十二
フィリナが初めて、死刑執行人としての仕事を終えた翌日は、ひどいどしゃ降りの雨だった。
レガートは椅子に深く腰掛け、窓を叩く雨をながめていた。
黒血城の屋根を滑り落ちてくる雨垂れは、黒く汚れて見える。ぼたぼたと降りしきる雨粒は、どれも禍々しく映った。
窓が、みるみる内に黒く染まり、景色がついには埋もれてしまった。
ドンドン、という扉を打つ音で現実へと引き戻され、黒い幻は跡形もなく消失した。
透明の雨滴に苦笑する自分が窓にいて、レガートはさらに苦い表情となった。
「……どうぞ」
気を引き締め、穏やかな威厳をたたえた返事を、扉の向こうへと投げる。
間髪入れずに入室してきたのは意外なことに、エヴィルだった。
「どうかしたのか?」
彼がわざわざレガートの部屋まで訪ねて来ることは珍しい。
早急な用件があるのかと、わずかに身構えた。
エヴィルはいつにも増して、闇と憎悪の瞳をしていた。
ルゥナを亡くしてからは、よくこの目をしている。
一族の人間ですら、近寄ることを躊躇う色濃い黒。ルゥナとまた少し、何かが似てきた。
「あいつを何とかしろ」
エヴィルが一族で名前を呼ばないのは、一人だけだ。
「あいつって、……リナのことか?」
彼の口調から、フィリナに関することだとはわかるが、内容は全く理解できない。
「それだ。朝から血の臭いをさせて、何のつもりだ」
「血?それはフィリナが昨日、あの男の刑を執行して来たからではないのか?」
「ふざけてるのか?あれが一滴も、罪人の血など浴びていないことぐらい、覚えているだろう」
確かに最近は、昔よりも衰えを感じることがままあったが、昨日のことを忘れてしまうほど耄碌してはいない。
フィリナは恐ろしいことに、行きと全く同じ格好で帰ってきた。
血ではなく、雨に濡れて。
「では、月のものでは」
「怒るぞ。わざわざそんなことを言いに来るように見えるのか」
感情を露わにして怒るエヴィルを、久し振りに見た。
つい懐かしく、見入ってしまいそうになったレガートだったが、さすがに浅慮な発言をしたと自覚していたので素直に謝った。
「すまない。だが、どういうことなんだ?」
「……あの出来損ないが、自分で血を流しているって言えば、わかるのか?」
レガートは瞠目し、エヴィルをそのままに部屋を飛び出した。
回廊を走り抜け、フィリナの部屋の扉をノックもなしに開け放つ。
室内は、がらんとしていた。
お気に入りの猫足の椅子の上にも、真っ白な寝台にもフィリナの姿はない。
丸い円卓には、小さな鉢植え。長年かけてようやく、種から芽を出したプラムの苗木が、二枚の葉を揺らしていた。
部屋全体で、主の不在を伝えている。
レガートは踵を返し、今度はピアノの間へと向かった。
エヴィルとフィリナが顔を合わせる場所など、そこしかあり得ない。
すぐ気づけなかったことに、苛立った。
その扉は、半開きになっていた。
エヴィルが、誰かが気にかけるようにと、開けたままにしてレガートのところへと足を運んだのかもしれない。
もちろん実際はどうだったかなんて、彼にしかわからないだろうが。
お陰でフィリナをすぐに見つけることが出来た。
彼女はピアノの横で座っていた。ピアノを見上げるようにして。
そこはフィリナの定位置だった。
ルゥナが奏でる音色を、いつもその場所で聴いていたのだ。
彼女のための、特等席だった。
「リナ、何をしているんだ?」
声を掛けると、ゆっくり振り返った。
髪が肩から零れ、現れたのは、襟元から引き千切られた服。
レガートは傍へと駆け寄ると、膝をついた。
「エヴィルか?」
白いワンピースは上から三つボタンを失い、弱々しく糸が伸びていた。
裂かれた範囲外広く、繕っても、もう服としては使えないだろう。
乱暴されたような、ひどい姿にレガートは眉を顰めた。
服を掻き合わせようとフィリナの襟に手をかけ、覗いた肩口を目にした途端、思わず息を飲んだ。
レガートの体にもある、鮮血のような椿の花。
その一輪の花が、十字に切り刻まれていた。
絶句した。何も、言葉が出てこない。
エヴィルの暴挙が霞んでしまった。これを確かめるために、服を破いたのか。
傷口から、新しい血がじわりとにじみ出た。
顔をしかめるな、とレガートは自分自身へと言い聞かす。
「なぜこんなことを……?」
聞かずとも、わかっていた。だが、それしか出てこない。
「……嫌だから」
あまりにも小さな囁きは、明確な拒絶だった。
フィリナがずっと、言い続けてきたことだったのに、とても脆弱な声音だった。
レガートはフィリナを潰れるほど抱き締め、その背をさする。人を殺すためにあった手は、今ではそんなことにしか使えない。
ズタズタに傷ついた従妹を、救うことも叶わない。
息苦しいはずなのに、フィリナは大人しく腕の中いた。
「リナ……すまない」
止めるべきだったのだ。フィリナにこの仕事は無理だと、もっと強く諭すしておけば。
「兄さまが……」
フィリナのか細い声に、体を離して見たその顔に、衝撃を受けた。
ルゥナにぶたれて涙目になっていた少女は、どこにもいなかった。
なぜ、気づかなかったのだろう。
虚空を見つめるフィリナが、薄く唇を開いた。
「もう、殴っても、くれない……」
エヴィルとルゥナには、二人だけの絆があった。
だが、エヴィルとフィリナにも、他者には見えない何かがあったのかもしれない。
「友達……裏切った」
「友達?」
レガートは怪訝に思った。フィリナに、友達なんて呼べる人間はいなかったはずだ。
「裏の森、行く前に……」
一度だけ、そんなこともあった。
もう、八年も前のことだ。
「……人間のままで、いたかった……」
その切なる願いが、レガートの心に深々と突き刺さった。
「リナは人間だ。他の何でもない」
「人間に、して……」
聞き取れないほどのつぶやきを残し、フィリナはレガートの腕で、永遠のような眠りに落ちた。
このまま、辛い現実には帰って来ないかもしれない。
どうしたら、この子を助けられるのだろうか。
レガートを嘲笑うかのように、血のような黒い雨が、窓を何度も打ちつけていた。
♢
チッ、とエヴィルが小さく舌打ちをした。
レガートはその揺らめく白い包帯を手にして、見分した。
所々に血がにじみ、乾いて硬くなっている。
血の箇所を重ね合わせると、十字が浮き上がった。
エヴィルの言う通り、フィリナのものだと確信した。そして同時に、フィリナの裏切りを。
黒血城で使っている包帯よりも薄く、質が悪い。
罪人に、傷の手当てをして貰っているということだ。
体の椿も、傷跡も、罪人たちに晒している。
そして何より、血のついた包帯を囮にするなど、エヴィルのことをよく知る家族でしか思いつかないはずだった。
「あいつ、罪人と逃げるつもりか」
「まだ、わからないだろう。脅されて、情報をもらしただけかもしれない」
レガートは、手中で十字を描く包帯を、隠すように握り締めた。
「甘い。さっき言っていただろう。仲のいい夫婦だって。あいつも、そう振る舞ってたということだ」
レガートはそれでも頑なに、フィリナを信じようとした。
彼女が他の男の手を取り、去ったなんて。
受け入れられなかった。
エヴィルが包帯へと目を落とし、感情のない声でつぶやいた。
「……今頃になって」
「エヴィル?」
呼びかけると、彼はため息をついた。
「どのみち捕まえればわかる」
その言葉はなぜか、レガートにではなくエヴィル自身へと向いているように感じた。
フィリナが、逃亡を選んだという事実を目にするまでは、確証のないただの戯言にすぎない。
エヴィルの一瞥した先では、紺碧の空がうっすらと白み始めていた。




