第3話
ルキウスは無言でラウドを連れて女将との約束通り馴染みの食堂に入る。人気の店だが、夕食時を少し過ぎていたのですぐ席に着くことができた。
「お前の名前、ルキウスというのか」
店に入ると女将に名前を呼ばれ、名前がばれてしまった。思わぬ誤算だ。実はこの店に着くまでいくつか偽名を考えていたのだが、全くの無駄となってしまった。このようにばれるのであれば今思うと嘘の名前を名乗らなくて良かったのだが、本名を知られると精神的に縛られた様で落ち着かない気持ちになるのは何故だろう。
「ルキウス…、姓は何だ?」
「ただのルキウスだよ。庶民に苗字なんてないだろう」
これ以上居心地の悪い思いをしたくないので嘘をついた。本当は姓を持っているが、そこまで教えてやる義理はない。それにルキウス・クリスハルドという本名はもう使うことはないだろう。クリスハルドという名前は珍しい上に父のお陰で有名で、突っ込まれることこの上ない名前なのだ。
嘘をつく時、言葉は少なめに限る。
「じゃあ、あんたの名前は?」
話題転換で尋ねた。相手は何も隠すことがないのでさらりと答える。
「俺か? 俺はラウド・ダニング」
「やっぱりクワントなんだよね? こんな間近で初めて見た」
まじまじと眺めるルキウスにラウドは苦笑する。
「クワント出身だが、『魔封じ』の身分は魔術師でなく僧侶だ」
「ダニングっていえば、確か政界のナンバー2だよね。息子なの?」
「まあな…よく知っているな」
ルキウスは声色の違いを聞き逃さなかった。微かだが今までと違い歯切れが悪い気がする。しかし時を同じくして食欲をそそるスパイシーな香りと共に料理がやってきたので追及してやろうかと思ったが、やめた。今のルキウスには腹ごしらえの方が重要だった。
注文した蒸し魚の他に、頼んでない料理が三品並べられる。理由は一つ、女将がラウドのことを気に入ったからだ。
鋼のような艶やかな銀色の髪は絹のようにしなやかに背中の中ほどまで流れている。瞳も同じシルバーで、ここでは常に人当たりの良い笑みを浮かべていた。端整な顔立ちは女好きするものであり、女将もその例に漏れなかったらしい。
ルキウスの時より二品も多く出た事に気分を悪くしたが、それでもここに食べに来て良かったと思った。
(絶品の蒸し魚も当分は食べられなくなっちゃうからな)
味を覚えこむようにルキウスはもくもくと食べた。ラウドもうまいな、と言い、女将からさらに麦芽酒を引き出すことに成功した。
「ここでまっててよ」
ルキウスは自分が泊まっている宿の部屋の前で一緒に入ろうとしたラウドを制止した。これからは一緒に行動するということで、宿屋もラウドが泊まっている部屋に移ることになり荷物を取りに来たのだ。
「俺も十六年生きてると、人に見られたくない物の一つや二つはあるんだよ」
そういって部屋に一人入り、ドアを閉めた。
ドアに背を預け、がらんとした広い部屋を眺める。見られて困るものなど一つもない。
引き出しからあらかじめ入れておいたロープを取り出し、引っ張って強度を確かめる。そしてあらかじめまとめられた荷物を掴む。それもたいした量ではない。今までに貯めたお金と母が縫ってくれた服。もちろん成長してとっくの昔に着ることはできない。しかもそれには血の黒くなったシミが至る所についていて、その上、所々に焼け焦げた跡がある。まだ軽く焦げ臭い香りもするが、母の唯一の形見として捨てることができない。必要最低限これだけあれば十分だ。後のものはまた買えば済む。こんな日もあろうかと準備しておいて良かった。さすがに『魔封じ』されるとまでは想定していなかったが。
ルキウスはそれらが入った布袋を肩にかけると窓へ向かった。
ここは三階で真下は海である。だからラウドも安心して自分を一人にしたのかもしれないが、下ではなく上の屋根へ行けば脱出が可能なことは下調べ済みなのだ。いろいろな宿を転々とし、住居をここに決めた一番の要因は今思えば「逃げやすさ」からだった。
海から吹きあげる潮風に髪を煽られつつもしなやかな肢体を使って軽々と屋根の天辺に立った。月明かりのおかげで歩きやすい。
「訳のわからない魔封じなんかについて行く訳ないだろ」
なるべく音を立てないように隣接する建物に飛び移り、適当な場所にロープを引っ掛けると、するすると裏路地に着地することが出来た。計画通りだ。
丘から海へと吹きぬける風が満足したルキウスの頬をなでていく。
(身を隠すためには他の町に行った方が安全だ。でも…結構好きな街だったな、ここは)
ふいに沸きあがる寂しさを感じつつ風の行く先を目で追う。その先で真っ黒な人影が目に入った。
心臓がひとつ、トクン、と大きな音を立てる。
それが誰か分かるのに時間はかからなかった。ともすれは固まってしまう体を叱咤して後ずさりする。瞳は人影から離せない。汗が次から次へと流れ出し、鼓動はこれ以上ないくらいに脈打ちだした。
(またあっさり見つかった。これが魔封じの能力なのか?)
二度同じ目にあえばそうとしか思えない。
ラウドは何も言わず近づいてくる。石畳の継ぎ目に足を取られ、ルキウスは転んでしまった。それでも何か一矢報いたくて、近くにあった小石をラウドにむけて投げつけた。
「正しい攻撃法だ。ただ、それくらいでは効かないがな」
小石を軽く避けたラウドの声は低く、あきらかに怒っている。当然これから魔封じが施されるに違いない。
(今度魔封じを受けたら、先ほどの様にもう簡単には外してもらえない)
しかし何故かルキウスはそれ以上にラウドの瞳に浮かんだ怒りの中に混じる失望の色の方が耐えがたかった。このような瞳で見られたことは今まで一度もなかった。
予想通り、先程受けた緑の光を浴びてルキウスは再び腹に呪印を持つ身となる。
(これからどうなるのだろう? 俺はどうやって生きていけばいいのだろう!)
一気に不安が心の中に押し寄せてきて、瞳から知らず知らず涙が溢れ出す。
「おまえの信用とはこんなものか」
ラウドは容赦なくルキウスの腕を掴むと無理やり立たせた。
「これが最後だ」
ラウドの声はさらにルキウスの心臓を縮み上がらせる。ルキウスは目をぎゅっと瞑った。
(そう、もう人生の最後に等しい)
しかし、続いたラウドの言葉にルキウスは目を見開いた。
「魔封じはする。だが、俺の言うとおりにすれば、最終的に魔封じを解いてやる。それか、魔封じをされたまま俺の前からいなくなるのもいいぞ。最後の二者択一だ」
こんなもの二者選択にならない。呪印の施された身で、一人で生きていくことなど到底できはしない。世の中はそれほど甘くはないのだ。
「わかったよ、あんたの言うとおりにすればいいんだろ」
強がって言うことが最後のプライドだったのだが、かえって心の弱さを露呈してしまった気がした。
ラウドはルキウスを掴んだ手の力を緩めたが、放そうとはしなかった。まだ逃げると思っているのだろうか。
(そんな元気、もうないんだけど)
ルキウスはラウドに引きずられるように歩きながら、夜道でも歩きやすいようにと道に等間隔にはめ込まれた白い大理石を見た。
それは月明かりを反射させて淡い光を放っている。
現実離れした幻想的な風景に、ルキウスは今起こっている事も夢ならいいのにと思った。