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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

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聖女になりました。でも私は善人ではありません。

作者: 白昼夢
掲載日:2026/09/25



 人間というものは、実に単純だ。


 腹が減れば食べ物を欲しがる。


 金がなければ金を欲しがる。


 愛されたい者は愛を欲しがり、見下された者は見下した相手を憎む。


 そして何より簡単なのは――


 「善人だ」と思われたがること。


 だから私は、善人になることにした。


 正確には、善人に見えることにした。


 そのほうが、生きるのに都合がいいからだ。


♢♢♢


「お姉さま、明日の舞踏会には出ないでくださいね」


 朝食の席で、姉のクラリスが言った。


 私はパンにバターを塗りながら顔を上げた。


「どうして?」


「どうしてって……」


 クラリスは困ったように笑った。


「あなたがいると、皆さんが気を遣うでしょう?」


 父も母も何も言わない。


 つまり、それがこの家の総意だった。


 私は伯爵家の娘ではある。


 ただし、正妻の娘ではない。


 父が若い頃、平民の女性との間にもうけた子供。それが私だ。


 母は私を産んですぐに亡くなった。


 父は私を引き取ったものの、愛してはいなかった。


 だから私は、屋敷の隅で育った。


 食事は与えられる。


 服も買ってもらえる。


 教育も受けさせてもらえる。


 けれど、それだけ。


 家族ではない。


 それを私は五歳の頃には理解していた。


「分かったわ」


 私は笑った。


「明日は部屋にいるわね」


 クラリスは安心したように微笑んだ。


「ありがとう」


 父も母も何も言わない。


 私はパンを食べた。


 焼きたてだった。


 おいしい。


 ――さて。


 この家には三人、使える人間がいる。


 父。


 母。


 そしてクラリス。


 父は王都の貴族社会に広い人脈を持っている。


 母は社交界で顔が広い。


 クラリスは第二王子殿下の婚約者だ。


 つまり、


 私を嫌っている人間ほど、利用価値が高い。


 別に家族を憎んでいるわけではない。


 憎むほどの興味もない。


 ただ、私は貧しいのが嫌だった。


 人に命令されるのも嫌だった。


 自分より頭の悪い人間に頭を下げるのは、もっと嫌だった。


 だから、いつかこの家から出る。


 そのために必要なものを考えた。


 金。


 身分。


 人脈。


 そして――肩書き。


 貴族の娘というだけでは弱い。


 ならば、もっと強い肩書きを手に入れればいい。


 私は窓の外を見た。


 王都の中央にそびえる大聖堂。


 その尖塔が朝日に輝いている。


 明日は、十年に一度の聖女選定だった。


 私は小さく笑った。


「……聖女、ね」


♢♢♢


 この国では、十年に一度、聖女が選ばれる。


 聖女とは、普通の魔法使いとは違う。


 火を操る魔法も、水を生み出す魔法も、魔力を源としている。


 しかし聖女が使う神聖術は、魔力とは別の力――神聖力によって発動する。


 神聖力を持つ者は極めて少ない。


 そして、その力を正しく引き出すために使われるのが、神殿から候補者へ授けられる聖印だ。


 銀色の細い腕輪。


 中央に、小さな白い石が埋め込まれている。


 聖印そのものに神聖力があるわけではない。


 持ち主の神聖力を増幅し、祭壇へ伝えるための器だ。


 選定の儀式では、候補者が聖印を祭壇にかざす。


 白い石が光れば、神聖力を持つ証。


 光が強ければ強いほど、聖女としての資質が高い。


 そして最も強く聖印を輝かせた者が、聖女になる。


 私は魔力がない。


 幼い頃から何度調べても、魔力はほとんどゼロだった。


 だから魔法学院では落ちこぼれだった。


 けれど私は、別の才能を持っていた。


 それが何なのか、私は知らなかった。


 ただ、人に触れたとき。


 その人が持つ魔力や神聖力が、なぜか私の身体を通ることがあった。


 ほんの一瞬だけ。


 私はそれを「変な体質」くらいに思っていた。


 ――それが、共鳴と呼ばれる極めて稀な能力だと知ったのは、ずっと後のことだった。


♢♢♢


 聖女選定の前夜。


 私は大聖堂の裏手で、一人の少女に出会った。


 十六歳くらい。


 粗末な服を着た平民だった。


 けれど、胸元には白銀の聖印があった。


「あなた、聖女候補?」


 少女は驚いて顔を上げた。


「……はい」


「名前は?」


「エレナです」


 声が震えている。


「どうしたの?」


「怖いんです」


「聖女になるのが?」


 エレナは頷いた。


「私みたいな平民が、王族や貴族の前に立つなんて……」


 私は彼女を観察した。


 聖印。


 平民。


 怯えた性格。


 そして――


 聖印から漏れ出している神聖力。


 私は目を細めた。


 この子は強い。


 おそらく、今回の候補者の中でも最上位。


 けれど本人は、自分の価値を理解していない。


 私はしゃがみ込んだ。


「エレナ」


「はい」


「あなた、私に聖印を貸してくれない?」


「え?」


「少しだけ」


「でも、これは神殿から……」


「分かっているわ」


 私は微笑んだ。


「明日の儀式が怖いのでしょう?」


「……はい」


「なら、私が代わりに受けてあげる」


 エレナは目を丸くした。


「でも……」


「大丈夫」


 私は彼女の手を取った。


 温かい。


 その瞬間だった。


 身体の奥に、白い光が流れ込んできた。


 私は目を見開いた。


 エレナも驚いている。


「今の……何?」


「さあ?」


 私は手を離した。


 けれど、もう分かっていた。


 この子には、強い神聖力がある。


 そして私は、それを自分の身体に通せる。


 つまり。


 この子の聖印を借りれば――


「お願い」


 私は優しく言った。


「私に、一晩だけ貸して」


 エレナは迷った。


 だから私は、近くの店で買ったパンを彼女に渡した。


「お腹が空いているでしょう?」


「……ありがとうございます」


「困ったときは助け合うものよ」


 エレナは泣きそうな顔で笑った。


「あなた、優しい人なんですね」


 私は微笑んだ。


「ええ」


 嘘だった。


 少なくとも、このときは。


♢♢♢


 翌日。


 大聖堂は人で埋め尽くされていた。


 王族。


 貴族。


 神官。


 そして大勢の民衆。


 私は最後尾に並んだ。


 聖印は腕にある。


 エレナから借りたものだ。


 候補者たちが一人ずつ祭壇へ進む。


 聖印が淡く光る。


 神官が数値を読み上げる。


「神聖力、三十二」


「二十八」


「四十一」


 どれも悪くない。


 だが、エレナほどではない。


 最後に私の番が来た。


「次、リゼット・アーデル伯爵令嬢」


 私は祭壇の前に立った。


 聖印を掲げる。


 何も起こらない。


 当然だ。


 私自身には神聖力などない。


 神官が首を傾げる。


「魔力反応なし……?」


 私は心の中で舌打ちした。


 ――やはり、そう簡単にはいかないか。


 その瞬間。


 祭壇の聖石が光った。


 最初は小さな光だった。


 次第に強くなる。


 白。


 銀。


 そして――


 大聖堂を覆い尽くすほどの光。


「な……!」


「これは……!」


 神官たちが叫んだ。


 聖印から伸びた光が、私の腕を伝って身体へ流れ込んでくる。


 温かい。


 強い。


 そして、私の身体を通った光が、祭壇へ戻っていく。


 神官の一人が震える声で言った。


「歴代最高値……」


 別の神官が叫ぶ。


「聖女が誕生した!」


 歓声が爆発した。


「聖女様!」


「聖女だ!」


「奇跡だ!」


 私は呆然と立っていた。


 だが、すぐに理解した。


 エレナの神聖力だ。


 彼女の力が聖印を通って私の身体へ入り、そして私の共鳴によって増幅され、祭壇へ流れ込んでいる。


 私は聖女ではない。


 少なくとも、本来の意味では。


 だが。


 誰もそんなことを知らない。


 ならば。


 私はできるだけ慈愛に満ちた顔を作った。


「神の御心ならば……」


 私は静かに言った。


「この力を、人々のために使います」


 民衆が歓声を上げる。


 私は微笑んだ。


 心の中では別のことを考えていた。


 これで、私を屋敷から追い出す人間はいなくなった。


♢♢♢


 聖女になってから、私の人生は変わった。


 三日前まで、私は伯爵家の片隅にいた。


 今では王宮から毎日のように使者が来る。


 神殿からも人が来る。


 貴族たちは私を舞踏会に招く。


 商人は寄付を申し出る。


 民衆は私を見て泣く。


「聖女様!」


「どうか私の娘を!」


「病気の息子を治してください!」


 私は人を助けた。


 病人を治した。


 孤児院を訪れた。


 貧民街に食料を配った。


 税を払えない農民のために貴族へ嘆願書を書いた。


 新聞には毎日のように私の記事が載った。


 ――慈愛の聖女。


 ――民衆に寄り添う奇跡の少女。


 ――貧しい者のために涙を流す聖女。


 どれも私の本当の姿とは少し違った。


 だが、嘘ではない。


 私は本当に人を助けた。


 ただし。


 助ける相手は選んだ。


 例えば商人の息子。


 治療してあげれば、その商人は私に恩を感じる。


 貴族の隠し子。


 助けてあげれば、その母親は私の味方になる。


 孤児院。


 そこから優秀な子供を見つければ、十年後には私の側近になるかもしれない。


 私は帳簿をつけた。


 誰に何を与えたか。


 誰が私に何を返したか。


 誰が私を好いているか。


 誰が私を恐れているか。


 誰が私を利用しようとしているか。


 人間関係は、数字にすると実に分かりやすい。


「あなたって、変わってるね」


 ある日、エレナが言った。


「どうして?」


「聖女になったのに、全然偉そうにしないから」


「そう?」


「うん」


 彼女は嬉しそうに笑った。


 私は彼女に菓子を渡した。


「ありがとう」


「こちらこそ」


 エレナは笑った。


 私は微笑み返した。


 ――この子は便利だ。


 聖女選定のときから私を知っている。


 平民でありながら、神殿にも顔が利く。


 そして何より。


 私を信じている。


「これからも私のそばにいてね」


「もちろん!」


 即答だった。


 私は笑った。


 良い子だ。


 とても良い子。


 ――だから、利用しやすい。


♢♢♢


「婚約を破棄する」


 王宮の大広間で、第二王子アレクシスは言った。


 隣にいたクラリスの顔が真っ青になった。


「殿下……?」


「君との婚約は、今日をもって終わりだ」


 貴族たちがざわめく。


 私は黙って見ていた。


 これは予定通りだった。


 クラリスは昔から、第二王子との婚約を誇りにしていた。


 だから私は、彼女に一つの噂を流した。


 王子が平民の女性に心を奪われている。


 もちろん嘘だ。


 だがクラリスは信じた。


 そして嫉妬した。


 王子を問い詰めた。


 王子は怒った。


 二人の関係は壊れた。


 簡単なことだった。


「では、新しい婚約者を発表する」


 王子がこちらを向いた。


「聖女リゼット」


 私は一歩前に出た。


「私ですか?」


「そうだ」


「ですが、殿下。私たちは……」


「私は君を愛している」


 完璧な台詞だった。


 周囲から感嘆の声が上がる。


 私は少しだけ俯いた。


「……私も、殿下をお慕いしております」


 嘘だった。


 王子も、おそらく分かっている。


 その夜。


 王子は私の部屋を訪れた。


「君は私を愛していないな」


 私は紅茶を淹れながら笑った。


「どうしてそう思われるのです?」


「私が婚約を破棄したとき、君は少しも驚いていなかった」


「殿下は鋭いのですね」


「否定しないのか」


「否定する必要がありますか?」


 王子は笑った。


「なるほど」


「では、殿下も私を愛していないのでしょう?」


「そうだな」


 即答だった。


「ならば、お互いに都合がいいではありませんか」


「君は何が欲しい?」


「権力です」


「金ではなく?」


「金は権力で手に入ります」


「王妃の座か?」


「必要なら」


「私の愛情は?」


「もっと必要ありません」


 王子は声を上げて笑った。


 私は微笑んだ。


 ――この人なら使える。


 そう思った。


 そして私は、王子も同じことを考えているのだと思っていた。


♢♢♢


 ある日、私は孤児院で一人の少年を治療した。


 病に苦しんでいた少年だった。


 私は彼の手を握った。


 白い光が流れる。


 少年の顔から苦痛が消えていく。


「ありがとうございます!」


 少年が泣きながら私に抱きついた。


「大丈夫よ」


 私は笑った。


「あなたが大きくなったら、私のために働いてちょうだい」


「はい!」


 少年は元気よく答えた。


 私は満足した。


 ところが、その夜。


 エレナが私の部屋を訪ねてきた。


「ねえ、リゼット」


「何?」


「どうして、あなたは病気を治せるの?」


「聖女だからでしょう?」


「そうじゃなくて」


 エレナは少し困った顔をした。


「私の力がなくても?」


 私は黙った。


「何の話?」


「私があなたの手を握っているときだけ、神聖力がすごく強くなる」


「……」


「あなたは知ってたでしょう?」


 私は答えなかった。


 彼女は悲しそうに笑った。


「あなた自身には、神聖力がないんだよね」


「証拠は?」


「聖印がなくても治癒できるの?」


 私は黙った。


 それはできなかった。


 聖印を外した状態では、私には何の力もない。


「あなたが聖女になれたのは、私の神聖力を使ったから」


 エレナは静かに言った。


「あなたは私の力を増幅していただけ」


「……そう」


 私は答えた。


「それで?」


「それでって……」


「治せるのでしょう?」


「うん」


「なら問題ないわ」


 エレナは目を見開いた。


「あなた……」


「私は聖女よ」


「違うよ」


「民衆は私を聖女だと思っている」


「でも!」


「病人は治る」


 私は笑った。


「だったら、何が問題なの?」


 エレナは黙った。


 私は彼女を見た。


 この子は本当に不思議だ。


 なぜそんなことを気にするのだろう。


 肩書きが何であれ、力が使えるなら同じではないか。


 そう思った。


♢♢♢


 数日後。


 私の聖女としての地位が崩れ始めた。


 聖女選定に不正があったという噂。


 私が平民の少女から聖印を奪ったという噂。


 私の力は本物ではないという噂。


 神殿にも調査が入った。


 そして。


 証拠が出た。


 私がエレナから聖印を借りたこと。


 私がエレナの神聖力を利用していること。


 私が貴族たちを操っていたこと。


 すべて。


 誰かが私を告発した。


 私はすぐに分かった。


 宰相グレゴール。


 王国で最も頭の切れる男。


 以前から私を警戒していた。


 私は王子のもとへ向かった。


「殿下」


「来ると思っていた」


「私を助けてください」


「なぜ?」


「あなたの婚約者でしょう?」


「君は私を愛していない」


「それでも婚約者です」


「君はいつもそうだ」


 王子は静かに言った。


「人間を、役割でしか見ない」


「では、殿下はどうされるのです?」


「君を救う」


 私は目を見開いた。


「なぜ?」


「君が私の婚約者だからだ」


「それは――」


「そして」


 王子は続けた。


「君が嫌いだからだ」


「……嫌い?」


「君は自分が人間を利用することを、少しも悪いと思っていない」


「悪いことではないでしょう」


「そうだな」


 王子は苦笑した。


「君は本当にそう思っている」


「はい」


「だから私は君を救う」


「なぜ?」


「君に、自分が間違っていることを教えるためだ」


 私は初めて、怖いと思った。


 この人は私を利用しない。


 だからこそ、私の計算が通じない。


♢♢♢


 裁判の日。


 大聖堂には大勢の人間が集まった。


 私の聖女資格について、審議が行われる。


 証人としてエレナも呼ばれていた。


「聖女リゼットは、私の聖印を借りました」


 エレナは証言した。


「ですが、私を脅したわけではありません」


 神官が尋ねる。


「では、あなたは騙されたのですか?」


「いいえ」


 エレナは首を振った。


「私は自分で渡しました」


 ざわめきが起きる。


「彼女は私に優しくしてくれました」


 私は黙って聞いていた。


「でも、それは全部、私を利用するためだったと思います」


 胸が痛んだ。


 初めてだった。


 私はずっと、人間の感情を理解しているつもりだった。


 人は金で動く。


 愛で動く。


 恐怖で動く。


 欲望で動く。


 そう思っていた。


 でも。


 利用されていると知っても、相手を好きでいられる人間がいる。


 そんなものを、私は知らなかった。


「最後に、聖女様に一つだけ」


 エレナがこちらを向いた。


「私は、あなたを嫌いになれません」


 私は何も言えなかった。


「だから、どうか――」


 彼女は微笑んだ。


「自分が一人だと思わないでください」


 彼女は証言台を降りた。


 私は目を伏せた。


 そして。


「無罪を主張します」


 そう言った。


 大聖堂が静まり返る。


 グレゴール宰相が眉をひそめた。


「理由を?」


「私は誰も騙していません」


 私は顔を上げた。


「エレナは自分の意思で聖印を貸しました」


「しかし――」


「私が奇跡を偽装したという証拠は?」


 沈黙。


「私が病人を治したことは事実です」


「あなた自身の神聖力ではない」


「それが何か?」


 どよめきが起きた。


「私は治しました」


「エレナの力を使って」


「そうです」


 私はあっさり認めた。


「ですが、エレナ一人ではできなかった」


 私は自分の腕を見た。


「私には共鳴する力がある。彼女の神聖力を増幅し、治癒術として使える」


「それを利用と呼ぶのでは?」


「利用です」


 私は頷いた。


「ですが、人間は皆そうでしょう?」


 私は貴族たちを見た。


「商人は客を利用する。貴族は婚姻を利用する。王族は臣下を利用する」


 そしてエレナを見る。


「私は彼女の力を利用した」


 私は微笑んだ。


「だから何?」


 大聖堂が静まる。


「私は誰も殺していない」


「……」


「誰も傷つけていない」


 それは嘘だ。


 私はクラリスを傷つけた。


 父も母も利用した。


 エレナの気持ちを踏みにじった。


 それでも。


「私は、私が欲しいものを手に入れただけです」


 私は言った。


「皆さんも同じでしょう?」


 誰も答えない。


 そのとき。


 王子が立ち上がった。


「裁判を終える」


 全員が王子を見る。


「聖女リゼットの資格を剥奪する」


 私は眉を動かさなかった。


「ただし、彼女を国外追放にはしない」


 私は王子を見た。


「王都から離れた修道院へ送る」


「殿下」


「何だ?」


「私を助けるのでは?」


「助けている」


「これが?」


「君は死刑になるところだった」


 王子は苦笑した。


「私が君を救った」


 私は何も言えなかった。


♢♢♢


 修道院へ向かう馬車の中。


 私は窓の外を見ていた。


 王都が遠ざかっていく。


 聖女の地位。


 王子との婚約。


 社交界で築いた人脈。


 すべて失った。


 ――負けた。


 そう思った。


 馬車が止まった。


「聖女様」


 御者が言った。


「前方に、人が」


 扉が開く。


 そこにいたのは、エレナだった。


「どうして?」


「迎えに来ました」


「私は追放されたのよ」


「知っています」


「私はもう聖女じゃない」


「知っています」


「私はあなたを利用した」


「それも知っています」


「……それでも?」


 エレナは笑った。


「それでもです」


 私は彼女を見た。


 理解できない。


 どうして。


 なぜ。


 何の利益がある?


「あなたは本当に馬鹿ね」


「よく言われます」


「私なんかについてきても、何もいいことはないわ」


「そうかもしれません」


「だったら――」


 言葉が出てこなかった。


 私はずっと、人間は利益で動くと思っていた。


 そうでなければ説明がつかないと思っていた。


 でも。


 説明できないものが、目の前にいる。


「……分からないわ」


 私は初めて、誰かにそう言った。


「何がですか?」


「あなたが」


 私は笑った。


「人を好きになるって、どういうことなの?」


 エレナは少し考えた。


「私にも、よく分かりません」


「あなたにも?」


「はい」


「なら、どうして?」


 エレナは笑った。


「分からないけど、好きだからじゃないでしょうか」


 私は黙った。


 そんな答えがあるのか。


 理由がなくてもいい。


 利益がなくてもいい。


 見返りがなくてもいい。


 私はそんなものを、一度も信じたことがなかった。


 エレナが馬車に乗り込む。


「帰りましょう」


「どこへ?」


「どこでも」


 私は笑った。


「困ったわね」


「何がですか?」


「私、善人になるつもりはないのよ」


「ならなくていいですよ」


 エレナは言った。


「あなたはあなたのままでいいです」


 私は窓の外を見た。


 遠ざかる王都。


 失ったものは多い。


 けれど。


 私は一つだけ、まだ持っている。


 腕から外した聖印。


 もう私には何の力も与えてくれない。


 ただの銀色の腕輪。


 私はそれを握りしめた。


♢♢♢


 数年後。


 王国は大きく変わった。


 孤児院は増えた。


 貧民街には学校が建った。


 汚職を繰り返していた貴族たちは次々と失脚した。


 アレクシスは国王になった。


 エレナは正式に聖女として認められた。


 そして私は。


 王都から遠く離れた町で、孤児院を経営していた。


「先生!」


 子供たちが駆けてくる。


「今日は何をするの?」


「算術よ」


「ええー!」


「嫌なら夕食を減らすわ」


「やります!」


 私は笑った。


 私は今でも、人間を利用する。


 優秀な子供には多くの教育を与える。


 将来、私を助けてくれそうな子には特に目をかける。


 寄付をしてくれる商人には丁寧に手紙を書く。


 権力者には礼儀正しく接する。


 私は善人になったわけではない。


 たぶん、これからもならない。


 けれど。


 昔と一つだけ違うことがある。


 人間には、損得では説明できないものがあると知った。


 利益にならない友情。


 見返りのない親切。


 損をしても守りたい誰か。


 そういうものを、私はまだ完全には理解できない。


 でも。


 理解できないからといって、存在しないわけではない。


「先生」


 窓辺にエレナが立っていた。


「何?」


「また手紙が来ていますよ」


「誰から?」


「国王陛下から」


「捨てておいて」


「読まないんですか?」


「面倒だもの」


 エレナは笑った。


「相変わらずですね」


「何が?」


「性格」


「失礼ね」


 私は机の引き出しを開けた。


 そこには、銀色の聖印が入っていた。


 あの日、エレナから借りたもの。


 私はそれを指先で撫でる。


 もう何の力もない。


 私には神聖力がない。


 聖女ではない。


 あの日、私が聖女になったのは、エレナの神聖力と、私の共鳴能力が偶然重なったからだ。


 だから私は、最初から聖女ではなかった。


 それでも。


 病人は治った。


 孤児は救われた。


 貧しい人々は私を信じた。


 私はその信頼を利用した。


 けれど。


 利用した結果として、多くの人間が救われたことも事実だった。


 私はそこに善悪の答えを出せない。


 たぶん、これからも。


「先生、何を笑ってるんですか?」


「笑ってないわ」


「笑ってますよ」


「うるさいわね」


 私は聖印を引き出しに戻した。


 鍵をかける。


 誰にも見せない。


 これは私だけのもの。


 利用価値なんてない。


 だからこそ。


 たぶん初めて。


 私はこれを――


 大切だと思っている。


 窓の外では、子供たちが笑っている。


 エレナが私を呼ぶ。


 私は返事をする。


 昔なら、そこに何かしらの利益を探していた。


 今は――。


 まだ探してしまう。


 けれど、見つからなくても。


 少しだけ、嬉しいと思える。


 それだけだった。


 人間は単純だ。


 欲しいもののために動く。


 愛されたい。


 認められたい。


 金が欲しい。


 権力が欲しい。


 私は今でもそう思っている。


 だから私は、きっとこれからも人を利用する。


 必要なら嘘もつく。


 騙しもする。


 自分の欲しいものを手に入れるためなら、手段を選ばないこともあるだろう。


 でも。


 それでも私は、昔の自分とは少し違う。


 なぜなら私は知ってしまったから。


 人間には――


 損得では説明できないものがある。


 そして、それを知ってしまった私は。


 もう二度と、


 自分だけが正しいとは思えない。


「先生!」


「何よ!」


「夕食まだー?」


「今行くわよ!」


 私は引き出しの鍵を閉めた。


 そして子供たちのところへ向かった。


 善人ではない。


 聖女でもない。


 それでも。


 誰かに必要とされることを、悪くないと思えるくらいには。


 私は少しだけ、人間になった。

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