九
刷毛で描いたような薄雲が、ゆるゆると形を移ろえていた。
時の流れが、都とは異なっているようだ。
山合いの村は裾野まで牧歌的な田園風景が広がり、とても遠くに来てしまった、とチリルはいつもより高い視界で臨みながらそう思った。
さっきまで見上げていたはずのフィリナの、つむじが見下ろせる……。
「下ろしてくださいーー!高すぎますー!」
レカルドに肩車をされ、抗議の意味を込めて拳をぶんぶん回し、踵でがんがんと胸板を攻撃する。だがすぐに落下しそうになり、慌ててその頭へとしがみついた。
「楽しいか、娘よ」
楽しくなんかないっ、と叫ぶ気力はもう残ってはいなかった。
ぐったりとレカルドの頭にもたれかかっていると、レイズがさりげなくフィリナの腰を抱こうと腕を伸ばすのが目の端に映り、すぐさま復活した。
チリルは目を三角にして言いつける。
「馴れ馴れしく触らないで下さいっ!この変態!!」
フィリナは、誰が選んだのか古臭い外套を被せられて、レイズの隣を黙々と歩いている。
レイズはフィリナから片時も離れようとはせず、チリルが彼女に近づくと微笑みながら割り込み、邪魔をしてくる。嫌がらせとしか思えない。
「妻の腰を抱くことが、どうしていけないのかな?」
「設定ですから!本当に妻じゃありませんっ!このチリルが許しませーん!」
「おーい、ちびっ子。こいつに何言ったって無駄だって。むしろ楽しんでるし」
むむむ、とチリルは唸った。そんなことは重々承知だが、言わずにはいられないのだ。
フィリナを真ん中に、レイズの反対側を一歩遅れてついて行くロトが、やれやれという様子でチリルを見遣る。
そのチリルはレカルドの肩に乗り、殿を務めている。
レイズの所業は、奇しくも視点が高いことで丸見えだった。
「はっはっはっ!仲がよくてパパは嬉しいぞ」
「ちっがーう!」
チリルは渾身の否定を最後に、ついに力尽きた。
からからと笑い合う彼らを、レカルドの頭から覗き見る。彼らは本物の罪人なのだろうかと、疑いの念を未だ拭い去れずにいる。
ただのお笑い集団なのではないか。
青々とした名もなき草たちが脇を固める畦道を、右へ左へ揺られながら、チリルは落ち着いて景色をながめてみた。
黒血城の周りにある森の黒々とした緑ではなく、日差しをたっぷりと浴びて透き通った黄緑だ。
畑や田んぼばかりでなく、家畜もちらほらと見かけられた。
柵に囲われた向こうでは、数頭の牛が無心で草を食んでいる。耳をはたはた尻尾をゆらゆらさせて、チリルの目を引いた。
茶毛の牛が一頭、チリルをちらっと見はしたが、口はむしゃむしゃと忙しなく動いている。
「お?どうした。牛が珍しいのか?」
「珍しいわけでは……。ここも同じ国なんて、変な感じです」
「ああ、王都はどんよりとしてるもんな。ちびはこういうところで駆け回ってるぐらいがちょうどいいな」
レカルドの視線の先には、おいかけっこをしている子供たちがいて、チリルは彼らを羨ましく思いながら通りすぎた。
それから、一言も発していないフィリナを心配して尋ねた。
「……リナさま、大丈夫ですか?」
ぼんやりとしていた彼女は、緑豊かな景色に心を奪われていたらしく、チリルの声に瞬いてから、いつもの感情の乏しい顔を上げた。
「大丈夫よ」
疲れもなさそうな声だったので、チリルは一安心だ。
「ここに宿はないな。一晩だけ泊めて貰うのは危険か?どうだ?」
「危険というか、無謀?」
「そうですよっ!帯刀許可が下りるんです。すぐに旦那さまに見つかっちゃいますよ!」
慌てて言ったチリルを、ロトがじっと見上げ、何だろう、ときょとんとした。
「どっちの見方?」
「はぅ!」
すっかり旅の仲間として認識してしまっていた。初めこそ縄で縛られたが、今では頼んでもないのに肩車を嬉々としてしてくれるほど打ち解けている。
これでは駄目だ、と言い直す。
「間違えただけですっ!すぐに旦那さまが来て、あーっと言う間に捕まえちゃうんですから」
「捕まえるというか、首を刎ねるだよね」
レイズのさらりとした一言に、チリルは青ざめた。刀を持つということは、そういうことなのだろうか。
レガートは死刑を嫌っているが、フィリナを連れ去った彼らをどうするかは、チリルには想像がつかない。
「兄さまはそんなことしない。……レイチェル叔母さまは、わからないけど……。それより、本当に帯刀許可が下りたの?」
チリルを疑っているわけではなく、内容を受け入れられないらしい。
フィリナは落ち着かないのか、しきりに腕をさすっている。
帯刀許可がそこまで難しいことだとは。
「えぇ……と。たぶん、です。旦那さまの馬がオーウェン邸へと行きましたし……」
そのときにはチリルも駆け出していたので、結果は知らないのだ。それでも、あのレガートの気迫は、国王ですら圧倒すると思わせた。
「帯刀に許可がいるわけ?」
ロトが面倒だと言いたげにつぶやく。
言われてみれば、兵士たちはいつも剣を携えている。市民でも、勝手に所持する人はいるはずだ。
「死刑執行人は、死刑判決を受けた罪人しか殺せないからね。処刑場でしか刀を振るえないように取り決めがなされている、だったかな?」
レイズが確認するようにフィリナの顔を覗き込む。
「……そうよ」
フィリナがその一言だけで憔悴したようにうつむき、レイズが慰めながら肩を抱き寄せた。
「どさくさに紛れてっ!」
じだじだと暴れるチリルの足を、レカルドがしっかりと掴み、子供を諭すように言い聞かせた。
「いいか、ちび。人の恋路を邪魔するやつは、馬に蹴られるんだ」
「牛しかいませんっ!」
チリルが吠えると、どこからか牛の鳴き声が返って来た。
ロトが吹き出し、レカルドが大笑いして、チリルは頭を抱えてうんうん唸る。
そのせいで、急にかけられた声に反応が遅れた。
「あら、肩車いいわねぇ」
柔和な目元が印象的な小柄なおばさんが、庭先の垣根越しに、チリルを微笑ましそうに見上げていた。
家族ごっこの効果が上手く表れているようだ。
チリルはとりあえず、えへっと笑っておいた。
肩車は別に嬉しくないのだが、それをあえて言うのも気が引ける。
レカルドがこれ幸いとばかりに、おばさんへと尋ねた。
「この辺りに宿とかって、ありますかね?」
「宿ねぇ……。この村に外から人が来ることがあんまりないから……。ご家族?」
チリルがうなずく寸前に、レイズが柔らかな物腰で前へと進み出た。人好きのする笑みをたたえ、口を挟む。
「いいえ。妻と二人、下宿を追い出されてしまって。仕方なく東国の実家へと向かっていた道中、こちらの、旅をしている親子に助けていただいたんです。妻は病弱なもので、心配だからと行動を共にしてくださって」
「あらそうなの、大変ねぇ。東国までは距離があるのにねぇ……」
おばさんがフィリナを気遣うように窺っている。
だがチリルは、大声で言ってやりたかった。
設定はどうしたんだ、と。
その間に話は進み、おばさんが閃いたとばかりに拍子を打った。
「それじゃあお隣さんにも頼んでみましょうか。うちは空き部屋が一室しかないの。二組に別れてもいいのよね?」
それにレイズが優等生顔負けの微笑みを返し、おばさんはやや頬を染めて、畑を挟んだ向こう側にうっすらと屋根が見えるお隣へと走っていった。
「……さすが女たらし」
「待て待て、男にも通用するから人たらしじゃないのか?」
「急に設定変えないで下さいよ」
チリルはぷんすか文句を言いながら、おばさんが帰って来るのをレカルドの肩の上でのんびりと待った。
♦︎♢♦︎♢♦︎♢
フィリナは、初めに声をかけてくれたおばさんの家の一室で、寝台へと倒れるように横たわった。
隣家にいるチリルはどうしているのだろうか。
フィリナたちのように手厚く持て成されて、もう眠っているかもしれない。
離れ際にあれだけ叫んでいたので、疲れているはずだ。フィリナの名前を何度も繰り返してはいたが、ほとんどがレイズへの牽制だった。
そのレイズは今、浴室を借りていてフィリナは部屋に一人きりだ。
久し振りにきちんとした食事にありつけ、すでに入浴も済ませたフィリナは、石鹸の爽やかな匂いに包まれほっと安らいだ。
服は嫁いだ娘さんのお下がりを貰い、それを着衣している。
それでもすぐに逃げられるようにと、寝巻きは畳んだまま手をつけなかった。
逃げると言っても、兵か一族の者からだが。
「――――もう寝る?」
知らない間に戻って来ていたレイズが、戸口の前から問いかけ、フィリナは体を起こして首を横に振った。
「聞きたいことが、山ほどあるから」
「……鳥から人間になったね。一晩中、囀りじゃなくて話を聞かせてくれるのかな?」
レイズがフィリナの隣へと並び、寝台に腰を下ろした。
肩の触れる距離から石鹸の匂いがして、どきりとする。同じものを使っているはずなのに、レイズからはほんのりと、甘やかな香りがした。
それを気取られないように言った。
「面白い話じゃないと殺すってこと?」
「僕が一度でも君を殺そうとしたことがあった?」
冷ややかな眼差しを向けられ、フィリナはその目を逸らせず後悔をした。
簡単に殺すと言う言葉を使ってしまったことに、嫌気がさす。
「……なかったわ。ごめんなさい。でも、今後ないとは限らない」
「それはそうだ。警戒はしていた方がいい。――――どんなときもね」
レイズはフィリナの髪に触れ、一房掬い取る。
そういう触れ合いに、チリルのように目くじらを立てたりはせず、問う。
「あなたたち、西からの間諜ね?」
「よくわかったね。というよりも、君がきちんと調べて牢に来ていたら、聞く必要のなかったことだけど」
それを言われると、沈黙せざるを得ない。
「……他には?」
閉口していると、レイズが試すように訊いた。彼の望む答えを、フィリナは模索する。
「兵が、私のために動くわけないから、おそらくあなたを追ってる。殺されるほど悪いことしてないと言ったのは、こういうことだったのね」
中央国でよほどのことをしていないかぎり、東西の間諜は監獄行きが一般的だ。
例えば殺人や、それに準ずる何かを。
国家機密でも極秘裏に持ち出そうとしたのだろうか。
「賢い子は、つまらないよ。僕のことはいいから、君のことを聞かせて」
まつげを伏せたことで、翳りのある表情をつくったレイズが、手中にある金の髪に唇を落とした。
フィリナは目を逸らせてから、自嘲のこもるため息をついた。
自分の話なんて、と。
「人殺しの話を?」
「いや、君の話だ。本当は無表情なんかじゃなく、誰よりも傷ついていて、可愛い妹分に慕われている、フィリナのことを」
「……そうやっていつも、女の子を口説いているの?」
レイズは、さぁね、とはぐらかしたが、きっとそうなのだろう。
それでも不思議と、今この瞬間は口説かれてもいい気がした。もしかしたら、自分の話をしたかっただけなのかもしれない。
フィリナはぽつりぽつりと話始めた。
「私が物心ついたときには両親はいなくて、従兄のレガート兄さまと、ルナ姉さまが親代わりだったの」
「レガート……今の一族長だね」
「そう。レガート兄さまは死刑廃止を訴える革新派の代表で、私はルナ姉さまよりも、レガート兄さまの背中を見て育ったの。だから、一生……あんなことはしないと、――――それに……」
遠く、遥か遠くから、未来など何も知らず、宿命を拒絶していたあの頃の、淡い感情が芽吹き、儚く散った。
スカートを、震える手で固く握り締め、深く俯いた。誰にも、顔向けが出来ない。
「だけど、あの日。ルナ姉さまが、罪人に……。断頭台で、バラバラになって」
思い出したくないはずなのに、鮮明にあの日のことを記憶している。
ルゥナの髪のおぞましさ、血の気のない指の白さ、エヴィルとの会話の一つ一つ。冷たい風に、月のない無慈悲な夜空……。
レイズがふわりとフィリナを抱き寄せた。優しい手つきで頭を撫でる。
「思い出させてしまったね。……別の話をする?」
フィリナが小さく首を振ると、レイズはため息のように、そう、とだけもらした。
「エヴィル兄さま、……ルナ姉さまの双子の兄さま。私の……兄さまが言ったの。仇を打てって。じゃないとおまえを殺す、兄としてって」
「上の人の言うことって、絶対だからね」
レイズの軽口を、フィリナは否定した。
その言葉はきっかけに過ぎず、選んだのはフィリナ自身だ。
それは、言い訳にしかならない。
「初めて、兄だと言われた。嫌われてたし、今もそうだけど……。本当は、兄さまが姉さまの仇を取りたかったんだと思う。私も、そうだった。ずっと嫌がってたのに、身内が殺されたら、平気で断頭台に立っている。だけど――――」
フィリナ心に溜まった澱を、吐き出していく。誰かに聞いて欲しかった。苦悩を。
「だけど、あいつの首を切り落としてから、苦しくて辛くて……。逃げたくて、ずっと、逃げたかった。……地獄を歩くと、決めたのに」
黙って聞いていたレイズが、くすりと笑った。
顔を上げると、彼は人を惑わす悪魔のような微笑みでフィリナだけを見つめていた。
「よかったね。――――逃げられて」
鳥籠のときと同じだった。囁きだけでフィリナを縛りつける。弱い心が握られて、体までも支配する。
レイズの顔が近づいて来ても、身じろぎ一つ出来なかった。
額が合わさり、それから彼はふっと笑みをこぼした。
「欲しいなら、どうするんだっけ?――――ん?」
レイズは意地悪く、額を離して小首を傾げた。
唇が合わさる一つ手前で、動かない。
「からかわないで」
フィリナは両手でレイズの胸を押し返して、距離を取った。
弱音を吐いたのも、たった今手放した温もりを恋しく思うのも、寂しいからだ。相手がレイズだからじゃないと言い聞かす。
「……どうして、私を連れて来たの?」
「一目惚れ」
フィリナはレイズの妄言を受け入れず、催促の一瞥すると彼は肩を竦めて答えた。
いかにも、そっけなく。
「道中の暇潰しに」
「……そうね。それぐらいしか、役に立たないわ」
傷つくのはいつものことだ。だからフィリナは、平気なふりをして布団へと潜り込んだ。
明かりを消し、ため息を一つついた後、レイズが布団へと入ってきた。
一人用の寝台に並び、一つの布団を分け合う。
心だけは、噛み合わないままだ。
フィリナがレイズに背を向けると、一つしかない枕をうなじにあてがわれた。
黙っていると、彼はいつまでもそうしていそうだ。
結局フィリナが根負けして、頭を浮かせることとなった。
与えられた枕に顔を沈めると、レイズがからかい混じりの温和な口調で言った。
「聞きたいこと、山ほどあるんじゃなかった?」
「……西国?」
「そう。で、東へ行く。西には兵がうようよしてるだろうから」
「東に着いたら……いえ、やっぱりいいわ」
口にすれば、答えが返って来てしまう。
期待するのは、恐いことだ。
「逃げようと思ってる?」
フィリナは薄暗い夜の帳のなかで、一滴の涙に似たつぶやきを落とした。
「逃げるところなんて、ないわ」
背中から、待ち望んでいた温もりに包み込まれたのに、心には冷々と隙間風が吹きつける。
フィリナは布団に顔を埋め、ぱたりとまぶたを下ろした。
今は、眠る。
静寂から生まれた、馬の蹄の旋律を子守唄に。




