前編
13/40

十二


 フィリナが初めて、死刑執行人としての仕事を終えた翌日は、ひどいどしゃ降りの雨だった。


 レガートは椅子に深く腰掛け、窓を叩く雨をながめていた。

 黒血城の屋根を滑り落ちてくる雨垂れは、黒く汚れて見える。ぼたぼたと降りしきる雨粒は、どれも禍々しく映った。

 窓が、みるみる内に黒く染まり、景色がついには埋もれてしまった。


 ドンドン、という扉を打つ音で現実へと引き戻され、黒い幻は跡形もなく消失した。

 透明の雨滴に苦笑する自分が窓にいて、レガートはさらに苦い表情となった。 


「……どうぞ」


 気を引き締め、穏やかな威厳をたたえた返事を、扉の向こうへと投げる。

 間髪入れずに入室してきたのは意外なことに、エヴィルだった。


「どうかしたのか?」


 彼がわざわざレガートの部屋まで訪ねて来ることは珍しい。

 早急な用件があるのかと、わずかに身構えた。

 エヴィルはいつにも増して、闇と憎悪の瞳をしていた。

 ルゥナを亡くしてからは、よくこの目をしている。

 一族の人間ですら、近寄ることを躊躇う色濃い黒。ルゥナとまた少し、何かが似てきた。


「あいつを何とかしろ」


 エヴィルが一族で名前を呼ばないのは、一人だけだ。


「あいつって、……リナのことか?」


 彼の口調から、フィリナに関することだとはわかるが、内容は全く理解できない。


「それだ。朝から血の臭いをさせて、何のつもりだ」


「血?それはフィリナが昨日、あの男の刑を執行して来たからではないのか?」


「ふざけてるのか?あれが一滴も、罪人の血など浴びていないことぐらい、覚えているだろう」


 確かに最近は、昔よりも衰えを感じることがままあったが、昨日のことを忘れてしまうほど耄碌してはいない。

 フィリナは恐ろしいことに、行きと全く同じ格好で帰ってきた。


 血ではなく、雨に濡れて。


「では、月のものでは」


「怒るぞ。わざわざそんなことを言いに来るように見えるのか」


 感情を露わにして怒るエヴィルを、久し振りに見た。

 つい懐かしく、見入ってしまいそうになったレガートだったが、さすがに浅慮な発言をしたと自覚していたので素直に謝った。


「すまない。だが、どういうことなんだ?」


「……あの出来損ないが、自分で血を流しているって言えば、わかるのか?」


 レガートは瞠目し、エヴィルをそのままに部屋を飛び出した。

 回廊を走り抜け、フィリナの部屋の扉をノックもなしに開け放つ。


 室内は、がらんとしていた。

 お気に入りの猫足の椅子の上にも、真っ白な寝台にもフィリナの姿はない。

 丸い円卓には、小さな鉢植え。長年かけてようやく、種から芽を出したプラムの苗木が、二枚の葉を揺らしていた。


 部屋全体で、主の不在を伝えている。


 レガートは踵を返し、今度はピアノの間へと向かった。

 エヴィルとフィリナが顔を合わせる場所など、そこしかあり得ない。

 すぐ気づけなかったことに、苛立った。


 その扉は、半開きになっていた。

 エヴィルが、誰かが気にかけるようにと、開けたままにしてレガートのところへと足を運んだのかもしれない。

 もちろん実際はどうだったかなんて、彼にしかわからないだろうが。


 お陰でフィリナをすぐに見つけることが出来た。

 彼女はピアノの横で座っていた。ピアノを見上げるようにして。


 そこはフィリナの定位置だった。

 ルゥナが奏でる音色を、いつもその場所で聴いていたのだ。

 彼女のための、特等席だった。


「リナ、何をしているんだ?」


 声を掛けると、ゆっくり振り返った。

 髪が肩から零れ、現れたのは、襟元から引き千切られた服。


 レガートは傍へと駆け寄ると、膝をついた。


「エヴィルか?」


 白いワンピースは上から三つボタンを失い、弱々しく糸が伸びていた。

 裂かれた範囲外広く、繕っても、もう服としては使えないだろう。


 乱暴されたような、ひどい姿にレガートは眉を顰めた。

 服を掻き合わせようとフィリナの襟に手をかけ、覗いた肩口を目にした途端、思わず息を飲んだ。


 レガートの体にもある、鮮血のような椿の花。

 その一輪の花が、十字に切り刻まれていた。


 絶句した。何も、言葉が出てこない。

 エヴィルの暴挙が霞んでしまった。これを確かめるために、服を破いたのか。


 傷口から、新しい血がじわりとにじみ出た。

 顔をしかめるな、とレガートは自分自身へと言い聞かす。


「なぜこんなことを……?」


 聞かずとも、わかっていた。だが、それしか出てこない。


「……嫌だから」


 あまりにも小さな囁きは、明確な拒絶だった。

 フィリナがずっと、言い続けてきたことだったのに、とても脆弱な声音だった。


 レガートはフィリナを潰れるほど抱き締め、その背をさする。人を殺すためにあった手は、今ではそんなことにしか使えない。

 ズタズタに傷ついた従妹を、救うことも叶わない。


 息苦しいはずなのに、フィリナは大人しく腕の中いた。


「リナ……すまない」


 止めるべきだったのだ。フィリナにこの仕事は無理だと、もっと強く諭すしておけば。

 

「兄さまが……」


 フィリナのか細い声に、体を離して見たその顔に、衝撃を受けた。

 ルゥナにぶたれて涙目になっていた少女は、どこにもいなかった。


 なぜ、気づかなかったのだろう。

 虚空を見つめるフィリナが、薄く唇を開いた。


「もう、殴っても、くれない……」


 エヴィルとルゥナには、二人だけの絆があった。

 だが、エヴィルとフィリナにも、他者には見えない何かがあったのかもしれない。


「友達……裏切った」


「友達?」


 レガートは怪訝に思った。フィリナに、友達なんて呼べる人間はいなかったはずだ。


「裏の森、行く前に……」


 一度だけ、そんなこともあった。

 もう、八年も前のことだ。


「……人間のままで、いたかった……」


 その切なる願いが、レガートの心に深々と突き刺さった。


「リナは人間だ。他の何でもない」


「人間に、して……」


 聞き取れないほどのつぶやきを残し、フィリナはレガートの腕で、永遠のような眠りに落ちた。


 このまま、辛い現実には帰って来ないかもしれない。


 どうしたら、この子を助けられるのだろうか。




 レガートを嘲笑うかのように、血のような黒い雨が、窓を何度も打ちつけていた。




           ♢




 チッ、とエヴィルが小さく舌打ちをした。


 レガートはその揺らめく白い包帯を手にして、見分した。

 所々に血がにじみ、乾いて硬くなっている。

 血の箇所を重ね合わせると、十字が浮き上がった。

 エヴィルの言う通り、フィリナのものだと確信した。そして同時に、フィリナの裏切りを。


 黒血城で使っている包帯よりも薄く、質が悪い。

 罪人に、傷の手当てをして貰っているということだ。


 体の椿も、傷跡も、罪人たちに晒している。

 そして何より、血のついた包帯を囮にするなど、エヴィルのことをよく知る家族でしか思いつかないはずだった。


「あいつ、罪人と逃げるつもりか」


「まだ、わからないだろう。脅されて、情報をもらしただけかもしれない」


 レガートは、手中で十字を描く包帯を、隠すように握り締めた。

 

「甘い。さっき言っていただろう。仲のいい夫婦だって。あいつも、そう振る舞ってたということだ」


 レガートはそれでも頑なに、フィリナを信じようとした。


 彼女が他の男の手を取り、去ったなんて。

 受け入れられなかった。


 エヴィルが包帯へと目を落とし、感情のない声でつぶやいた。


「……今頃になって」


「エヴィル?」


 呼びかけると、彼はため息をついた。


「どのみち捕まえればわかる」


 その言葉はなぜか、レガートにではなくエヴィル自身へと向いているように感じた。


 フィリナが、逃亡を選んだという事実を目にするまでは、確証のないただの戯言にすぎない。

 




 エヴィルの一瞥した先では、紺碧の空がうっすらと白み始めていた。





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