身代わり姫君の幸せ
初投稿です
誤字脱字、改善点などございましたら、優しくご指摘願います。
わたしは今日、何もかもを捨てた。
「シエラ、シエラなの?」
わたしの頬を、ほっそりした両手で包み込んで、『お母様』は言った。
「ええお母様、わたくしですわ。お母様のシエラですわ」
危ない危ない。間違えてリアと名乗るところだった。間違えたら洒落にならないからね…。
「ああシエラ!もうどこにもいかないでちょうだい!」
わたしはきつくお母様に抱き締められた。いや、本当は血なんてこれっぽっちも繋がってないんだけどね、ほんとに今日からお母様なんだよ?
「…心配かけて、ごめんなさい」
わたしは、今日からお母様とお父様の一人娘、シエラになる。
経緯はこうだ。
伯爵家のお嬢様は生まれつき病弱で、この間ついになくなってしまったそうだ。奥方様と旦那様はそれは嘆き悲しんだ。お嬢様は愛されていたようで何より。
奥方様はお嬢様の死を受け入れられず、彼女を求めて歩き回るようになってしまう。
そしてある日、奥方様はお嬢様を見つけたのだ。
お分かりだと思うが、それがわたしだ。
わたしは貧乏子沢山の長女に生まれた。
たくさんいる弟妹の面倒を見ながら家の前をうろついていたら、身分の高そうなご婦人がお供もいないでふらふら歩いていて。
すぐにスラムだった。そこでは身分が高そうで、頼りなさげな婦人はかっこうの鴨だ。注意した方がいいかな、と思ったら唐突な方向転換。わたしにダッシュ!
その時のわたしの驚きをうかがい知ることができるのは誰もいないだろう。
ふわふわとした温かい体温。
上品な絹の感触。
つんと仄かに香った香水の匂い。
抱き締められて、泣かれた。
会いたかったと。
愛しているから戻ってきてと。
どれも初めてのものばかりで、わたしはただ呆然としていた。
それからは早かった。
わたしは事情を旦那様から説明され、お嬢様になってくれと頼まれた。将来何一つ不自由させないからと。
こきつかう相手がいなくなると猛抗議した両親は、金を渡されたとたんに手のひらを返してわたしを旦那様に渡した。
これを身売りと言わずしてなんと言おうか。
つまるところわたしは、自分と引き換えに、飢えることのない未来を手に入れたのだ。
心残りと言えば、弟妹の世話でろくに遊べなかったわたしとよくおしゃべりしてくれたグレイとお別れできなかったことぐらいか。
まあそんなことを考えていても仕方がない。わたしはもうリアではないし、グレイも幼い頃の知り合いなど、もうすぐに忘れてしまうだろうから。
わたしはお母様の体に腕を回した。
「お母様から離れたりしませんわ」
お母様の腕は震えていて、慈愛に満ちていた。
そして、わたしは大人になった。
18歳。もう結婚している知り合いのご令嬢もいる年だ。
わたしはどんな人に嫁がされるのだろうか。そもそも、わたしがお嬢様でないことは暗黙の了解だ。伯爵家に近しい人ほどよく知っている。そんなわたしに良縁があるのかすら怪しい。適当に嫁いで楽しく暮らしたい。
夜会で壁の花になっていたわたしに近づくご令嬢。わたしはゆったりと挨拶をした。
「お久しぶりでございますわ。ご結婚がお決まりになったとか聞きました。おめでとうございます」
「どうもありがとうございます。シエラさまも早くご縁がありますことをお祈りしていますわ」
こんにゃろう。わたしがお嬢様でないことを知ってて言いやがる。
お母様は張り切ってわたしの結婚相手を探しているらしい。
背が高くて足が長くて見目麗しく、年や爵位も釣り合って、有能で賢くて、少しミステリアスで、誠実で優しい包容力のある素敵な人だそうだ。
そんな人いるのかと突っ込みたくなるが、お母様は本気だ。わたしって愛されてるみたいだ。
「ええ。お母様が選り好みしているみたいですけれど、いつかいい人と一緒になりたいですわ」
あんたよりいい人と一緒になってやるという意味合いでいえば、彼女はムッとした顔をして、立ち去った。
わたしはため息をつく。
「わかっているさ、それぐらい」
それから、数人の男性に誘われてダンスをした。
わたしはおしとやかで美しい箱入りの令嬢で通っている。お嬢様がそうだったからだ。
ちなみに髪は亜麻色。瞳はモスグリーン。背は普通ぐらいで、病弱な感じだ。つまりは深窓で体の弱い華奢なご令嬢を演じているわけだが。
「私と踊ってくださいませんか」
差し出された手袋に包まれた手をとる。手袋越しにも柔らかで労働を知らない手だとわかる。ペン蛸もない手は論外だ。
道楽息子と名乗っているようなものだ。
お父様は、お母様や娘を溺愛しているけど、仕事はきっちりこなす有能な人だ。
だからわたしは仕事のできる人と結婚したい。
「私と踊ってくださいませんか」
また別の人に誘われた。
わたしはまた、手袋に包まれた手をとる。綺麗な手だ。
「あなたはとてもお美しいですね」
「まあ、ありがとうございますわ」
ありきたりな台詞だけれど、わたしは花や蝶や妖精に例えられるよりよっぽどいい。遠回しな言葉は理解に苦しむから。一度タンポポに例えられたことがあった。…貶されてるよね、絶対。
ああ、でもお嬢様は、雅なお人だからそうでもないのかも。失敗したな。
「もう一曲、踊りませんか?」
お嬢様は華やかな場や、男女で甘やかに踊るダンスに憧れていたそうだ。
わたしはお嬢様だ。
「喜んで」
やっぱりきれいな手だ。でも、固くて仕事をしている手で好感が持てる。
まあわたしの感情なんてなんの意味も持たないけれど。
雨が降っていた。
わたしは刺繍の手を止めて、窓の外を見る。糸のような雨が降っていた。
この頃とみに外に行きたいと思う。
もう10年近くこの館で生きている。そう思っても仕方がない年頃なのかもしれない。
お忍びをできないだろうかと考える。メイドの私服を借りて城下に向かう。お菓子やさんやパン屋さんで甘いものを買って、それを手土産に弟妹のもとへ向かうのだ。
驚いて、温かく出迎えてくれるだろうか。
甘いものなんてそう食べる機会はないから、きっと喜んでくれる。
そんな妄想をしたら心が温かくなった。
お母様は心配性だ。わたしを出してくれないだろう。
弟妹はわたしを覚えていないだろう。
そしてわたしは、彼らに会いに行く道を幼かったせいで覚えていないのだ。
そしてまた夜会にわたしはいる。
この間ダンスを誘われた男性にまた誘われた。
「私と踊ってくださいませんか」
わたしは彼の手袋に包まれた手をとる。きれいな働く人の手だ。
彼の目は雨の日の空の色だ。
深い深いブルーグレイ。引き込まれてしまいそう。
彼はダンスが上手かった。わたしもうまいのにそれを上回る。背が高くて足が長くて顔もいい。むかつく。
「とてもお上手ですのね」
「あなたもとてもお上手ですよ。花の精かと見紛うような美しさだ」
「まあ、わたくしなんてまだまだですのに!」
うーん。妖精に例えられてもなあ。分かりやすく誉めてほしい…。
確か彼は侯爵家の嫡子だったけれど。
その日は彼としか踊らなかった。
彼はダンスが上手で賢い人だった。
「シエラ!あなたの結婚相手の話なのだけれど」
お母様がわたしの部屋に駆け込んできた。お母様はわたし以上にお転婆だ。
「あらお母様、どういたしましたの?」
「結婚の申し込みがあったのよ!アーマ伯爵の二番目の息子さんですって。どう思うかしら?」
アーマ伯爵の二番目の息子…ああ、あのどら息子か。
わたしは微笑んで答えた。
「わたくしはお母様を信じますわ。お母様の決めたひとに間違いはありませんもの」
「そうかしら?ありがとうシエラ。まだ考えてみるわね!」
走り去って行くお母様。是非ともお嬢様にふさわしい人を選んでほしい。
夕食のあと、お父様に呼ばれた。リアと旦那様のお話だ。
「お呼びと伺い参上いたしました。なんのご用ですか?」
旦那様は深々と執務室の椅子に腰かけて言った。
「妻がおまえの結婚相手を探していると聞いた。…わかっているだろうな」
「ええ。わかっております。わたしはお嬢様によく似ているというだけで、この家の血は継いでいません。結婚できるなどと思っておりません」
旦那様は妻子に甘い。娘に甘い。しかしわたしには甘くない。
わたしはただの身代わりだと痛感する。
勘違いしてはいけない。わたしに注がれている愛情など、塵ほどもない。すべてお嬢様のものなのだ。
初めて奥方様に出会ったときの、あの手の温もりも、今までの全てが。
「あんたがまともに幸せになれるわけないじゃない」
いつだったか夜会の日に知り合いの令嬢に言われた言葉。わたしは強く思う。あのときと同じに。
「分かっているさ。それくらい」
夜会に行くたび、彼に会った。彼の名前はグレイと言うそうだ。
彼は優しくて面白い。それに博識だ。
「城下では無名な作家の恋愛小説が流行っているそうですよ」
男前な顔と低いいい声でそんな台詞が出てくるからつい笑ってしまった。
「あなたの笑顔はとても素敵ですね」
甘くとろけそうな表情で言われたものだから、つい顔が赤くなってしまう。何やってんだわたし!
正直に言おう。わたしは彼に惹かれている。だって素敵なんだもん。仕方がないじゃん。それにわたし以外の人とこんな風に話さないんだもん。自惚れてしまうし、誠実ってことじゃないか。
彼を見ているだけで幸せだ。初恋は甘いみたいだ。
それにしても彼はどこでそんな情報を得ているのだろうか。不思議だ。
ある日彼に誘われた。
「城下にお忍びで遊びにいきませんか」
行きたい。目指せ初デート?付き合ってないけど。
わたしの知識は着々と溜まっていた。流行している色、お菓子、本。話題のニュース。弟妹の生活ぶりを想像できるぐらいには。
今までで一番幸せだった。だからつい両親にねだってしまった。
許可は貰えた。旦那様は休みが無さすぎるハードスケジュールのわたしに有給をくれたぐらいの認識だろう。
お母様は大変だ。グレイを最有力候補に加えたはずだ。勿論わたしの結婚相手の。
わたしは彼と結婚なんて望んでいないのに。精々甘酸っぱい初恋を楽しもう。
「お待たせいたしました。グレイさま」
お忍びの格好のグレイへ駆け寄る。庶民の格好のグレイもかっこよかった。
いろんなところを二人で見て回った。エスコートする代わりに繋がれた手が熱かった。
夕暮れが近づいた頃、町の外れに連れていかれた。
「むかしここに私の初恋の人が住んでいたんですよ」
わたしは少し嫉妬した。どうしてこの人はこんな空気を読まないことを言うのだろうかと。
見ればみすぼらしい住宅街だっだ。わたしが昔着ていたような簡単な服を着て駆け回る子供たち。わたしは昔は子守に忙しくてこんなことできなかったなと羨ましく思った。
「そうですの…。このような場所の子供とよく出会われましたわね」
「そうですね。不思議でしょう」
しばらくぼんやりと空を見ていた。グレイの囁き声が聞こえた。
「初恋の人はリアと言う名前なんですよ」
「そうですの」
こちらを伺う気配と共に、落胆したようなため息が聞こえた。答えてからしばらくして気がついた。
リア―――わたしのなまえ
グレイは言った。
「ここは彼女の実家の前なんだ」
「リア―――…」
わたしは呟いた。
わたしはリア?彼はグレイ。
彼は誰だかすぐに答えは出る。
ああ、彼は忘れていなかったのか。
泣きたくなった。道では少年少女が声をたてて遊んでいた。
涙がこぼれた。これはわたしの弟妹か。
だけどすぐにわたしは涙を止めた。
わたしは誰だ?わたしはお嬢様だ。それ以外の何者でもない。
ありがとうグレイ。それだけでじゅうぶんだ。
わたしは呟いた。初恋はほろ苦い。
それからまもなくして、グレイから結婚を申し込まれた。お母様は申し分ない相手だと、嬉々としてそれを受けた。
旦那様に呼び出された。
「どうするつもりだ?」
貴族社会で血筋は大切だ。わたしがグレイの子供を生むわけがないだろう。
「わたしが子供を生むわけにはいきません。この家の血を継いでいないですから。でも奥方さまのお嬢様へのお心を大切にしたいですから嫁ぎます。娼婦が飲む避妊薬をください」
身を絞るように告げた言葉で旦那様はすべてを理解した。
一時的な避妊薬と言うものは、世に多く出回っている。ただ、いくらかの高級娼婦は一生妊娠できない体になる薬を飲んで、子を生む腹を壊すのだ。
子供が生まれなければ、わたしも離縁なり形だけの正妻で愛人に傾倒したり、やりようはあるだろう。
「わかった。手配しておこう」
廊下で話していたのが駄目だった。
わたしは油断していたようだ。
血の気が引いた。
「シエラ?あなた?なにを言ってるの?」
お母様が倒れた。
お母様の目が覚めた。
「お母様!体調はいかがですか!?気分が悪かったりしませんか!?」
お母様の手をとって呼び掛ければ、お母様は冷たい目でわたしを見た。
「あなた誰。シエラは死んだはずよ!あなたは誰なの!」
お母様は激した。わたしを殴ろうとする彼女をお医者様が宥めて、わたしはお母様と離された。少し冷静になったお母様は、わたしに目もくれずに言った。
「ずっと、騙してたのね」
暖かみのない、冷たい低い声。わたしは必死に震える声を振り絞った。
「お母様…」
「わたくしをそう呼んでいいのはシエラだけよ」
お母様は、目を覚ましていた。
偽者のシエラなど要らなくなっていた。
すべてを理解していた。
「あーあ。とうとう逃げだしちゃった」
城下町の広場。わたしは噴水の縁に座り込んでいた。空は今にも雨が降りそうな曇天だ。
いつかあんな日が来ることを覚悟していたつもりだった。
だからいつも、わたしはお嬢様で、愛情のすべてはお嬢様のもので、一切合切わたしのものではないと言い聞かせていたのに。
油断していたようだ。
「これから、どうしようか」
ポツリと呟く。その言葉が思考に染み渡るのに、ずいぶん時間がかかった。
「…謝りにいかないといけないよね」
憂鬱だった。
奥方様を騙していたという事実も、逃げ出してしまったことも、シエラという身代わりはどんな運命をたどるのかも。
「……何も考えたくないや」
わたしは立ち上がってふらふらと気持ちの赴くままに長く歩いた。気がついたら、リアは、わたしはグレイと一緒に歩いた道を歩いて、実家の前に立っていた。
「こんなところに来てどうするつもりなのよ、わたし…」
ただ空を見つめていた。灰色の空を見つめていた。グレイの空。
子供たちは元気に駆け回っていた。
昔より家は綺麗だった。お金に余裕があるわけではないだろうけれど、どうしようもないほどひもじい思いはしていなさそうだ。
子供のころのことを思い出す。
無気力で働かないろくでもない父親と、従順で毎日働きづめの母親。わたしは家事をして、子守に忙しかった。
前と後ろに子供を抱いて、空いた手で歩けるぐらいの子供を四六時中つれて歩くのだ。
いつもおんぶ紐が食い込んでいたし、すぐに駄々をこねる弟や抱き上げていないと泣き出す赤子。
そんな風な毎日を過ごす10歳にも満たない子供はそういないだろう。何て健気なわたし。
いつも体は重いし、すぐ下の弟にごはんは分けてあげていたから、わたしはいつもひもじくてふらふらで、同じ年頃の子供と友達になることなんてできなかった。
そんなときにグレイと出会った。
彼はわたしがずっと家事をしていても離れていかなかったし、疲れて話の途中で寝ても怒らなかった。もっとも彼の話は面白くて寝ることはなかった。
家事を手伝ってくれて、子守りだってやってくれた。弟妹は彼によくなついていた。
わたしは彼の話が大好きだった。
冷たい滴が当たって我に返った。灰色の空はグレイの目と同じ色になっていた。
「いい夢を見させてもらったってことなのかな」
奥方様と旦那様のところに行ってから、一度もひもじい思いをしなかった。マナーや言葉遣いで学ぶことはたくさんあったけれど、奥方様の愛情は暖かくて、愛されていると錯覚することがしばしばあったものだ。
そうだ、とわたしは笑った。いい夢を見たじゃないか。
「お姉さん、こんなところにいたら風邪引くよ」
15歳ぐらいの少年がわたしを屋根の下まで連れて行った。わたしの実家に連れて行った。
「どうもありがとうございますわ」
もう身体中濡れていたけれど、部屋の中は暖かかった。暖をとる薪があるのか。
「大丈夫。お姉さんこそどうしてこんなところに?見たところ貴族のお嬢様じゃないの?」
「秘密ですわ」
彼は弟かなと思う。昔の面影か仄かに残っている。
彼の頬に手を触れて、囁くように問いかけた。
「あなた、お名前は?どうしてわたしを助けてくださいましたの?」
弟は頬を赤くした。
「別に助けてなんてっ…!
おれはレイン。あんたは何か姉さんに似てたんだ」
鼓動が早くなった。姉。レインの姉はリアだけだ。レインは覚えているのか?
「お姉様がいるの。どんなお方なの?」
「もう覚えてない。あんたと同じ髪と目だった。すごい人だったよ」
何がすごいんだろう?
わからないけれど、リアは確かに存在した。レインが朧気にでも覚えていた。それだけで嬉しくなった。
「雨宿り、ありがとうございました。わたくしはもう行きますわ」
長居は無用だ。確かリアは死んだということにするはずだった。レインは死んだと思っているはずだから、うっかりぼろをさらしたくない。
「おい、まだ外は土砂降りだぞ」
やさしい子に育ったんだね、レイン。お姉ちゃんは嬉しいよ。
「ご親切、感謝いたしますわ。楽しい時間を過ごすことができました」
外は土砂降りだった。すぐにぬれそぼる。雨の中を歩きたかった。
頭を冷やそう。
これからのことを冷静に考えるために。
‡ ‡ ‡
対面しているのは恋慕う令嬢の両親、のはずだ。ともかく表向きにはそうなっている。
どうしてこうなっているのかと、遠い目をしたくなった。彼女が家出したというから駆けつけたのに、どうしてこうなっているんだ。なぜ婚約破棄されそうになっているんだ。
「どういうことでしょうか?婚約破棄?気にさわるようなことでもいたしましたか」
「いや…あなたに非はない。ただ、こちらにもいろいろ事情があってな」
話しているのはアンダーソン伯爵夫妻。
俺が結婚を申し込んだ令嬢の両親。
ついさっき伯爵家から結婚を受ける旨の手紙が届いたところだったのに、何故婚約破棄。不可解だ。
不可解と言えば、娘を溺愛する夫人が何も話さないことだ。この話に一番乗り気だったのは彼女だったはずなのに。
「あの娘は、あなたに釣り合いません」
不自然に青ざめた風貌。いつもの朗らかな表情が見る影もない。
そして俺は理解した。
「もう、彼女は用済みだからですか」
我ながら年上に失礼な物言いだと思う。いくら格上の侯爵家の人間の言葉だからといって、言っていいことと悪いことがあることぐらい知っている。
しかしそれも気にならないぐらいには腹が立っていた。
「あれはそんなことまで…」
伯爵が失望したようにため息をついてうつむいた。
彼女の冤罪を晴らすために俺はまた口を開いた。
「社交界では有名な話ですよ。けれど彼女は誰にもそんなことを言いません」
心なしか乱暴な口調になっていた。俺は続けた。
「お話はわかりました。ご夫妻は拙いおままごとをやめて、要らなくなった人形を捨てたいのですね」
「おままごと、ですって!?わたくしは騙されていたのに?」
激昂して叫んだ夫人。俺は納得がいかない。
「俺からしてみたら、一番の被害者はリアだ。10年、だ。彼女は別人になりすまさせられて10年も過ごした。家族と引き離されて、貴族のおままごとに付き合わされていたんだ」
「あれは頷いた。自分で行くと決めた」
「家族に金を渡したんでしょう?リアの両親はリアを愛していなかった。金をもらってすぐに売ろうと決めたんだろう。そうしたら、子は親に従うしかない。リアは頷くしかなかったんだよ」
伯爵が反論したが、反論のうちにもみたない。伯爵が聞いた。
「きみは、あれにどこまで聞いている?」
鼻で笑った。
「どこまで?はっ。何一つ彼女は話さない。シエラのふりをして、シエラになりきるだけだ」
俺は侯爵家の道楽息子に手をつけられて孕んだメイドの息子だから、10歳頃まで庶民として育った。思い当たる節があるんじゃないのか。
そう言えば、面白いぐらいに反応する二人。
「リアは幼馴染みだった。すごくやさしいしっかりした子だったよ」
あの頃は、と蘇る記憶。
俺は女でひとつで育てられた。育ちのせいか生まれのせいか、妙に達観した子供であまり友人はいなかった。
ある日小さいからだで前と後ろに赤ん坊を抱き、片手で幼児を連れて歩く少女を見つけた。
近所の人に聞けば、皆感心したように答えた。
幼い弟妹の世話をしながら家事をすべてこなす子供だと。
俺はいっぱしの大人のつもりだったから、彼女のほうが大人のようで悔しかった。
だから毎日彼女を観察して、放っておけなくなった。
いつもお腹を空かせて疲れきっていて、手を貸したくなった。話してみれば彼女はとても賢くてやさしい溌剌とした少女で、彼女が俺の初恋だった。
母が死んで、俺は父のもとへ引き取られた。だが父はもうすでに亡く、嫡子もいなかったため、祖父に跡継ぎ教育をさせられることとなった。
祖父とは気が合い、友人のような距離感だ。
時たま俺は屋敷を抜け出して、リアに会いに来ていた。
「俺はあのときもその場にいた」
二人で話していると、リアが気にする人影に気がついた。
身分の良さそうな女性で、ふらふらと自失している体でスラムのほうへ歩いていくから。
「あなたが本当の娘とリアを間違えて抱き締めるのを見ていた。そして次に彼女の家にいったとき、彼女は死んだことになっていた」
地面が崩れるような感覚だった。ただ、彼女に一番年の近い弟が、死んだのではなくどこかへ行ってしまったのだと教えてくれて、ほっとした。
「ただ生きていてくれればいいと思った。だから、夜会で初めて彼女を見たときはとても驚いた」
亜麻色の髪とモスグリーンの瞳。
昔と違って綺麗なドレスを着て、血色もよくなっていた。
快活な雰囲気はなくなっていた。
ここまで似ている人間がいるのかと、ひどく驚いた。
驚く、という感情だけだったのが、社交界に流れる噂を聞いて彼女自身を見るたびに変わって行った。
「伯爵夫人はお嬢様の死を受け入れられなかったのですって」
「それで伯爵は身代わりを夫人に与えたのでしょう?」
「おかわいそうですわね」
「それにしてもよく似ていること」
まだ幼い少女はただしとやかに笑って佇んでいた。聞こえるように言われる悪意のある囁きも、嘲笑の視線も、何も感じないような態度で佇んでいた。
俺はあのとき、その少女がリアだなんてこれっぽっちも思っていなかった。
ただ、素晴らしく肝の座った少女だと感心するだけだった。
凄い人だと思って、目が離せなくなった。もしかしたらあのときまた、リアとは知らずに恋に落ちたのかもしれない。
彼女と話すようになったのは、ついこの間だ。彼女は箱入り娘のわりに様々なことを知っていた。そして、リアと同じように、楽しそうに俺の話を聞いてくれた。
ずっと忘れていたリアを思い出した。
思えば思うほど、リアとシエラには一致する点がたくさんあった。
確かめようと思った。
「彼女がシエラでもリアでもよかった。俺が知っている彼女であるなら、それでよかった。ただ、確かめたかっただけだった」
リアはシエラの身代わりとして10年、過ごしていた。
それがわかっても、きっと俺の態度は変わらなかった。
俺は穏やかに口を開いた。
「リアと過ごした10年間、あなたはどうでしたか?」
夫人は認めたくない、というように口を引き締めてうつむいた。
「しあわせだったでしょう?」
認めてほしかった。続けて口を開く。
「あなたが町外れでリアを見つけてから何日後にあなたのもとに行きましたか?」
「その日のうちに話をつけて、マナーやシエラの特徴を10日で叩き込んだから、10日後だ」
夫人のかわりに伯爵が答えた。
「10年前、リアは貧乏の家の平凡な子供でした。そのぐらいの年頃の貴族の令嬢が持っている知識の半分も持っていませんよ。ふつうの子供が何年もかけて身に付けるものを、彼女は10日で身に付けた。この苦労、わかりますか?」
しあわせだったでしょう、とまた言った。
「あなたは10年、偽者だと気がつかなかった。リアは必死にシエラになりきって、本物と同じぐらいあなたを思っていたんです」
そうでなければすぐにぼろが出たはずだ。そう言えば、夫人はか細く叫んだ。
「確かにわたくしはシエラと共に10年過ごしてしあわせだったわ!でも、シエラなんてどこにもいなかったのよ!」
「リアも同じだ。
シエラに与えられている愛情は、身代わりのリアに注がれた。リアは、シエラに与えられている愛情が自分のものではないと突きつけられながら暮らしていたんだ。愛されるべき子供でありながら」
子供を責めるのは間違っていると言いたかった。
「あなたの虚しさも理解できるつもりです」
愛する我が子が偽者で、10年も前に死んでいたのをやっと自覚するだなんて苦しいだろう。きっと虚しいだろう。
それでも―――
「すべては伯爵が決めたことでしょう。リアを責めないでやってください」
深くお辞儀をして背を向けた。
リアを探してきますと言い捨てて。
‡ ‡ ‡
雨が降っていた。傘をさして撥水性の外套を着てから、外に出る。
彼女に外の知識があるとは思えない。行くのなら、この前のデートで行ったところだろうとあたりをつけた。
一軒一軒見て回って、リアが来ていないか聞く。どこも空振りだった。
雨足は強い。リアは傘なんて持っていないはずだ。きっと濡れてしまっている。
心配事が頭を占める。舌打ちをして、雨の中を走る。
もうあそこしかない。
走って、人影を探した。リアの家への道を行く。
土砂降りの雨は止まない。
雨に濡れて大分頭も冷えた。
まずは奥方様に精一杯謝罪して、この町以外のところで、シエラもリアも知らない人たちのところで暮らそう。
そう思って空を見ていたときだった。
「リア!」
もう誰にも呼ばれることのないはずだった名前を呼ばれた。
「リア!!」
空耳だろうと思って放置していたら、さらにまた聞こえた。
声の聞こえたほうへ目を向ければ、一人の青年が走ってくるところだった。
「グレイ…」
茫然と呟くのと同時に、彼はさしていた傘を捨てた。走るのに邪魔だったのだろうか?
「リア!やっと見つけた…!」
気がついたらグレイの腕の中にいた。
きつく抱き締められていて、その必死に縋りつくような腕は震えていた。
「どうしたの…」
シエラになることも忘れて、グレイに身を委ねていた。
「心配したんだ」
グレイも、シエラと接するいつもの態度とは違ったような気がする。
何となく、グレイになら言えてしまった。
「奥方様が全部思い出しちゃった。わたし、もう用済みみたい」
静かに笑えば、グレイはなおさら強くわたしを抱き締めた。
仄かな熱を、心底慕わしいと思った。
二人とも雨でずぶ濡れだったけれど、そのまま歩き続けた。わたしとグレイは、いろんな思い出話をした。
リアだった頃のこと、シエラだった頃のこと、これからのこと。
「グレイ、わたしはしあわせだったよ。奥方様はたくさんお嬢様を愛していた。わたしはただの身代わりだったけれど、お母様から愛されていた」
「そうか、しあわせだったか」
グレイはそう言ったけれど、心配そうに聞いてきた。
「それでも、辛いこともあったんじゃないか?」
わたしは笑う。大丈夫、笑える。
「そりゃあ、いろんなことがあったけど、人生なんてそんなものよ。グレイだって大変でしょう?」
「そうだな。でもじいさんが面白い人で、楽しく愉快に生きてきたぞ」
「愉快……」
少し微妙な顔をすれば、グレイはこれからのことを聞いてきた。
「…婚約破棄、されたのなら、わたしはお嬢様である必要はないから退職するわ。奥方様にお詫びして、誰も知り合いがいないところで生きるつもり。グレイは?」
俺が何かしたか?といいたげな様子にわたしは腹がたった。
「婚約破棄されて、どうするの?」
何事もなかったかのように言えただろうか?
わたしは願う。グレイがつれない素振りをしてくれますように。そうでないとわたしはこの町を離れられない。
想いを、未練を残したままだなんて耐えられない。
「そうだな、どうしようか。――――」
雨音が続きを掻き消した。
聞き返せば、グレイはもう一度言う。
「まずは、好きな人に結婚を申し込む」
ああ、と口から吐息が漏れた。
わたしに婚約を申し込んだことなど忘れたかのような言い分に、わたしはどうしようもなく悲しくなった。
つれなくしてくれますように。
そう望んだはずだった。それなのに、こんなにも、胸が、いたい。
眦から溢れたものがあった気がしたけれど、雨に打たれてわからなかった。
「相手はどんな子なの?」
「俺より3歳年下で、華奢でおとなしそうな見た目なのに、すごく逞しくて肝も座ってるんだけど、繊細なところもたくさんあって、下町出身だけどついさっきまで伯爵家のお嬢様だった子だよ」
「それって…」
わたしはそれでわからないほど鈍感じゃない。それなのに、信じられない。
震える声で聞けば、グレイがあとを引き継ぐ。
「リアのことだ」
手を繋がれた。指を組む。グレイの指は指が長くて固くてきれいだった。
嬉しくて泣きたかったけれど、それよりも先に冷静さを取り戻した。
身分違いの恋は実らない。
グレイの母親がその良い例だ。わたしがシエラであったなら、グレイの家とも釣り合いのとれた縁談となっただろうけれど、これからのわたしはリアだ。
あまりの現実に、わたしは夢を見ることすらできない。
「嘘よ。グレイ、あなた自分の身分を忘れたの」
きつい声が出た。繋いだ手をはたきおとして身を離す。胸の前でさっきまで握っていた手をいじりながら身構える。
「忘れてねえよ。侯爵家の人間だ。次期侯爵を約束されているな」
しれっといったグレイに腹がたつ。
「じゃあ何でそんなこと言うのよ!」
まるで悲鳴のような声が出た。グレイだってわかっているはずなのに!
「あははは、大丈夫だ。愛があればどうにかなるさ!」
「何ふざけてるのよ!グレイのお母さんは悪い例も良いところよ!」
急におちゃらけだしたグレイ。グレイがふざけているとわかるからこそ苛々する。
何でそんなこと言うの?
さっきの結婚云々の話は嘘だったの…?
「何笑ってるのよ!」
グレイは心底楽しげに笑ってた。
「いや、リアは現実主義だなって思ったんだ」
「そうよ。わたしを納得させたいなら『身分を捨てるなら一緒に逃げよう』ぐらい言って」
「大丈夫」
グレイはふざけた表情をずっと崩して、穏やかな微笑みにかえた。
「侯爵家に引き取られたときに、取引をしたんだ」
なんの取引だろうか。勿体ぶるようにグレイは続ける。
「両親は愛し合っていたのに身分の差でしあわせになれなかった。父親は母さんと一緒に逃げる道を選ばなかったけれど、母さん以外を選ばなかった。だから侯爵家は跡取り不足。だから俺は交渉したんだ。
いつか俺に好きな人ができたとき、その相手としあわせになる権利をくれ、って」
そんなことをしたのか、とわたしは少し笑った。普通そんなことできないでしょう。グレイがやったというなら如何にもといった感じがして納得するんだけどね。
「じいさんは父親で懲りてたから了承してくれたさ。あの条件を聞いて面白いって笑う豪胆な人だ」
こころがふるえた。
「リア、結婚できても辛いことはあると思う。でも守るから。だから、俺と結婚してくれ」
雨の中。わたしもグレイもまるで濡れ鼠だった。こんな格好で、一生に一度のシーンだなんてかっこわるい。でも、わたしはただ、しあわせだと思った。
「わたし、たくさん迷惑かけるよ?」
「構わない。むしろ甘えて良いぞ?」
「だってわたし、さっきまでお嬢様だったんだよ?怪しいよ」
「どうにかなる」
「可愛いげなんてないよ?」
「リアは可愛いから大丈夫」
「お料理なんてもう10年やってないからできないよ?」
「料理人の仕事だろ」
「でも………」
「どんなことを気にしていようと関係ない。俺はリアがいれば良い」
まっすぐな言葉で、涙が溢れた。
手の甲でぬぐうけれど、止まらない。雨よりもたくさん流れていくみたい。
腰に手が回されて、グレイの近くに引き寄せられた。
グレイはわたしの輪郭を撫でてやさしく上向かせると、顔を近づけた。
反射的にぎゅっとつぶった瞼に唇があたり、涙を拭われる。
恥ずかしさに俯こうとしてもできなくて、そのうちに涙が止まった。
目が合うと、どちらともなく笑いが溢れてきて、くすくすと小声で笑いあった。
「大好き」
「愛してる」
わたしが言えば、競うようにグレイも返した。
「わたしも」
また顔が近づく。
次は、瞼ではなくてきっと唇だ。
雨が止んで、夕日が見えた。
怖いぐらいに美しい夕日だった。
橙の焔に包まれたような太陽と、紫紺の反対側。なだらかに変わる色が鮮やかで儚くて、言葉もなく眺めていた。
横を向けば、夕日を見ていたグレイが見えた。彼はすぐにわたしの方を向いた。
そして―――
二人の影が重なった。
ありがとうございました!