聖女になりました。でも私は善人ではありません。
人間というものは、実に単純だ。
腹が減れば食べ物を欲しがる。
金がなければ金を欲しがる。
愛されたい者は愛を欲しがり、見下された者は見下した相手を憎む。
そして何より簡単なのは――
「善人だ」と思われたがること。
だから私は、善人になることにした。
正確には、善人に見えることにした。
そのほうが、生きるのに都合がいいからだ。
♢♢♢
「お姉さま、明日の舞踏会には出ないでくださいね」
朝食の席で、姉のクラリスが言った。
私はパンにバターを塗りながら顔を上げた。
「どうして?」
「どうしてって……」
クラリスは困ったように笑った。
「あなたがいると、皆さんが気を遣うでしょう?」
父も母も何も言わない。
つまり、それがこの家の総意だった。
私は伯爵家の娘ではある。
ただし、正妻の娘ではない。
父が若い頃、平民の女性との間にもうけた子供。それが私だ。
母は私を産んですぐに亡くなった。
父は私を引き取ったものの、愛してはいなかった。
だから私は、屋敷の隅で育った。
食事は与えられる。
服も買ってもらえる。
教育も受けさせてもらえる。
けれど、それだけ。
家族ではない。
それを私は五歳の頃には理解していた。
「分かったわ」
私は笑った。
「明日は部屋にいるわね」
クラリスは安心したように微笑んだ。
「ありがとう」
父も母も何も言わない。
私はパンを食べた。
焼きたてだった。
おいしい。
――さて。
この家には三人、使える人間がいる。
父。
母。
そしてクラリス。
父は王都の貴族社会に広い人脈を持っている。
母は社交界で顔が広い。
クラリスは第二王子殿下の婚約者だ。
つまり、
私を嫌っている人間ほど、利用価値が高い。
別に家族を憎んでいるわけではない。
憎むほどの興味もない。
ただ、私は貧しいのが嫌だった。
人に命令されるのも嫌だった。
自分より頭の悪い人間に頭を下げるのは、もっと嫌だった。
だから、いつかこの家から出る。
そのために必要なものを考えた。
金。
身分。
人脈。
そして――肩書き。
貴族の娘というだけでは弱い。
ならば、もっと強い肩書きを手に入れればいい。
私は窓の外を見た。
王都の中央にそびえる大聖堂。
その尖塔が朝日に輝いている。
明日は、十年に一度の聖女選定だった。
私は小さく笑った。
「……聖女、ね」
♢♢♢
この国では、十年に一度、聖女が選ばれる。
聖女とは、普通の魔法使いとは違う。
火を操る魔法も、水を生み出す魔法も、魔力を源としている。
しかし聖女が使う神聖術は、魔力とは別の力――神聖力によって発動する。
神聖力を持つ者は極めて少ない。
そして、その力を正しく引き出すために使われるのが、神殿から候補者へ授けられる聖印だ。
銀色の細い腕輪。
中央に、小さな白い石が埋め込まれている。
聖印そのものに神聖力があるわけではない。
持ち主の神聖力を増幅し、祭壇へ伝えるための器だ。
選定の儀式では、候補者が聖印を祭壇にかざす。
白い石が光れば、神聖力を持つ証。
光が強ければ強いほど、聖女としての資質が高い。
そして最も強く聖印を輝かせた者が、聖女になる。
私は魔力がない。
幼い頃から何度調べても、魔力はほとんどゼロだった。
だから魔法学院では落ちこぼれだった。
けれど私は、別の才能を持っていた。
それが何なのか、私は知らなかった。
ただ、人に触れたとき。
その人が持つ魔力や神聖力が、なぜか私の身体を通ることがあった。
ほんの一瞬だけ。
私はそれを「変な体質」くらいに思っていた。
――それが、共鳴と呼ばれる極めて稀な能力だと知ったのは、ずっと後のことだった。
♢♢♢
聖女選定の前夜。
私は大聖堂の裏手で、一人の少女に出会った。
十六歳くらい。
粗末な服を着た平民だった。
けれど、胸元には白銀の聖印があった。
「あなた、聖女候補?」
少女は驚いて顔を上げた。
「……はい」
「名前は?」
「エレナです」
声が震えている。
「どうしたの?」
「怖いんです」
「聖女になるのが?」
エレナは頷いた。
「私みたいな平民が、王族や貴族の前に立つなんて……」
私は彼女を観察した。
聖印。
平民。
怯えた性格。
そして――
聖印から漏れ出している神聖力。
私は目を細めた。
この子は強い。
おそらく、今回の候補者の中でも最上位。
けれど本人は、自分の価値を理解していない。
私はしゃがみ込んだ。
「エレナ」
「はい」
「あなた、私に聖印を貸してくれない?」
「え?」
「少しだけ」
「でも、これは神殿から……」
「分かっているわ」
私は微笑んだ。
「明日の儀式が怖いのでしょう?」
「……はい」
「なら、私が代わりに受けてあげる」
エレナは目を丸くした。
「でも……」
「大丈夫」
私は彼女の手を取った。
温かい。
その瞬間だった。
身体の奥に、白い光が流れ込んできた。
私は目を見開いた。
エレナも驚いている。
「今の……何?」
「さあ?」
私は手を離した。
けれど、もう分かっていた。
この子には、強い神聖力がある。
そして私は、それを自分の身体に通せる。
つまり。
この子の聖印を借りれば――
「お願い」
私は優しく言った。
「私に、一晩だけ貸して」
エレナは迷った。
だから私は、近くの店で買ったパンを彼女に渡した。
「お腹が空いているでしょう?」
「……ありがとうございます」
「困ったときは助け合うものよ」
エレナは泣きそうな顔で笑った。
「あなた、優しい人なんですね」
私は微笑んだ。
「ええ」
嘘だった。
少なくとも、このときは。
♢♢♢
翌日。
大聖堂は人で埋め尽くされていた。
王族。
貴族。
神官。
そして大勢の民衆。
私は最後尾に並んだ。
聖印は腕にある。
エレナから借りたものだ。
候補者たちが一人ずつ祭壇へ進む。
聖印が淡く光る。
神官が数値を読み上げる。
「神聖力、三十二」
「二十八」
「四十一」
どれも悪くない。
だが、エレナほどではない。
最後に私の番が来た。
「次、リゼット・アーデル伯爵令嬢」
私は祭壇の前に立った。
聖印を掲げる。
何も起こらない。
当然だ。
私自身には神聖力などない。
神官が首を傾げる。
「魔力反応なし……?」
私は心の中で舌打ちした。
――やはり、そう簡単にはいかないか。
その瞬間。
祭壇の聖石が光った。
最初は小さな光だった。
次第に強くなる。
白。
銀。
そして――
大聖堂を覆い尽くすほどの光。
「な……!」
「これは……!」
神官たちが叫んだ。
聖印から伸びた光が、私の腕を伝って身体へ流れ込んでくる。
温かい。
強い。
そして、私の身体を通った光が、祭壇へ戻っていく。
神官の一人が震える声で言った。
「歴代最高値……」
別の神官が叫ぶ。
「聖女が誕生した!」
歓声が爆発した。
「聖女様!」
「聖女だ!」
「奇跡だ!」
私は呆然と立っていた。
だが、すぐに理解した。
エレナの神聖力だ。
彼女の力が聖印を通って私の身体へ入り、そして私の共鳴によって増幅され、祭壇へ流れ込んでいる。
私は聖女ではない。
少なくとも、本来の意味では。
だが。
誰もそんなことを知らない。
ならば。
私はできるだけ慈愛に満ちた顔を作った。
「神の御心ならば……」
私は静かに言った。
「この力を、人々のために使います」
民衆が歓声を上げる。
私は微笑んだ。
心の中では別のことを考えていた。
これで、私を屋敷から追い出す人間はいなくなった。
♢♢♢
聖女になってから、私の人生は変わった。
三日前まで、私は伯爵家の片隅にいた。
今では王宮から毎日のように使者が来る。
神殿からも人が来る。
貴族たちは私を舞踏会に招く。
商人は寄付を申し出る。
民衆は私を見て泣く。
「聖女様!」
「どうか私の娘を!」
「病気の息子を治してください!」
私は人を助けた。
病人を治した。
孤児院を訪れた。
貧民街に食料を配った。
税を払えない農民のために貴族へ嘆願書を書いた。
新聞には毎日のように私の記事が載った。
――慈愛の聖女。
――民衆に寄り添う奇跡の少女。
――貧しい者のために涙を流す聖女。
どれも私の本当の姿とは少し違った。
だが、嘘ではない。
私は本当に人を助けた。
ただし。
助ける相手は選んだ。
例えば商人の息子。
治療してあげれば、その商人は私に恩を感じる。
貴族の隠し子。
助けてあげれば、その母親は私の味方になる。
孤児院。
そこから優秀な子供を見つければ、十年後には私の側近になるかもしれない。
私は帳簿をつけた。
誰に何を与えたか。
誰が私に何を返したか。
誰が私を好いているか。
誰が私を恐れているか。
誰が私を利用しようとしているか。
人間関係は、数字にすると実に分かりやすい。
「あなたって、変わってるね」
ある日、エレナが言った。
「どうして?」
「聖女になったのに、全然偉そうにしないから」
「そう?」
「うん」
彼女は嬉しそうに笑った。
私は彼女に菓子を渡した。
「ありがとう」
「こちらこそ」
エレナは笑った。
私は微笑み返した。
――この子は便利だ。
聖女選定のときから私を知っている。
平民でありながら、神殿にも顔が利く。
そして何より。
私を信じている。
「これからも私のそばにいてね」
「もちろん!」
即答だった。
私は笑った。
良い子だ。
とても良い子。
――だから、利用しやすい。
♢♢♢
「婚約を破棄する」
王宮の大広間で、第二王子アレクシスは言った。
隣にいたクラリスの顔が真っ青になった。
「殿下……?」
「君との婚約は、今日をもって終わりだ」
貴族たちがざわめく。
私は黙って見ていた。
これは予定通りだった。
クラリスは昔から、第二王子との婚約を誇りにしていた。
だから私は、彼女に一つの噂を流した。
王子が平民の女性に心を奪われている。
もちろん嘘だ。
だがクラリスは信じた。
そして嫉妬した。
王子を問い詰めた。
王子は怒った。
二人の関係は壊れた。
簡単なことだった。
「では、新しい婚約者を発表する」
王子がこちらを向いた。
「聖女リゼット」
私は一歩前に出た。
「私ですか?」
「そうだ」
「ですが、殿下。私たちは……」
「私は君を愛している」
完璧な台詞だった。
周囲から感嘆の声が上がる。
私は少しだけ俯いた。
「……私も、殿下をお慕いしております」
嘘だった。
王子も、おそらく分かっている。
その夜。
王子は私の部屋を訪れた。
「君は私を愛していないな」
私は紅茶を淹れながら笑った。
「どうしてそう思われるのです?」
「私が婚約を破棄したとき、君は少しも驚いていなかった」
「殿下は鋭いのですね」
「否定しないのか」
「否定する必要がありますか?」
王子は笑った。
「なるほど」
「では、殿下も私を愛していないのでしょう?」
「そうだな」
即答だった。
「ならば、お互いに都合がいいではありませんか」
「君は何が欲しい?」
「権力です」
「金ではなく?」
「金は権力で手に入ります」
「王妃の座か?」
「必要なら」
「私の愛情は?」
「もっと必要ありません」
王子は声を上げて笑った。
私は微笑んだ。
――この人なら使える。
そう思った。
そして私は、王子も同じことを考えているのだと思っていた。
♢♢♢
ある日、私は孤児院で一人の少年を治療した。
病に苦しんでいた少年だった。
私は彼の手を握った。
白い光が流れる。
少年の顔から苦痛が消えていく。
「ありがとうございます!」
少年が泣きながら私に抱きついた。
「大丈夫よ」
私は笑った。
「あなたが大きくなったら、私のために働いてちょうだい」
「はい!」
少年は元気よく答えた。
私は満足した。
ところが、その夜。
エレナが私の部屋を訪ねてきた。
「ねえ、リゼット」
「何?」
「どうして、あなたは病気を治せるの?」
「聖女だからでしょう?」
「そうじゃなくて」
エレナは少し困った顔をした。
「私の力がなくても?」
私は黙った。
「何の話?」
「私があなたの手を握っているときだけ、神聖力がすごく強くなる」
「……」
「あなたは知ってたでしょう?」
私は答えなかった。
彼女は悲しそうに笑った。
「あなた自身には、神聖力がないんだよね」
「証拠は?」
「聖印がなくても治癒できるの?」
私は黙った。
それはできなかった。
聖印を外した状態では、私には何の力もない。
「あなたが聖女になれたのは、私の神聖力を使ったから」
エレナは静かに言った。
「あなたは私の力を増幅していただけ」
「……そう」
私は答えた。
「それで?」
「それでって……」
「治せるのでしょう?」
「うん」
「なら問題ないわ」
エレナは目を見開いた。
「あなた……」
「私は聖女よ」
「違うよ」
「民衆は私を聖女だと思っている」
「でも!」
「病人は治る」
私は笑った。
「だったら、何が問題なの?」
エレナは黙った。
私は彼女を見た。
この子は本当に不思議だ。
なぜそんなことを気にするのだろう。
肩書きが何であれ、力が使えるなら同じではないか。
そう思った。
♢♢♢
数日後。
私の聖女としての地位が崩れ始めた。
聖女選定に不正があったという噂。
私が平民の少女から聖印を奪ったという噂。
私の力は本物ではないという噂。
神殿にも調査が入った。
そして。
証拠が出た。
私がエレナから聖印を借りたこと。
私がエレナの神聖力を利用していること。
私が貴族たちを操っていたこと。
すべて。
誰かが私を告発した。
私はすぐに分かった。
宰相グレゴール。
王国で最も頭の切れる男。
以前から私を警戒していた。
私は王子のもとへ向かった。
「殿下」
「来ると思っていた」
「私を助けてください」
「なぜ?」
「あなたの婚約者でしょう?」
「君は私を愛していない」
「それでも婚約者です」
「君はいつもそうだ」
王子は静かに言った。
「人間を、役割でしか見ない」
「では、殿下はどうされるのです?」
「君を救う」
私は目を見開いた。
「なぜ?」
「君が私の婚約者だからだ」
「それは――」
「そして」
王子は続けた。
「君が嫌いだからだ」
「……嫌い?」
「君は自分が人間を利用することを、少しも悪いと思っていない」
「悪いことではないでしょう」
「そうだな」
王子は苦笑した。
「君は本当にそう思っている」
「はい」
「だから私は君を救う」
「なぜ?」
「君に、自分が間違っていることを教えるためだ」
私は初めて、怖いと思った。
この人は私を利用しない。
だからこそ、私の計算が通じない。
♢♢♢
裁判の日。
大聖堂には大勢の人間が集まった。
私の聖女資格について、審議が行われる。
証人としてエレナも呼ばれていた。
「聖女リゼットは、私の聖印を借りました」
エレナは証言した。
「ですが、私を脅したわけではありません」
神官が尋ねる。
「では、あなたは騙されたのですか?」
「いいえ」
エレナは首を振った。
「私は自分で渡しました」
ざわめきが起きる。
「彼女は私に優しくしてくれました」
私は黙って聞いていた。
「でも、それは全部、私を利用するためだったと思います」
胸が痛んだ。
初めてだった。
私はずっと、人間の感情を理解しているつもりだった。
人は金で動く。
愛で動く。
恐怖で動く。
欲望で動く。
そう思っていた。
でも。
利用されていると知っても、相手を好きでいられる人間がいる。
そんなものを、私は知らなかった。
「最後に、聖女様に一つだけ」
エレナがこちらを向いた。
「私は、あなたを嫌いになれません」
私は何も言えなかった。
「だから、どうか――」
彼女は微笑んだ。
「自分が一人だと思わないでください」
彼女は証言台を降りた。
私は目を伏せた。
そして。
「無罪を主張します」
そう言った。
大聖堂が静まり返る。
グレゴール宰相が眉をひそめた。
「理由を?」
「私は誰も騙していません」
私は顔を上げた。
「エレナは自分の意思で聖印を貸しました」
「しかし――」
「私が奇跡を偽装したという証拠は?」
沈黙。
「私が病人を治したことは事実です」
「あなた自身の神聖力ではない」
「それが何か?」
どよめきが起きた。
「私は治しました」
「エレナの力を使って」
「そうです」
私はあっさり認めた。
「ですが、エレナ一人ではできなかった」
私は自分の腕を見た。
「私には共鳴する力がある。彼女の神聖力を増幅し、治癒術として使える」
「それを利用と呼ぶのでは?」
「利用です」
私は頷いた。
「ですが、人間は皆そうでしょう?」
私は貴族たちを見た。
「商人は客を利用する。貴族は婚姻を利用する。王族は臣下を利用する」
そしてエレナを見る。
「私は彼女の力を利用した」
私は微笑んだ。
「だから何?」
大聖堂が静まる。
「私は誰も殺していない」
「……」
「誰も傷つけていない」
それは嘘だ。
私はクラリスを傷つけた。
父も母も利用した。
エレナの気持ちを踏みにじった。
それでも。
「私は、私が欲しいものを手に入れただけです」
私は言った。
「皆さんも同じでしょう?」
誰も答えない。
そのとき。
王子が立ち上がった。
「裁判を終える」
全員が王子を見る。
「聖女リゼットの資格を剥奪する」
私は眉を動かさなかった。
「ただし、彼女を国外追放にはしない」
私は王子を見た。
「王都から離れた修道院へ送る」
「殿下」
「何だ?」
「私を助けるのでは?」
「助けている」
「これが?」
「君は死刑になるところだった」
王子は苦笑した。
「私が君を救った」
私は何も言えなかった。
♢♢♢
修道院へ向かう馬車の中。
私は窓の外を見ていた。
王都が遠ざかっていく。
聖女の地位。
王子との婚約。
社交界で築いた人脈。
すべて失った。
――負けた。
そう思った。
馬車が止まった。
「聖女様」
御者が言った。
「前方に、人が」
扉が開く。
そこにいたのは、エレナだった。
「どうして?」
「迎えに来ました」
「私は追放されたのよ」
「知っています」
「私はもう聖女じゃない」
「知っています」
「私はあなたを利用した」
「それも知っています」
「……それでも?」
エレナは笑った。
「それでもです」
私は彼女を見た。
理解できない。
どうして。
なぜ。
何の利益がある?
「あなたは本当に馬鹿ね」
「よく言われます」
「私なんかについてきても、何もいいことはないわ」
「そうかもしれません」
「だったら――」
言葉が出てこなかった。
私はずっと、人間は利益で動くと思っていた。
そうでなければ説明がつかないと思っていた。
でも。
説明できないものが、目の前にいる。
「……分からないわ」
私は初めて、誰かにそう言った。
「何がですか?」
「あなたが」
私は笑った。
「人を好きになるって、どういうことなの?」
エレナは少し考えた。
「私にも、よく分かりません」
「あなたにも?」
「はい」
「なら、どうして?」
エレナは笑った。
「分からないけど、好きだからじゃないでしょうか」
私は黙った。
そんな答えがあるのか。
理由がなくてもいい。
利益がなくてもいい。
見返りがなくてもいい。
私はそんなものを、一度も信じたことがなかった。
エレナが馬車に乗り込む。
「帰りましょう」
「どこへ?」
「どこでも」
私は笑った。
「困ったわね」
「何がですか?」
「私、善人になるつもりはないのよ」
「ならなくていいですよ」
エレナは言った。
「あなたはあなたのままでいいです」
私は窓の外を見た。
遠ざかる王都。
失ったものは多い。
けれど。
私は一つだけ、まだ持っている。
腕から外した聖印。
もう私には何の力も与えてくれない。
ただの銀色の腕輪。
私はそれを握りしめた。
♢♢♢
数年後。
王国は大きく変わった。
孤児院は増えた。
貧民街には学校が建った。
汚職を繰り返していた貴族たちは次々と失脚した。
アレクシスは国王になった。
エレナは正式に聖女として認められた。
そして私は。
王都から遠く離れた町で、孤児院を経営していた。
「先生!」
子供たちが駆けてくる。
「今日は何をするの?」
「算術よ」
「ええー!」
「嫌なら夕食を減らすわ」
「やります!」
私は笑った。
私は今でも、人間を利用する。
優秀な子供には多くの教育を与える。
将来、私を助けてくれそうな子には特に目をかける。
寄付をしてくれる商人には丁寧に手紙を書く。
権力者には礼儀正しく接する。
私は善人になったわけではない。
たぶん、これからもならない。
けれど。
昔と一つだけ違うことがある。
人間には、損得では説明できないものがあると知った。
利益にならない友情。
見返りのない親切。
損をしても守りたい誰か。
そういうものを、私はまだ完全には理解できない。
でも。
理解できないからといって、存在しないわけではない。
「先生」
窓辺にエレナが立っていた。
「何?」
「また手紙が来ていますよ」
「誰から?」
「国王陛下から」
「捨てておいて」
「読まないんですか?」
「面倒だもの」
エレナは笑った。
「相変わらずですね」
「何が?」
「性格」
「失礼ね」
私は机の引き出しを開けた。
そこには、銀色の聖印が入っていた。
あの日、エレナから借りたもの。
私はそれを指先で撫でる。
もう何の力もない。
私には神聖力がない。
聖女ではない。
あの日、私が聖女になったのは、エレナの神聖力と、私の共鳴能力が偶然重なったからだ。
だから私は、最初から聖女ではなかった。
それでも。
病人は治った。
孤児は救われた。
貧しい人々は私を信じた。
私はその信頼を利用した。
けれど。
利用した結果として、多くの人間が救われたことも事実だった。
私はそこに善悪の答えを出せない。
たぶん、これからも。
「先生、何を笑ってるんですか?」
「笑ってないわ」
「笑ってますよ」
「うるさいわね」
私は聖印を引き出しに戻した。
鍵をかける。
誰にも見せない。
これは私だけのもの。
利用価値なんてない。
だからこそ。
たぶん初めて。
私はこれを――
大切だと思っている。
窓の外では、子供たちが笑っている。
エレナが私を呼ぶ。
私は返事をする。
昔なら、そこに何かしらの利益を探していた。
今は――。
まだ探してしまう。
けれど、見つからなくても。
少しだけ、嬉しいと思える。
それだけだった。
人間は単純だ。
欲しいもののために動く。
愛されたい。
認められたい。
金が欲しい。
権力が欲しい。
私は今でもそう思っている。
だから私は、きっとこれからも人を利用する。
必要なら嘘もつく。
騙しもする。
自分の欲しいものを手に入れるためなら、手段を選ばないこともあるだろう。
でも。
それでも私は、昔の自分とは少し違う。
なぜなら私は知ってしまったから。
人間には――
損得では説明できないものがある。
そして、それを知ってしまった私は。
もう二度と、
自分だけが正しいとは思えない。
「先生!」
「何よ!」
「夕食まだー?」
「今行くわよ!」
私は引き出しの鍵を閉めた。
そして子供たちのところへ向かった。
善人ではない。
聖女でもない。
それでも。
誰かに必要とされることを、悪くないと思えるくらいには。
私は少しだけ、人間になった。




