プロローグ
暗雲が垂れこみ始め、群衆が騒ぎ出した。
広場には城壁を背に、三日前から組み上げられた断頭台。それを取り囲むように人々が、蟻のようにうごめいている。あまりに、濁乱としていた。
二人の教戒師が眉をひそめることなく滔々と何事かを口にしている。
聞こえているのは、中央でうなだれるようにして縛りつけられている男だけだろう。
濃く変色した木の椅子にかけ、薄汚れた男は未だ一言も口にはしていない。布とも呼べないほどのボロを纏い、覗く肌は赤黒く染まっている。
かつては見事だった面影はもはや露ほども残っていない。だが、その目だけは、煮えたぎる憎悪に光っていた。
ふと、群衆の後方で黒が揺れた。
ひしめく大人たちの後ろで背伸びをしていた少年が、びくりとして、おずおずと『それ』を見上げた。
波紋が広がるように、視線と静寂が断頭台から『それ』へと集まっていく。
『それ』の歩みにあわせて、一人、また一人と、道をあけるように後ずさりをした。
まるで『それ』に触れるだけで、呪われてしまうとでもいうかのように。
――――こつ。
聞こえるはずのない、靴音が響く。
漆黒の編み上げ靴が、黒衣の外套の隙間から踵を鳴らす。
――――こつ、こつ。
『それ』は断頭台へと、まっすぐに進んでいく。
フードを目深にかぶり、肌一つ晒すことなく。
永遠のような時が過ぎ、黒衣の外套は断頭台の前へと辿り着いた。
階段に足をかけ、一度も振り返ることも、見上げることもなく、淡々と上がりきった。
そのさまは潔くも、美しくも見えた。
誰だ、という声がした。期待に満ちたざわめきが起こる。
黒衣の外套は小さく肩を竦めたが、すぐに毅然と、自由を失った罪人へと向いた。
――――正義と許された人殺しのために。
教戒師が下がり、人々は固唾を飲んだ。
断頭台にいる異質な二人を、ただ見つめた。
先に口を開いたのは、罪人の方だった。
「おまえは誰だ。その背格好だと……女か?」
女、女か、と好奇と期待の入り交じる歓声があちこちで起こった。
だが、黒衣の女は否定も肯定もせず、フードの奥から罪人だけを見据えていた。会話を交わす気など、初めからないとでも言うように。
黒衣の外套だけがはたはたと揺れ、沈黙が下りる。
く、と罪人の口が皮肉げに歪んだ。
そして――――罪人は、嘲笑した。
「そのままで殺せるのか!」
顔をさらせ、と群衆を煽る。
国民をたきつけ、戦へと国を導いた男の、かつての片鱗が垣間見えた。が、刹那の幻影は、儚く霧散する。
黒衣の女が、首もとにあるリボンの結び目に手をかけたからだ。
シュル、と外された外套は、吹きつけた風によってすべり落ちるように地面へと舞った。
瞠目した。罪人が。人々が。そして、刑を執行する側の者たちでさえ。
現れたのは少女だった。
あどけなさを失いきれていない頬で、心をどこかに置き忘れてきたかのような無表情を作っている。
背中にこぼれた金の髪はゆるく波打ち、朝日のように清廉で美しい。
そして、伏せられていた長いまつげがわずかに震えた。
翠緑の瞳が初めて、罪人を映した。
「……白」
そうこぼしたのは、罪人だった。
茫然として、ありえないと呟いた。
少女を包むのは、純白のドレス。
汚れなき象徴、花嫁衣装さながらの――――白。
ははっ、と罪人は笑った。嘲笑った。
「白を着るのかッ!――――死刑執行人がッ……!!」
蔑みの言葉にも、少女は相変わらず無表情のままだった。
そんな紙の刃で、傷つくことはもうない。
少女は人を殺すのだ。
目の前の荒んだ男と、――――少女自身を。
少女が腰に帯いていた大剣の柄に手をかけると、ようやく罪人は押し黙った。
そして、忌々し気に彼女を睨み付けた。
それを合図に二人の兵士が断頭台へと登ってくる。
そして木の椅子に括りつけられた戒めを、機械的に解いた。
もちろん、逃がすためではなく。
罪人は抗い、だが兵士たちによって力任せに跪かされると、上半身を押さえつけられ前傾した。
「ぐっ……!穢れた血の死神めが!裁かれるべきは貴様らの方だ!」
呪詛が罪人の口からほとばしる。
少女の唇が動いたことには、誰も気づかない。
そして白い大剣の鞘から黒光りする刀身が引き抜かれ、天を突いた。
「……最後に何か、言いたいことは?」
哀れみでも情けでも、ましてや慈悲でもなく、少女は自らのために問いかけた。
だが、罪人はどこまでも罪人であった。
「地獄で待っててやる!」
吐き捨てられた言葉と憎しみの双眸へ、返事をするかのように、刀を降り下ろした。
鮮烈な赤が散った。ごとり、と鈍い音がした。
罪を洗い流す雨が、ぽつりぽつりと地面へと染み込んだ。
立ちつくす少女を、雨滴だけが染めていく――――。