空は水色
地球の美しさをストーリーにしてみました。
シャンシャン、リーンと遠くから鈴をならすような音が近づいてくる。あれはソラの羽ばたきの音だ。スイは思わず首を上げて上を見た。
「こんにちは、スイ。又水を飲ませてもらうわよ」
人面鳥のソラは白い岩で積み上げられた井戸の渕に細い肢を右肢、左肢とかくりと折り曲げておろした。ソラの肢には鶏のような黄金色の蹴爪があり、動くたびにまばゆくきらめいている。
スイは井戸の中に住んでいた。自分が何故井戸の中にいるのか、自分が何者なのかもわからず、ただ、水の中で長い時を過ごしていた。
ソラが暗い井戸の中を羽ばたきもなく降りてきて、白い腕で水を掬って飲む。ソラの顔は優しく美しい。
「ねぇ、僕は君から見てどう見えているの」
「この井戸はとても深くて、真っ暗だから。
あなたの姿は見えないわ。私の蹴爪にあなたの眼の光が反射しなければ、この井戸にあなたがいることもわからなかったわ」
井戸の表面が小さくざわつき、波打った。
「この井戸の外はどんな世界なのだろう」
「私は高い山にすんでいるのよ。山はいつも雲がかかっていてね、赤や、紫、黄、緑、青それぞれの色が混ざり合って、それは美しい雲なの。そして、そのそれぞれの雲が深く重なりあう所があってね、そこには透明な泉がわくの。私たちはこの泉の水を飲んで生きているのよ」
「ああ、ソラの世界は何と美しい所だろう。僕もそんな世界で住めればいいのに。僕もソラのように美しければいいのに」
井戸の水が今度は大きくざわめいた。
「僕にはソラのような翼がない」
「スイ。あなたはこの井戸から出てこれないの」
この井戸を出る。もう何度考えたことか。自分がこの井戸を出たら、どうなるのか想像もつかなかった。もしかして、自分は水のない世界では生きていけないかもしれない。自分の体はずるずるのどろどろで、飛ぶことどころか歩くことさえできないかもしれない。
井戸を這い登ることもかなわないのだ。
「ソラ、無理だよ」
ソラはそうかという風に尾羽を揺らした。
「おいしかったわ。ごちそう様」
ソラは井戸を出ると、翼を大きく広げ鈴のような音をあたりに響かせて飛び去った。
長い時がたったように思う。ソラはずっとこない。スイはいつも井戸から見える空を眺めてソラを待った。空は青いときと黒い時があった。空の黒い時はソラはどうして来ないのだろうと思い、空の青い時はソラはきっと来ると思ってひたすら待った。
シャンシャン、リーンと空が鳴った。ソラだ。スイはソラが降りてくるのを待った。けれどソラはなかなか降りてこない。しかも不思議なことにシャンシャン、シャンシャン、リーン、リーンと何だか鈴の音がいっぱいするような気がする。
ようやくソラが降りてきたと思ったとき、スイは初めてその人面鳥がソラではないことに気が付いた。
「私はクウ。ソラの姉妹よ。ソラは死にそうなの。氷の山をずっと蹴爪で砕いていたのだけれど、とうとう蹴爪が折れてしまった」
「何故、そんなことを」
「スイ、あなたのためよ。ソラはスイをどうにかして井戸から出してあげたかったの。でも、スイは私たちとは違う形をしているかもしれない。どうしたらいいのだろうと、いつも言っていた」
「そして、ある日気がついた」
いつのまにか二人目の人面鳥が降りてきていた。
「私たちの住む山よりも遠い遠いところに冷たい石の山があるの。山が全部冷たい石でできている。とても冷たくて堅くて水になることもない」
三人めが言った。
「冷たい石の山を少しずつ砕いて、スイの井戸に落としてやれば、冷たい石は水になり、スイとまざっていつかはスイが井戸から出られるって」
四人目が言う。
「私はやめなさいって言ったのよ。冷たい石の山は堅く、砕けないって」
「もし、砕けても砕けた石を持って飛ぶには遠すぎるって」
怒った声も、泣き声も聞こえた。この井戸に何人の人面鳥が降りてきているのだろう。そして、ソラはどうなってしまうのだろう。「ソラ、ソラ」
スイは思わずソラを呼んだ。
「スイ、ソラはもうここには来れない。代わりに私たちが来たのよ。ソラが命をかけて冷たい石の山を砕いたから」
そうして、クウは大きな塊をスイの井戸にそっと沈めた。スイの体に冷たいものが溶けた。
「スイ、氷の石は薄青いきれいな色をしているのよ」
声が聞こえて又、スイの体に冷たいものが溶けた。
「スイ、井戸から出ておいで」
「スイが井戸から出てきたら、ソラを連れてくるよ」
数えきれない人面鳥が次から次に冷たい石をそっと井戸に沈めてゆく。スイは自分の体が何だか冷たく青い光で満たされていくように感じていた。
冷たい石の山は世界の果てにあった。世界の果ては暗闇に覆われていたが、その暗闇の中でも青く輝いて見えた。冷たい石の山に近づくものはいなかったし、その冷たい石を砕こうとした者などいなかった。時折近くを人面鳥が飛んでゆくことはあったが、ただそれだけであった。
ある日一人の人面鳥がやってきた。最初その人面鳥は冷たい石の山を何度も何度もぐるぐると回った。そうして、もう思い出すこともできないほど昔に星がぶつかった傷跡を見つけた。
「ここだわ」
人面鳥は大きな鳥だ。けれど、その鳥の蹴爪で砕けるほどもなく、冷たい石の山は巨大だった。その人面鳥の蹴爪は黄金色をして、鋭かったが冷たい石の山の石はかけらほども削れなかった。それでも、その人面鳥は蹴り続ける。日が沈み、日が昇り、そんなことも気が付かないように蹴り続けた。別に体が痛いわけでもない。むしろ痒くなることもない。けれどあきるほどその人面鳥を目にしている内、冷たい石の山は考え始めた。何故と。
「ああ」
人面鳥の小さな悲鳴が聞こえた。黄金色の蹴爪が折れていた。人面鳥はそれでも折れた蹴爪を手に取り、再び冷たい石を砕こうとしていた。
冷たい石の山は人面鳥が蹴爪を振り下ろした瞬間を図って大きく身震いを一つした。ズンと響くような音がして大きなかけらや幾千もの小さなかけらが降り注いだ。
「ありがとう」
ソラは冷たい石の山に嬉しそうに声をかけた。けれど、このたくさんの大きな冷たい石をどうやって持ち帰ればいいのだろう。ソラには小さな冷たい石一つ持って飛ぶ力は残されていなかった。
クウがソラを見つけた時ソラの蹴爪は折れ、羽はぼろぼろで何よりソラはやせ細っていた。
手には薄青い小さな冷たい石を持っていた。
「ソラ、お前冷たい山を砕いたのかい」
クウは信じられない思いだった。
「クウ、スイにこの冷たい石を届けたい。スイの暗闇で光る二つの瞳は、この青い冷たい石のように美しいと伝えたい」
クウはソラの手をそっと撫でた。
冷たい石の山からスイの井戸まで橋がかかったようだった。人面鳥の白い翼がどこまでも連なり、冷たい石のかけらを手渡してゆく。
冷たい山の石は人面鳥の手を凍らせ肢を凍らせ、その重さは命を削った。最後の冷たい石のかけらを冷たい山から抜き取った人面鳥は翼を羽ばたかせることもできなかった。次の人面鳥も同じだ。次の次の人面鳥も順番に冷たく凍えた体を抱くように落ちて行った。
体の中から青く冷たい光が満ちてゆき、スイは自分の体が井戸の上へ上へと押し上げられていくのを感じていた。冷たい光はスイの体の中で静かに燃える冷たい炎に変わっているようで、どんどんと力があふれてくるのだった。そして、もう井戸の淵からあふれんばかりに盛り上がった水の中に最後にクウが冷たく青い石を沈めた。
「生まれた。生まれた。生まれた」
冷たい石の山も叫んだ。倒れていた人面鳥たちも叫んだ。クウもソラも叫んだ。そしてスイも叫んだ。光も風も雲も叫んだ。羽ばたかぬ翼の代わりに赤や青や黄色や橙橙色や紫やら全ての色が煌めいた。倒れた人面鳥達は静かに空に押し上げられていく。そして暗い世界の中で白い川になった。スイは暗い世界から押しあがった。その柔らかな体はどこまでも地を這って世界の果てまで覆った。ソラは川となった姉たちを追って空を飛んでいった。大きく翼を広げて。スイはいつもソラと白い川を見ている。ソラと白い川もスイを見ている。
スイ、あなたは青く燃える炎のよう。見飽きることのない美しい青い命ね。