エピソード 8
口を開け、目を見開いたまま、誰一人として動けない。
威圧による硬直ではなく、それは「常識」の崩壊がもたらした、純粋な困惑と畏怖だった。
「な、なにが……どうなってる……」
「天空の覇者が、あの女に……従っている……?」
信じられない。
信じられるはずがなかった。
かつて人間界に災厄をもたらした伝説の怪物が、今まさに目の前で、一人の女性に全幅の信頼を寄せているなど。
到底、現実の出来事とは思えなかった。
そして、彼女はまるで咎める母親のように、そっとドラゴンの鼻先を指で突きながら微笑む。
「でもね、今日は争いに来たわけじゃないの。だから、人を食べちゃダメだよ」
グゥルゥ……と唸るグリエス。
女性の言葉に、ドラゴンは分かりやすくシュンと項垂れた。
まるで叱られた子供のように首を縮こませ、視線を逸らす。
それでも、彼女の一言で従順に大人しくなる様子は、誰の目にも「常識」を裏切る異様な光景で、見ているだけで人の思考を麻痺させるに十分だった。
広場に集まった民衆もまた、恐怖と混乱の狭間で凍り付いていた。
悲鳴を上げて逃げ出そうとした者もいたが、結局はその場から一歩も動けない。
彼らの表情には、死の恐怖よりもむしろ「理解不能の光景に圧倒された人間の顔」が浮かんでいた。
アドルフは苛立ちを覚えながらも、自身の胸中に芽生えるざらついた感覚を拭えなかった。
額に汗がにじみ、呼吸は不自然に早まる。
喉が渇き、声を張ろうとしても思うように力が入らない。
理性は「ただの女だ」と繰り返すのに、感覚は抗えずにその存在へ縛りつけられていた。
――ゴクリ。
静まり返った空気の中で、生唾を飲み込む微かな音が、アドルフの耳に届いた。
反射的に顔を向けると、周囲の騎士たちはドラゴンの巨大な影には目もくれず、その足元に立つ“ひとりの女性”を、呆然と見つめていた。
熱を帯びた視線が、ただ一点に吸い寄せられていく。
「……おい。何をしている。気を緩めるな!」
アドルフが声を荒げると、騎士のひとりが慌てて振り返った。
「し、しかし……」
「たかが女一人に、何を浮かれて――」
そこで言葉が途切れた。
叱責の言葉を吐きながら、アドルフ自身もまた、その女性から目を離せなくなっていることに気づいたのだ。
喉の奥が、無意識に鳴る。
赤い髪が風に揺れ、陽光を反射して淡く煌めく。
まるで彼女の周りだけが、別の世界に変わってしまったかのようだった。
「っ――――」
両親の美点だけを受け継いだアドルフは、己の容姿に絶対の自信を持っていた。
物心つく頃にはすでに女性たちにちやほやされ、同世代の誰よりも多くの異性と親しくなり、「美とは何か」を理解しているつもりでいた。
――少なくとも今日、彼女を見るまでは。
その女性が視界に入った瞬間、アドルフの思考はまるで刃物で断ち切られたように止まった。
美しい。
だがその言葉では足りない。
言葉という器に収まりきらない“異質の美”が、そこにはあった。
腰まで届く髪は、燃え上がる炎をそのまま形にしたかのような鮮烈な赤。
視線を向ければ、否応なしに奪われる。
誰もが本能で「目を離してはならない」と悟る色だった。
前髪の隙間から覗く大きな瞳は、溶けた金属のように深く、底知れない光を宿している。
赤髪と金の瞳――その対比が、彼女の存在そのものを“絵画的な完成品”へと押し上げていた。
通った鼻筋、形よく整った唇。
すべてが均整を成し、まるで精巧な彫刻のようだ。
黒のドレスに包まれた体は華奢でありながら、しなやかで、流れるようなラインが豊かな起伏とくびれを際立たせる。
そして、腰元のスリットからのぞく脚。
白磁の陶器を思わせる滑らかさは、一瞬見えただけで心臓を強く掴まれる。
ただそこに存在しているだけで。周囲の空気を支配し、人々の意識を奪い、男たちの呼吸を忘れさせる。
アドルフは悟った。
――次元が違う。
自分が磨き上げてきた魅力など、この女の前では取るに足らない。
美を理解しているつもりだった自分が、いかに浅かったかを思い知らされるほどに。
処刑場の混乱も、ドラゴンの咆哮も、その一瞬だけかき消された。
誰もが、ただ彼女に見とれ、息を呑んでいた。
アドルフは胸の奥がざわめくのを感じた。
そんな中、彼女はふと唇を開いた。
その声は、冬の空気のように冷たく澄んでいた。
「ファウストを殺そうとしたのはお前か……アドルフ・フォルスター」
その言葉と同時に、アドルフの喉元に冷たい刃が突きつけられたかのような、氷のように鋭い空気が場全体を包み込んだ。
いや、刃は一つではない。
彼女の放つ殺気は、まるで無数の剣が四方から突きつけられたかのように、広場の隅々まで一瞬で張り巡らされていく。
空気が震え、皮膚が粟立つ。
息を吸うだけで胸の奥が切り裂かれそうなほどの圧があった。
騎士たちは一斉に青ざめ、動くことすらできない。
アドルフでさえ、喉の奥が引きつり、呼吸を忘れる。
ファウストが傷つけられた。
その事実ひとつだけで、彼女の怒りは全方向へ向けられ、敵味方の区別なく、場にいる全員の首を落とさんばかりの殺意となって溢れ出していた。




