長崎おぅるど・せれなあで
本作は武 頼庵さまの「木枯らしの風景」企画に参加しています。
『垣谷さん、ガイドの仕事なんですけど、引き受けてやらんですか?』
そんな依頼が入ってきたのは、長崎くんちを2週間後に控え、街のあちこちが浮足立ってきていた9月の終わりの頃だった。
「只野さんか。今、修学旅行の学生さん相手で毎日結構忙しいんだがね」
私は縁側に置いた描きかけのスケッチブックを閉じながら、わざと不機嫌そうに言ってみた。
「あんたが連絡をよこす時は大抵骨が折れる話だからな」
「そう言わずに、頼まれてくれんですか。丸山花街のガイドなんですけど、適任者がおらんのですよ」
「ああ、あそこは坂が急なとこが多いし、昔の事を色々知っとかんといかんからなあ」
「そうなんですよ。うちの会でも研修会はしてますけど、あそこだけは垣谷さんじゃないと難しいんです」
そう言われれば、仕方ないとも、少し嬉しくとも思えてくる。全くこいつは人を使うのが上手い。それに確かあそこには……そうか、そうだな。まぁ行っても良いかもしれんな。
「わかった。引き受けよう。しかし、私ももう歳だ。あそこも10年以上行っとらんぞ」
「垣谷さんなら大丈夫ですよ。それじゃ、よろしくお願いしますね。御夫婦でお見えになりますから」
「仕方ないな。後進はちゃんと育ててくれよ」
私ももう87歳になり、長崎の坂が堪えるようになってしまった。だが、思い出してしまったからには気になって仕方ない。どれ、資料をどこにしまったかな。
◇◇◇
「こんにちは。遅れてしまってすみません!今日はよろしくお願いします!」
待ち合わせ場所である思案橋の停留所に降りてきた途端に、赤いTシャツを着た男性が申し訳なさそうに挨拶をしてきた。歳の頃は息子と孫の間くらいだろうか、思ったより若い。
「いや、大丈夫ですよ。お気になさらず」
「すみません、よろしくお願いします。暑いですけど、大丈夫ですか?」
そう言って微笑みながら挨拶してきたのは、奥さんなのだろう。旦那さんより若そうだが、しっかりしてそうに見える。
「ほら、そこに立ってたら危ないわよ」
「おっといかん」
「全くー。ぼーっとしないでよね」
……どうやら旦那さんは尻に敷かれているようだ。まあ、そのくらいの方が丁度良いのかもしれないな。
思案橋──現在は川が暗渠になっており、その名と由来の書かれた銘板があるだけだ。
「行こか戻ろか、思案橋。昔はこの橋を通って丸山遊廓に行こうか、どうしようか思案に暮れたから思案橋って言うたんですな」
「あーなるほどですねぇ」
「こっちは飲み屋街ですな。昔は銅座があったようです。夜に来たら昔懐かしい情緒溢れる風景が見れますわ」
「NHKの密着ドキュメントとか撮ったら面白そうね」
思案橋から丸山公園に向かう道すがらに説明をしながら歩いていたのだが、私はふと気になって旦那さんの方にコソッと尋ねてみた。
「……ところでな、旦那さん」
「なんでしょう?」
「奥さんに遊廓のことやら話しても大丈夫なんやろか?」
「あー、ご心配なく。むしろこのウォーキングを探してきたのは彼女の方ですから」
なるほど。それなら問題なさそうだ。
しばらく道を進み、カステラで有名な福砂屋本店前で立ち止まる。
「ここが『見返り柳』と『思い切り橋』言うてですね。丸山で遊んだ後に『ああ楽しかったな』と門と塀の中の浮世を振り返って見て、それで思いを断ち切って俗世へと帰って行ったんですな」
「なるほどー。それで思い切り橋、なんですね」
「まぁ今ではこの一本柳しか残っとらんのですがね」
その時、写真を撮っていた旦那さんが感慨深げに呟いた。
「でも、きっとこの柳は色々な人の想いやドラマを観てきたのでしょうね。もし喋れるなら聞いてみたいものです」
「なに似合わないこと言ってんのよ」
「失礼な!たまには俺だってなぁ……」
奥さんが旦那さんに毒づき、ケラケラと笑っている。
そう言えば、あの頃の彼女もよく笑う人だった。いや、笑うというより、目を細めて人の話を聞くのが上手な人だったな。あの時、もう一言くらい話せていたら、何かが変わっていたのだろうか。
……今さら考えても仕方のないことだな。
「昔はここに大きな門があってですな。ここからが丸山花街だったんです。料亭もいっぱいあったんですけど、今は5軒位しか残ってないですな。さみしいもんです」
「そうなんですか」
「ええ。ここの料亭なんかは一回上役の付き添いで来たけど、そりゃあ見事なもんです。ただその頃は金を出す係でね。金を出せ出せと上役が煩いもんだから、面白くなくてねえ。岩崎弥太郎が海援隊を抜けた気持ちがよく分かりましたよ」
今も芸妓が三味線や踊りを稽古している長崎検番、身代わり天神、丸山オランダ坂(こっちが本当のオランダ坂なのだが)など、坂や階段が続く名所を巡り、ようやく丸山公園に帰ってきた。残すところは大徳寺だ。
大徳寺公園には、現在寺社の建物は建っていない。明治の世になって廃寺になってしまったからだ。今では「寺はなくとも大徳寺」と長崎ではそれなりに有名なネタスポットになっている。
その境内には、明治から続く梅が枝餅の老舗「菊すい」がある。そここそが、熊本を出て長崎で暮らし始めてから、仕事帰りによく立ち寄った場所だった。あの頃の私にとって、ここは何より心の休まる場所だった。
「あそこにはなぁ。別嬪さんがおってなぁ。まだ御存命だろうか。私は仕事帰りに一目会いたくて、よく通ったもんだったのだが」
おっと。疲れたせいか、それともこの夫婦に気を許してしまったせいか、つい口を滑らせてしまった。
「そうですか。そりゃあ行かなきゃいかんですよ!」
私がついこぼした言葉を聞いて、旦那さんの方が率先して階段を登り始める。
一段一段が高めのこの階段は、年寄りには堪え、体力の衰えが恨めしい。しかも「もしいなかったら?」と、そんな思いが頭を過ぎり、足どりがつい重くなる。そんな私を見て、奥さんは私の隣に、旦那さんはいつの間にか私の後ろについている。多分、階段を滑り落ちないか、心配になったのだろう。
「3時までだったからなあ。もう開いているかどうか……」
自分に対する言い訳のようなものを言いながら、ようやく階段を登り切る。その途端に旦那さんの方がパッと駆け出し、「まだ開いてますよ!」と言った。
顔を上げると、枯葉が秋の陽光を散らし、境内を淡い秋色に染めあげていた。その中を香ばしくも懐かしい匂いが漂っている。おそらくそれは向かいのベンチに座っている人達のものだろう。
「まだ焼いてもらえますか?」
「いや、ごめんなさい。3時までなんですよ」
そう答えたのは、カチャンカチャンと餅焼き器をひっくり返していた壮年の男性だ。恐らく息子さんだろう。
他の客もいないし、今は3時を5分程過ぎただけだが、こういうところをきちんとする辺りは、伝統を守っているんだなあとも、相変わらず融通がきかないとも思う。私は餅を焼いている男性に声をかけた。
「あんた帰ってきてたんかい」
「……ええ、時々帰って来るんです。今回はおくんちが近いので」
「確か千葉のほうだったな」
「よくご存じですね」
少し怪訝な顔をされたが、まあ良い。
「残念」
「次来た時に食べられたらいいね」
二人はそう言って笑っていた。食べ損ねた梅が枝餅よりも、今は別のことに興味が移っているようだった。
そして私は先程から別の事にずっと気を取られていた。その様子に気付いたのか、旦那さんが声をかけてきた。
「あの……もしかしたらあの方、ですか?」
「そうそう。ほら、歳をとっても面影がある。スラっとして……な?」
「ええ、そうですね。でも、話されなくて良いんですか?息子さんとは話されたのに」
確かに、今なら声をかけられるだろう。彼女はゆっくりと、焼けた餅を紙箱に入れ、ビニール袋に入れてお客さんに渡している。歳をとってはいたが、その仕草には昔の面影が確かに感じられ、私には過ぎ去った日々に見ていた彼女の姿が重なって見えた。
「良い良い。お元気な姿を見られたから」
これで十分だ。私の隠れた目的は、おかげで果たすことができたのだから。
◇◇◇
私は家に帰りつくなり、西日が差し始めた縁側へ向かい、置いてあったスケッチブックを開いた。
「さて、足りなかったものを描き足そうか」
それは、途中まで描いていたものの、何かが足りないままに放置していた大徳寺公園の、あの店の絵だ。
私は今日目に焼き付けた大徳寺でのあの光景を描くために、筆を握った。
私の余白も残り僅かだ。
現実の人生に消しゴムは無い。
あったことをなかった事にはできない。
だが、古い絵に新たに描き込むようにして、古い想い出に色を添える事はできる。
「……こんな感じかな」
そこに描き加えたのは、静かに店の奥に佇む彼女の姿と、梅が枝餅が焼ける様子を見る、あの二人と私の姿。
「そう言えば、明日はどこだったかな……ふむ、福岡からの小学生を案内か。また体力がいりそうだな」
遠くからおくんちの囃子が凉しい秋風に乗って聞こえてくる。私は新たなスケッチブックのページをめくってから筆を置き、冷蔵庫からビールを取り出して、グラスに注いだ。
泡立つそれを、いつもならすぐに飲んでしまうところだが、今日は少しだけ、ゆっくり飲むことにしよう。




