インディアン・ゾーン
2 空母瑞鶴艦長室 1967年8月1日 南ベトナム沿岸
空母瑞鶴の艦長室は戦後建造された艦艇では考えられないほど広かった。
しかし、菅野直という男がいると何故か狭く感じられるから不思議だ。
いや、狭いというのは、正確ではないかもしれない。
空母瑞鶴艦長、関行男海軍大佐はそう思った。
狭いという感覚は、結果としてそう感じるものだ。そう思ってしまうのは、菅野という男から、不思議な強い存在感を感じてしまうからだろう。菅野は自然と人の注目を集めてしまう男だった。ハンサムではないが、人を惹きつける何かがあった。
場合によっては、不快かもしれない。
しかし、軍事組織においては有為な才能だった。
特に攻撃的な、危険な作戦に従事し、闘志を以て人を率いて戦うような立場に立つなら、菅野のような男は最適だろうと思う。
要するに才能があるのだ。戦争の。もしも、この男が戦国時代に生まれていたら、ひょっとしたら名のある武将になっていたかもしれない才能だ。
カリスマ。
戦後に入ってきた、横文字を使うなら、そうなる。
将器。
古い言葉で表現するなら、そうなる。
しかし、関はそうした既存の言葉では捉えきれない菅野という男の才能を、狂熱と表現していた。
先に大戦において、無条件降伏を良とせず、部下ともに反乱を起し、鎮圧されて営倉に放りこまれ、さらに合衆国軍に武装解除されても闘志を失わず、捕虜収容所から脱走して、合衆国の輸送機を奪って内地に帰還した菅野直という男には、狂熱という言葉こそふさわしい。関はそう思った。
さらに内地に帰還した後も、刑務所と日ソ戦争の戦場の間を往復した男だ。戦いに狂っている。そうとしか言いようがない男だった。
その闘志と才覚に、関は海軍士官として羨望に近いものを感じていた。
しかし、そうした才能の有無は二人の関係において、さして重要な意味をもっていなかった。
菅野直と関行男は同期の桜だったからだ。
大戦が終結し、菅野が大佐となって航空団を率いるようになり、訓練中の事故でパイロットの道を挫折した自分が空母瑞鶴の艦長を任されることになった現在においても、その友情は続いていた。
「なぁ、関よ」
熊のように艦長室を歩き回っていた菅野が、初めてソファに腰を下ろした。
「俺達、帝国海軍の伝統って奴は何なんだろうな?」
「金曜日にカレーを食べることかな?」
冗談だよ、と関は付け足した。
「見敵必殺。見敵必殺だ。いつから、海軍は腰抜けの集まりになった?うちの若い衆が誘拐されたのに、ほっとけっていうのはどういう冗談だ?」
「その話か」
昨日、空母瑞鶴の艦上機が1機失われた。
敵機に撃墜されたからだ。ただ単にそれだけのことだった。そうした損失で関の心が揺らぐことはなくなっていた。ここではそう珍しいことではないからだ。毎日、ベトナムの空と大地で、多くの若者を命が失われている。
部下の死は辛いが、指揮官がそうした死を意識することは殆どない。
そうした損失に意味を見出すのは政治家やマスコミの役割だった。
もしも、関が部下の死に、戦果や損害といった次元以外から関心を寄せたとしたら、関の心は幾ばくもしないうちに張り裂けるに違いなかった。
むしろ、関にとって意外に思われたのは、菅野から「若い衆」などという、自らの老いを認めるような言葉が出てきたことだ。
奇妙に思われるかもしれないが、関は菅野という男が老いる様を想像できなかった。今も、40過ぎだというのに、白髪の一つもない。
対して関は、ベトナムに派遣されてから、髪がほぼ銀髪に近いことになっている。
「パイロットが捕虜になるなんて、珍しいことじゃない」
北爆において、合衆国空海軍は数多くの作戦機とパイロットを失っている。
それも最新型の地対空ミサイルやジェット戦闘機による損失ではなく、第一次世界大戦時から存在する対空機関砲や高射砲による損害が圧倒的に多い。
この頃の北ベトナムは、さながら古今東西の新旧、大小あらゆる対空火器の見本市になっていた。帝国陸軍の遺棄兵器や、ソビエトがナチス・ドイツ軍から鹵獲兵器も珍しくない。ジェット戦闘機に対して全く無力に思えるAK突撃銃のような小火器まで動員して、北ベトナムは北爆に対抗していた。
そして、そうした対空砲火は低空侵入するジェット戦闘機に対して意外なほど効果があった。精密機械の塊であるジェット戦闘機は、30口径程度の小銃弾であっても、場合によっては致命傷になり得たからである。
仮に飛行に無関係な損害であっても、損傷すれば修理しなければならないし、そうなればその間は作戦行動が不可能になる。タンソンニャット国際空港には、そうした修理待ちや、修理を諦められた合州国空軍機がジャングルに山のように積み上げられていた
ニューギニアのような、日本軍機の墓場が出来た戦場を知っている関にとって、それはいつか見た風景だった。
こうした小火器や対空機関砲による攻撃に対する対策は二つあった。
一つは小火器や機関砲に耐えうる重装甲を付与することだ。A-1スカイレーダーはそうした重装甲を持った攻撃機で、高い生存性と低速飛行力を駆使して近接航空支援で活躍していた。しかし、F-105やF-4に装甲を施すのは無理があった。この時期のジェットエンジンのパワーでは、装甲と兵装を両立することは困難だったからだ。また、無理をして機体の一部に装甲を施しても、フラップやエルロンまで装甲化できるわけではない。しかし、そうした補助翼の損失によって飛行に支障を来すことがしばしばあったのだ。
もう一つの対策は、小火器や対空機関砲が届かない高高度を飛ぶことだ。
こちらは技術的に簡単だった。元々、ジェット・エンジンとは、対空砲等が届かない高高度を飛ぶために開発されたデバイスだからだ。
しかし、高高度を飛べば、レーダーによって容易に発見され、地対空ミサイルやSAMやミグの攻撃を受けることになる。そして、なにより早期発見によって奇襲効果が失われ、爆弾が落ちる頃には北ベトナム軍は雲隠れして、影も形もありはしない。
低く飛べば、対空砲火の弾幕に絡め取られ、高く飛べば、SAMとミグの迎撃を受ける。これがベトナム戦争において合州国空軍の陥ったジレンマだった。
こうした戦訓はソビエト軍の軍事顧問によって体系化され、第4次中東戦争において、エジプト軍がイスラエル空軍を打ち破る原動力になるのだが、それはもう少しあとの話である。
「それは分かってる。だが、うちから捕虜を出したのはこれが初めてだ」
「そうだな。おそらく、北ベトナム軍の狙いはそれだろう」
菅野はうんざりしたような顔で言った。
「政治的効果、か」
菅野も、他の多くの海軍士官と同様に政治に関わりを持つことを嫌っていた。
関もその点については同様だったが、菅野のそれは些か度を越えていた。嫌っているというレベルを越
えている。
はっきりと言えば、憎んでいた。政治という言葉を使うことさえ、憚るほどに。
「そうでもなければ、空母にちょっかいかけるような真似はするまいさ。連中はアレで、自分の実力をよく弁えている」
「敵の狙いはなんだ?」
「反戦運動の称揚か。まあ、ろくなことじゃないだろう。今頃、東京じゃ、ベタ金をつけた偉いさん達が、頭をかかえているはずだ。この戦争は恐ろしく人気がないからな。下手をすると内閣が倒れるかもしれん」
事実、このインドシナ半島における戦争は、日本の国内世論から総スカンを食らっていた。
ソビエトの影響下にある左派は当然として、右派からも攻撃されている。右派の論理では、アジア人は連帯すべきであり、現政権は米帝のアジア侵略の手先に成り果てた売国奴なのだった。
アジアの連携を訴えるのは左派も同じだ。
しかし、関にはアジアという言葉が、どうにも好きになれなかった。
そもそも、日本人で自分のことをアジア人などと思っている人間は、どれくらい居るのだろうか。関には深く疑問に思っていた。
いや、そもそもアジア人なるものは、果たして存在しうるのだろうか?
アジアとは語源からしてヨーロッパの東というアバウトな意味しかない言葉だ。つまり、ウラル山脈から東は全部アジアだ。しかし、中央アジアはイスラムだ。中国は漢民族で独自の文明がある。インドネシアやマレーシア、インドシナ半島にも、それぞれ独自の文化があった。日本人との共通点など、どこにもない。
きっと、アジア人なんてものはどこにも存在しないのだろう。人の意識の中にある共同幻想のようなものだ。実態など、どこにもありはしない。
ソビエト連邦に、ソ連人なるものが存在しないのと同じ論理だ。
しかし、関のような意見は、日本では少数派に属していた。
右派も左派も、大手マスコミも政府攻撃が最優先だったからだ。
そうした左右の攻撃により、日米同盟に基づくベトナムへの大規模派兵は挫折していた。この戦争に戦闘部隊を派遣しているのは、帝国海軍だけだった。空軍は輸送機や給油機などの後方部隊しか派遣していない。陸軍は軍医派遣のような医療支援のみに徹している。
陸軍派遣は軍医派遣さえも内外に強烈な反対と混乱を巻き起こしたほどだった。
国内世論は当然として、嘗て大日本帝国という嵐に襲われた東南アジア各国が、帝国陸軍の海外派兵に懸念を表明していた。
こうした政治環境下において、派遣された帝国海軍の作戦行動は著しく抑制的なものとならざるえなかった。特に、パイロットが捕虜になる可能性が高い北ベトナムでの作戦行動は一切禁止されていた。
パイロットが捕虜になるようなことになれば、国内世論の反応は最悪のそれが予想されていた。特別高等警察や憲兵は、既に炎上している学生運動が、革命に結びつく可能性を真剣に検討していた。
「そんなことはどうでもいいんだよ。好きなだけ卒倒してろ。バカヤロウ、コノヤロウ」
幽鬼のような顔で立ち上がり、菅野はふらふらと部屋を出て行った。
ああなっては、もはや誰の言葉も届かないだろう。関はそう思った。
一度、こうだと決めたら菅野直という男は決して立ち止まることがない。止まるときは、自分が倒れるか、敵が倒れるか、二つに一つだけだ。
それを承知で、関はその後ろ姿に声を投げかける。
「菅野。アークライトって、知っているか?」
菅野の足がぴたりと止まる。
脈あり。関はそのまま独り言を続ける。
「CIAが主導するB52を使った秘密作戦の符丁だ。米軍の、僕の個人的な友人から、連絡があった。グアムのB52に規定外の出撃命令が出たそうだ。作戦コードはアークライト」
菅野は振り返ることもなく、聞いている。
だから、関も天井を見上げて話を続けた。
「東京は何もかも、なかった事にするつもりだ。何かするなら、急いだほうがいい」
屋良は、人生最悪の瞬間が何時か、いつでも即答することができる。
今まさにこの時が、人生最悪の瞬間だったからだ。
「クソッ・・・滅茶苦茶に殴りやがって」
腫れ上がった瞼を撫でて、屋良は暗い天井を見上げる。
むき出しの土の天井だ。板で補強してある。おそらく、NVAの地下基地だ。時計の類は盗られたので時間は分からない。だが、連れてこられてから1日経っていないだろう。
しかし、屋良には瑞鶴での生活が遠い昔のことのように思われた。
海と太陽が懐かしかった。この地下室は、あまりにも蒸し暑く、不潔で、暗く、惨めだった。
屋良は、反吐と一緒に砕けた奥歯を吐き出す。
半日あまりの尋問で、屋良の体は悲鳴を上げていた。
屋良が今のところ、階級と名前以外何もしゃべらなくて済んでいるのは、NVAの尋問が素人レベルだからだ。
尋問や拷問は、専門的な知識を要する。単純な暴力では長続きしない。対象者の意識がもたないからだ。相手の意識レベルを保ちながら適度に苦痛を与えるのは外科手術的な繊細さを要する。小説やテレビ等で尋問において魔法の薬のように描写される自白剤の投与も薬学に関する専門的な知識が必要なのだ。素人においそれと扱えるものではない。
だからといって、現状が楽になるわけでもなかったが。
屋良は気が短く、血圧は高いほうだった。それなりに喧嘩慣れしていた。暴力には慣れているつもりだった。しかし、半日も一方的に暴行を受けるようなことは、これが初めてだった。
恐ろしいとは聞いていたが、まさかこれほどまでとは思わなかった。
手足を縛られ、身を守ることさえできずに暴力を受けるのは、想像以上に屋良の血を凍らせていた。
しかし、いつまでも恐れ戦いているわけにはいかなかった。
捕虜には、脱走する義務があるのだから。
「と言っても、ここがどこか分からんのじゃ、逃げようがないだろ」
ここに車でずっと目隠しをされていた。ここが何処だか分からない。
北ベトナムのどこかだろう。船でここまで来たことは分かる。つまり、水辺だ。潮の香りはしない。船で河口から遡上して、内陸に入ったどこかだ。ただし、亜熱帯に属するベトナムはメコン川の支流が網の目のように広がっている。海に注ぐ川は星の数ほどあった。
つまり、何も分からないのと同じだった。
そもそも、脱獄することさえできそうになった。牢の格子は、鉄の代わりに、竹で編まれていた。竹といっても、素手でどうにかできるようなものではない。繊維質の竹は、小火器の弾丸を弾くことさえある。しかも、竹の間には有刺鉄線が張り巡らされている。
何か使える道具でもないか。屋良は奪われずに済んだフライトジャケットのポケットを探る。
「やめとけ。やめとけ。じたばたしたって始まらねぇよ」
屋良はかろうじて悲鳴を飲み込んだ。
格子の前に、男が一人、音もなく立っていた。屋良は全く気配や、足音を聞かなかった。
一瞬、幽霊か、幻覚を見たかと思った。殴られすぎて頭がおかしくなったかと思った。
しかし、男の瞳には知性が感じられた。幻覚ではない。現実の存在であると思う。自分の気が狂った可能性はあまり肯定したくないというのもある。
屋良は気後れを覚えながら言った。
「何だ、お前。いったい、何だ?」
「何だ、か?俺は何か、か?いきなり哲学的なことを訊くな。俺は何か・・・うん。分からん」
男はからからと笑った。
そこで、屋良はからかわれたことに気がつく。自分が間の抜けた質問をしたことも。
さらにもう一つ、気付いたことがあった。男は日本語を話していた。
「お前、日本人か?」
「お前のような若造に「お前」呼ばわりされる筋合いはないが、まぁ、そうだな。日本人だ」
そこで、ようやく屋良は相手の様子を伺う余裕が出来た。
歳は、自分の倍ほどはありそうだった。中年だ。若くはない。しかし、老いた感じはしなかった。むしろ、老練さを感じる精悍な風貌だった。
しかし、あまり気配が感じられなかった。覇気がないと表現するべきか。生気が希薄な気がした。見た目と雰囲気が恐ろしく不釣合いだった。ひょっとしたら目の前にいても気がつかないかもしれない。そうであるならば、まるで突然、幽霊のように現れたことにも説明がつく。
だからといって、屋良は相手を軽んじるような気にはならなかった。
逆に、得体のしれない恐怖を感じていた。
こいつは死神だ。屋良はそう思った。
「将校か?」
そうだとしたら、この男の正体はだいたい検討がつく。
しかし、男は心外な顔で、こう言ったのだ。
「いや、パイロットだ」
そこで発想が飛躍した。
「お前か?」
「そうだ」
男は笑った。やっと気がついたのか、という具合に。
屋良はどうして自分がそんな発想に至ったのか、不思議で仕方がなかった。
しかし、屋良にはどうしてもこの男こそが、自分を撃墜したミグ・パイロットに思えてならなかったのだ。理由は何もないけれど。
唐突に、男は言った。
「屋良内夫海軍中尉。戦争に臨むにあたって、まず、我々のような士官がまず知るべきことは何か?」
屋良は発言の意味を理解しかねる。しかし、答えは一つしかなかった。
「勝つことだろ。常識的に考えて」
「それは結果にすぎない」
男はまるで、関数を覚えたばかりの学生に、数学の神秘を語る数学教師のような口ぶりだった。
「原因があって、結果がある。順番を取り違えるな。結果として、勝つことや、負けることがある。それは重要じゃない。まず念頭に置くべきことは、原因。つまり、戦う理由だ」
「あんたは何が言いたいんだ?」
屋良は頭痛を覚える。
こいつはイカれているんじゃないかと思った。
「もしも、何の理由もなく戦う羽目になっているとしたら、それはもう、ただの災難だ。つまり、今のお前さんのように」
「俺は上の命令に従っているだけだ」
甚だ不本意なことが多いけれど。
それでも、軍隊は命令で動く。駒が自由意思で勝手に動きまわっては、将棋は成り立たない。
だが、男はそれは間違っていると言った。
「お前は士官だろ?命令に従うだけなら、士官は必要ない。兵卒だけで十分だ。士官なら、自分の頭で考えて、戦場を選べ」
「なら、あんたこそ、何のために戦っている。とっくの昔に、大日本帝国は連合国に降伏したっていうのに」
屋良は男の正体に気付いていた。
大日本帝国の亡霊。降伏を拒否して、地下に潜った旧軍の将校だ。東南アジアで、紛争があるところには必ず姿を見せる。その数は3万人を越えるとされていた。
その多くが、共産主義勢力の軍事顧問や兵士になったと聞く。皮肉な話だった。西側陣営の一員である大日本帝国の元将校が、共産主義者の手先になっているのだから。
屋良には分からなかった。
彼らが何のために戦っているのか。とっくの昔に、戦争は終わっているというのに。
「坊主が憎けりゃ、袈裟まで憎いか?節操がないにもほどがある」
「そんなんじゃないさ。お前には分かるまい」
男は何かを投げて寄越した。
鈍い金属音と共に床を転がる。屋良の目の前でぴたりと止まった。それは、錆の浮いた鍵だった。
意味を問うため顔を上げた屋良は息を飲んだ。男が手にした拳銃の銃口が額をポイントしていた。全身から汗が吹き出す。
黒々とした銃口を穴が開くほど見つめていると男が笑った。
「冗談だ。餞別にくれてやる。もう少ししたら、お仲間がやってくる。それまでおとなしくしていろ」
男は拳銃を足元に置くと去っていた。
屋良は慌てて拳銃を確保すると渡された鍵と拳銃を見比べた。
拳銃はマカロフかと思ったが、違った。見たこともない銃だった。かなり古臭い感じの銃だ。マニアの同僚が見せてくれたワルサーP38にも似ていたが、日本語の刻印が入っている。これは旧軍の拳銃かもしれない。だとしたら、かなりの骨董品だ。
ちゃんと撃てるのか、屋良は心配になってきた。
4機のUH-1Jが母艦を飛び立つと夜が白みはじめた。
開けっ放しのサイドドアから吹き込む風は冷たい。熱帯性のベトナムも、夜明け前のこの時間は比較的過ごしやすかった。
完全武装した海軍特別陸戦隊1個小隊を率いる入速出遣夫中尉は、米軍横流しのジッポーでハノイで買い込んだマニラ葉巻に火を灯す。
ナフサの代わりに入れたガソリンが目に染みた。
紫煙がするすると肺から血中に広がっていくのが分かる。入速出は戦闘前のささくれだった心が鎮静していくのを感じた。アドレナリンとニコチンがいい具合に混ざる。
陶然とした気分で、入足出は夜明け前の海を見た。
夜明け前の薄暗い海をUHが、低空で飛んでいく。
理由は二つある。一つは、敵のレーダーから逃れるため。もう一つは、味方のレーダーから逃れるため。特に米軍に気づかれるのは困る。下手をすると味方撃ちを食らいかねない。何しろ、このフライトを知っているのは、日本人だけだからだ。敵にも味方にも秘密の極秘任務だ。
しかし、海岸線を越えれば、敵はすぐこちらを見つけるだろう。その点については、全幅の信頼を置くことができた。NVAはベトナム全土に目視の対空監視網を張り巡らせている。空中にあるものはたちまち敵の知ることになり、熾烈な対空砲火に曝されることになった。
入足出はそうした困難を容易に予測できたが、自分が生き残ることに関してはさして疑問を抱いていなかった。
だからと言って、たった一人のパイロットを助けるために何故、自分と自分の小隊が死地に送られなければらないのか、多少の疑問を覚えないわけでもない。
入足出はブリーフィングで配られたパイロットの写真をまじまじと見た。
『変な奴だお・・・』
雪のように色白で、面長の男だった。しかもケツ顎だ。醜男じゃないが、決してハンサムではない。何が楽しいのか、バカみたいに笑っている。
もっとマシな写真を用意できなかったのか、小一時間問い詰めたかった。
入足出小隊の任務は、この男(コードネーム:ホワイトロング)の救出だった。不可能な場合は、死体を回収するように頼まれていた。
この場合の、頼まれていたというのは、これが正式な軍令に基づく作戦行動ではないという意味だった。この作戦は東京や南ベトナム派遣軍司令部の許可を得ていない。それどころか、直近の第3艦隊司令長官でさえこの作戦を知らない可能性があった。
全ては空母瑞鶴の航空団長の、個人的な依頼によって動いていた。もちろん、軍隊とはそうした個人的な依頼などでは動かないし、動いてはならないものだ。
しかし、どういうわけか実弾携行許可から、ヘリの発艦に至る作戦準備の全行程において、全ては滞りになく完了した。
理由は不明だ。
入足出のような士官から、ほぼ全ての兵に至るまで、皆々から生き神のように崇拝されている瑞鶴の航空団長はやはりただものではないようだった。
或いは、本当に神の思し召しなのか?
生き神への信仰を厚くしながら、同時に運命論への傾斜を深めつつ、入足出はさりげなく部下の様子を伺った。
この前まで支給されていた単色オリーブドラブの戦闘服に代えて、新しく支給されたタイガーストライプパターンの戦闘服を着込んだ兵たちは、まるで猛獣のように見えた。
『いいじゃないかお・・・』
怯えるのは論外として、変に気負ってもいない。いい兆候だった。
ただし、銃をいじりまわすものが少しだけ目についた。
無理もない。入足出はそう思った。支給されたばかりの真新しい銃を見るとつい弄りたくなる。
これまで使っていたM16A1に代えて支給されたXM177E1は入足出のような特殊部隊員にとって、念願のアサルト・ライフルだった。
XM177E1はM16A1のショート・カービンモデルだ。全長が短く、そして軽い。とにかく振り回しやすい。接近戦になることが多いジャングルでは、ベストとは言わないが、ベターな相棒だった。欠点は、銃自体が軽いために反動が大きくなり、連射時の跳ね上がりがひどくいことだ。
しかし、死人さえ出来る過酷な訓練をクリアしてきた第101海軍特別陸戦隊員にとっては、さほどの問題ではなかった。
こうした合衆国製の最新装備が支給されるのは、第101海軍特別陸戦隊のような特殊部隊ならではのことだった。
ベトナム戦争への軍派遣が、日本国内で恐ろしく不人気であることは既に述べた。
その為、帝国陸軍は戦闘部隊をベトナムに派遣することは断念したが、日本から全く地上戦部隊を派遣していないというわけではなかった。
艦隊を派遣していた帝国海軍は、極秘に手持ちの特殊部隊を南ヴェトナム軍事支援米軍司令部/特殊作戦部隊(MACV-SOG)の元へ派遣し、大きな戦果を挙げていた。
第101海軍特別陸戦隊は、大戦中に呉鎮守府で編成された呉鎮守府第101特別陸戦隊(呉鎮S特攻部隊)を前身とする特殊部隊だ。かつては呉鎮守府の管轄だったが、現在は連合艦隊司令部直轄の海軍唯一の特殊作戦部隊となっていた。
前身の呉鎮S特攻部隊は、潜水艦(S特攻部隊のSはSubmarine)による隠密上陸、偵察、破壊工作及び暗殺を主要な任務としていた。ここまでなら、他国にもあるコマンドゥ部隊と同じだ。
呉鎮S特攻部隊が、他のコマンドゥと異なる点は、合州国本土の直接攻撃を主目的としていたことだ。
その為に隊員は体格、風貌が欧米人風のものを選抜して編成された。教育も、英語教育は当然として合衆国の地理、社会習慣、交通ルール等を叩き込まれた。食事や生活習慣も全て合衆国式だった。
そうした過去の経緯をもつが故に、合衆国との共同作戦に適すると判断され、他の特殊部隊を壊滅させた戦後の軍縮を生き残ったのは、なんとも皮肉な話だった。
よって、ベトナム派遣後のスムーズな活動と大戦果は半ば約束されたようなものだった。そして、戦果が挙がれば挙がるほど、合衆国軍もそれに応えて最新装備を融通してくれるようになった。
もしも、世論の支持が得られ、帝国陸軍のベトナム派遣が実現していたとしても、これほどまでの成功は得られなかったと言われるほどだ。
なぜならば、戦後に国土防衛軍としての性格を強めていた帝国陸軍は、同盟国との共同作戦を全く考えていないという世にも不思議な軍隊だったからである。
何しろ、仮想敵のソビエト連邦と日本本土との間には満州合衆国と大朝鮮民国という二つの緩衝地帯があり、在満米軍、在朝米軍があるかぎり、ソビエト軍の本土上陸など殆ど考えられなかった。
多くの日本人にとって第3次世界大戦とは、欧州と満州で起きる米ソの全面衝突という意味が強かった。
一応、日米同盟に基づき、日本軍は合衆国軍と共同して極東の安全保障に責任を負っていた。法的には帝国陸軍は満州や朝鮮に軍を派遣し、ソビエト軍と戦う義務がある。しかし、歴史的な経緯からそのようなことは、実質的に不可能だった。大朝鮮民国などは国が滅びることになったとしても、日本軍に祖国の土を踏ませないと大統領が公言するほどなのだ。
国土防衛軍たる帝国陸軍が全面戦争をするということは、満州と朝鮮の合州国軍が壊滅し、合州国本土からの増援も失敗に終わって、空海軍も含めて極東の合衆国軍が壊滅状態となり、勢いにのったソビエト軍が本土へ上陸するという場合に限られた。つまり、もはやどうしようもなく絶望的な状態で、根本的に合衆国軍の助けなど全く期待できないのだった。
そうした絶望的な想定であっても、大多数の国民、世論も外国軍を自国内に入れて本土防衛戦を戦うことに否定的だった。
いや、そもそも、そのような可能性を思いつきさえしなかった。大多数の日本人にとって戦争とは、特別な人達が行う、海の向こうで起きる特別な出来事なのだ。
こうした認識は、先の大戦において本土へ直接攻撃を受けたことがないことに基づいていた。陥落したマリアナ諸島にB29が進出し、本格的な戦略爆撃を行う前に日本は戦争を止めることができた。
そうした政治、社会、歴史的な背景を別にしても、当事者の帝国陸軍は組織の文化として合州国軍との共同作戦には否定的だった。
合衆国軍との直接戦闘で壊滅的な大敗を喫した海軍に対して、陸軍はそうした経験を有しておらず、未だに合衆国軍をすぐに降伏する弱兵と侮る文化があったからだ。
『馬鹿な奴らだお』
入足出はそうした帝国陸軍の在り方には反感しか感じ無かった。
戦中の貧困を引きずってきた入足出にとって、アメリカ大衆文化は憧れそのものだった。ハリウッド映画やディズニーのフルカラー映画を見て、ハンバーガーを食べて、コーラを飲むのが幼き日の夢だった。
ジャングルはクソだったが、ケサン基地で食べるアメリカのジャンクフードは天国の味がした。
SOGの仲間は勇敢な一流の戦士ばかりだ。ネイヴィ・シールズ、海兵隊のリーコン。合州国陸軍の
ロードランナー。皆、気のいい男達だ。人種差別は存在したが、入足出はそれを実力で黙らせた。
彼らが戦士として寄せてくる信頼が気持ちよかった。
誇り、尊敬、信頼。そして実力と実績。入足出遣夫中尉は、一兵士として望みうる名誉の全てを手に入れた幸運な男だった。
「フィート・ドライ。インディアン・ゾーン」
パイロットが、ヘリが陸地に入ったことを知らせてくれた。同時にここは既に敵地だった。
既に夜は明けている。忙しい一日の始まりだった。
清々しい日の出の下に、朝日を写す川があり、両岸にマングローブが広がっていた。小川から無数のクリークが伸びている。その先に水田があり、熱帯性の木々の間に高床式の家がちらほらと見えた。
典型的なベトナムの水郷地帯だ。
誘拐されたパイロットは、この川の上流にある魚雷艇基地に囚われているらしい。
どこからそんな情報を入手したか、ブリーフィングでは教えてもらえなかった。
おそらく、内通者がいるのだろう。推測の域をでないが。
あれこれ推測を積み重ねていると弾丸が飛んできた。聞き慣れた空気の擦過音。ソビエト製のダッシュKだ。気の早いことだった。
「ウェポン・フリー」
部隊にいるのは日本人だけだったが、指揮は常に英語だった。
ドアガンナーが対空砲火に向かってM2重機関銃を撃ち始める。金属が混ざった太く乾いた射撃音。派手な音を立てて空薬莢が飛び散る。ただし、これは威嚇だ。殆どあてにならない。
高速飛行するヘリからの機銃掃射など、狙って当てられるものではなかった。
すぐさま護衛の戦闘機が対空砲の掃除にかかる。
A-4スカイホークが急降下。対地ロケットを一斉発射。ロケットモーターが白煙を引いて地上に降り注ぐ。スカイホークは白いコントレールを引いて急上昇。地上にはジェットの爆音と破壊だけが残る。
ロケット弾の掃射を受けた対空砲陣地は一撃で沈黙した。
いいで腕前だ。入足出はそう思った。対空砲の操作員がばらばらになって空高く放り上げられるのが見えた。もしかしたら、対空砲の操作員ではなく、ただの無関係な一般人だったかもしれない。しかし、戦闘状態にあった入足出の精神はそうした可能性を無意識に遮断していた。
さらに別の編隊が急降下してくるのが見えた。ヘリの前を横切る形だ。
入足出はスカイホークの投下した物体が、炎と光に変化するところを見た。一直線に伸びた火炎が、火の川を作る。ナパーム弾だ。ガソリンと洗剤と砂の混ぜ物だ。水では消せない火炎地獄を創り上げる。黒々とした赤い炎と煙が立ち上った。炎の中に民家が飲まれるのが見えた。ベトナムの毎日どこかで繰り広げられている一般的な光景だった。
UHが、ナパームが作った火炎地獄を飛び越える。
入足出は葉巻を投げ捨て、ナパームで熱せられた空気を吸い込んだ。
朝一番に吸うナパームの香りは格別だ。
「グッドモーニング、ベトナム」
ベトナムの熱い一日はまだ始まったばかりだった。
続く