十一
浅い眠りは容易く破られた。
フィリナはレイズに支えられ、山の斜面を、上だけを目指してひたすら登る。
緩やかとは言い難い傾斜だ。
太陽に向かい斜めに伸びる木の枝に腕を回し、草を掴み、露出した岩へと足をかける。
「だから無謀だっつったのに!」
角灯で行く手を照すロトが、先頭で恨み言を叫び、
「以外と早かったな」
と、レカルドが殿で能天気に笑う。
その背では、チリルが恐怖に硬直していた。
レカルドの首にしがみついて、下を見まいと頑なに目を閉ざしている。
チリルを気にしていたフィリナは、露出していた、湿りけを含んだ土で足を滑らせ、背筋を凍りつかせた。
足元から土塊がころころ落下して行くのが見て取れ、鳥肌が立つ。
「――――大丈夫?」
木に掴まり振り向いたレイズは、フィリナへと手を差し出した。
それを躊躇うことなく取り、靴で足場を探して何度も土を蹴った。取っ掛かりを見つけて、体重を移動させる。
その勢いで、ぐいっとフィリナの腕を引き上げたレイズは、無事を確かめるようにしっかりと彼女を抱き寄せた。
フィリナの腰に片腕を回し、耳元でもう一度、「大丈夫?」と囁く。
「そこ!いちゃついてないで、急がねーと」
緊張が欠けたレイズに呆れながら、ロトがびしりと言い放った。
「そんなんじゃないわ」
フィリナは反論して、レイズの胸を押した。
巻きついていた彼の腕があっさりとほどけると、胸にちくりと棘が刺さった。
それでも、体温が溶け合ってしまう前に、体を離す。
諫めた本人のロトが、豆鉄砲でも食らったかのように目を丸くした。
レイズが素直に従うのが、異なことのように感じたらしい。
「ケンカでもした?」
わざわざレイズの隣まで下りてきて、ぼそっとロトが耳打ちをする。
角灯を持った彼が近くにいるので、レイズの端麗な微笑がよく見えた。
「寝込みを襲ったな、これは」
レカルドがニタニタしながら、意味深な眼差しをレイズへと投げた。
当の本人は、「まぁね」と誤魔化し、フィリナはふいっと顔を背けた。嘘ばっかり、と。
ようやく平らかな場所へと登りきると、フィリナは夜色の木々の隙間から、村を俯瞰した。
さっきまでフィリナを包み込んでいた村が、小さく、遠くなっている。
山道を通るよりも山に入ってしまえばいい、と言ったレカルドの判断は正しかった。
馬ではこの場所に辿り着くのに多少は時間を要するにだろう。
だが、馬と人。追いつかれるのを先送りしただけなのかもしれない。
苦行からの脱却を果たしたチリルが、レカルドの背からフィリナへと飛びついた。
彼女はフィリナの服に張りついた土を一生懸命、献身的に払う。
「リナさま、痛いところはありませんか?その、……色々、大丈夫ですか?」
「色々?」
心配されることがそこまであっただろうか、とフィリナは考えた。確かに山と森では勝手が違う。
膝は擦りむいたし、木の皮は固く手のひらはひりひりと痛み、爪は草の汁に染まって少し沁みた。
そういう、色々なのだろうか。
ふと気づくと、チリルがあわあわと、顔を赤くしたり青くしたりして、忙しそうにしていた。
むしろチリルの方が大丈夫だろうかとフィリナは心配になった。
「おい、ちびっ子。それを聞くのは野暮ってもんだろ」
言いながらロトが手頃な岩にかけて、頬杖をついた。
「俺は聞いてやってもいいぞ」
すかさず真面目な顔を作ったレカルドが口を挟み、ロトは頭をガクッと落とした。
「おっさん、いい加減にして」
二人の掛け合いに痺れを切らしたチリルが拳を握り締めて叫んだ。
「もう黙って下さい!――――リナさま、この男に何もされませんでしたか?」
人差し指を突きつけ、チリルは親の敵でも見るように、楽しげに笑ってるレイズを睨み上げた。
「焦らしたら拗ねちゃっただけだよ」
「じ、じらっ……!?」
「別に、拗ねてない」
その言い方が拗ねていると気づかないフィリナを、ロトとレカルドが生暖かい目で見守った。
チリルだけは愕然として、棒立ちのまま震えている。
小首を傾げるフィリナの髪を、レイズがくすくす笑いながら梳いた。
やんわりと距離を取ると、彼は寂しげに微笑む。
ほだされてしまいそうで、フィリナは離れるしかなかった。
追ってきたのはレガートと、エヴィルだった。
ちらっとだけ目にした彼らの姿に、未だ動揺が拭い去れずにいる。
レガートは、フィリナを捜しにくるだろう。そのことは、わかっていた。
だが、エヴィルが行動を共にしているとは思ってもみなかった。
目的が、まるで違うというのに。
レガートはフィリナを助けるために、エヴィルはフィリナを罰するために、こんな辺鄙なところまで来たのだ。
愚かにも、逃亡に希望を見いだした妹の、始末をつけるために。
そして、彼を裁くために。
今ならまだ、取り返しがつく。彼らは、逃げるべきだ。
フィリナはレイズに向き直り、揺らぐ心を宥め、告げた。
「私をここに、置いていって」
「理由は?」
「エヴィル兄さまがいたから」
その名に反応したのはチリルだった。
びくりと肩を震わせ、おどおどしながらフィリナを見上げた。
エヴィルが女中たちに対して横暴に振る舞うことはないが、親しく言葉を交わすこともない。
話しかけても煩わしげな冷たい表情をするので、チリルも日頃怯えている。
彼は冷たいのではなく、他人に興味がないだけだ。
家族と罪人以外は皆、その他大勢の有象無象。
チリルは当然として、ロトやレカルドにも、エヴィルは手を出さないだろう。
彼らは死刑囚ではない。
しかし――――。
「兄さまは血の臭いを辿ってくる。私の、血を」
「君を囮に、逃げろって?」
フィリナはうなづいた。決意を、目を逸らさないことで伝えた。
「……レイズ。どうすんだ?」
黙ってフィリナを見つめ返すレイズを、ロトが急かす。動くならば、早い方がいい。
しかしレイズはゆったりとした仕草で、フィリナの頬へと触れた。その触れ合いに、いつからか慣れてしまっていた。
「君はそれでいいの?」
「私はどうせ、逃げられないもの」
「……また、殴られるかもしれないよ?」
「殴っても貰えないかもしれないわ」
救いようがあるから、殴るのだ。見放されたら、更正させる必要もなくなる。
今のフィリナのように。
「……寂しくない?」
どうしてだか、レイズの方が寂しそうな表情をしている。
フィリナは大丈夫だと笑おうとして、失敗した。
困った顔で、首を振った。レイズの手は、添えられたまま。
「寂しくないわ。……思い出を、くれたら」
掠れた声で告げると、レイズの口元がほころんだ。よくできましたと、褒めるように、目を細める。
「ちゃんと言えたね」
レイズの顔が近づき、フィリナはまぶたを閉じた。唇が、重なった。
彼とのキスは、いつも苦い。
誰もが茶化すことなく、二人の別れを見守っていた。
長い口づけの果てに、レイズがそっと、つぶやいた。
切なさを孕む吐息が、フィリナの耳朶に落ちた。
「……さよなら?」
「さようなら」
レイズから一歩後ずさる。温もりが、遠ざかる。
繋がれた手のひらが、離すまいと指先を絡め合った。
最後に、ありがとうと告げた。
束の間、血の呪いから解放されたようだった。
逃がしてくれた。
欲しい言葉をくれた。
それだけで、いい。もう――――。
最後まで残った指先が、離れてしまう直前、レイズがくすりと笑った。
「でもその言葉は、もう少し先に取っておくよ」
「……え?」
フィリナの視界がぼんやりとし始め、遠くでチリルの悲鳴を聞いた。
そして、レイズに倒れかかるように、意識を失った。
♦︎
「リナさまぁ!」
レイズがフィリナを地面へと横たえたので、チリルは血相を変えてその体へとしがみついた。
何が起きたのかわからずにレイズを睨みつける。
さっきまで普通にしていたのに、突然ふつりと、糸が切れたように倒れたのだ。
とにかくレイズが悪い。チリルはそう、決めつけた。
このままこの場所に放置されたら、どうすればいいのか。
果してこの場所を、レガートに見つけて貰えるのか。
さっさと逃げてしまうだろうと思っていた彼らは、だがしかし、一向に動く気配がなかった。
レカルドは様子を静観しているのか、腕を組んで仁王立ちしている。
レイズがフィリナを愛しげに見つめて、なかなか傍を離れようとしないからだ。
「置いてかねーの?」
ロトの疑問はもっともだった。
チリルも別れの流れを感じ取り、フィリナが望むならと、二人の口づけを耐えに耐えていたというのに。
「置いてく?まさか。こんなところに置いてくぐらいなら、初めから連れて来てないだろう」
真剣な物言いに、チリルは虚をつかれた。
彼は、フィリナの意を汲むべきだった。
彼女が戻れば、レガートたちは深追いせずに、逃げおおせたはずなのに。
レイズはフィリナの服のボタンへと手をかけた。やたら手慣れた手つきで、ぷちぷちと外して行く。
慌てて止めようと身を乗り出すと、背後から脇に手を入れられて、ひょいっと抱っこされてしまった。
横を向くとレカルドが、ふざけを封じた表情でフィリナを見下ろしていた。
ロトも頬杖のまま、フィリナをながめている。
彼らに、あれが知られてしまう。
「何するんですか!やめて下さい!」
チリルは必死に暴れもがくが、野獣に敵うはずかない。
レイズを制止出来ないまま、手際よく包帯をほどいていく彼を、涙目で睨みつけるしかなかった。
美しく咲き乱れる椿の赤い花と、それを引き裂く傷痕。
それらを、彼らは驚くぼど気に止めていなかった。
自傷跡を、ただの切り傷として見ている。
「血は……止まってる。包帯を代えるか」
レイズがつぶやくと、ロトが地面へと置かれた背嚢をあさり、瓶を投げた。
それはレイズの片手に吸い込まれるように、弧を描いて飛んできた。
薬瓶のようだ。蓋を開けると、中のどろりとした液体を指で掬い、フィリナの傷口へと塗りつけた。
左腕で彼女の体を支えながら、真新しい包帯をしっかりと巻き直していく。
チリルはレイズが体中に痣を作っていることは知っていた。
もう平気だと言ってやんわり拒絶し、口うるさいロトに根負けして手当されていたことがあった。
自分の怪我には無頓着なのに、フィリナには献身的に手当しをしている。
チリルには、レイズという人間が、相変わらずわからなかった。
恭しく服を着せ、レイズは一度フィリナを地面へと戻した。
血のにじむ包帯をひらひらさせながら歩き、一本の木の前でぴたりと足を止める。
その木は太い幹を誇っているが、チリルにも届きそうな高さから、しっかりとした枝が生えていた。
その枝へと、包帯を括りつけた。
「囮を置いていく、だな」
レカルドが感慨深くうなづき、チリルはその、はためく包帯をながめた。
ふわふわと踊る白く血に濡れた包帯は、フィリナの身代わりに相応しい。
レイズがフィリナを抱き上げた。ロトは背嚢を担ぎ、チリルはレカルドに抱っこのままだ。
三つの影は、その場を足早に立ち去った。
残された包帯が靡き、彼らを見送った。




