64話 月夜の潜伏、触れそうな距離
静まり返り、薄暗くなった王都を、ファウストとヘレナは息を潜めて歩いていた。
「……隠れてっ!」
先導していたヘレナが何かに気づき、慌てて建物の陰へファウストを押しやると、そのまま自分も滑り込むように物陰へ身を隠した。
体がはみ出さないようにするため、二人は自然と身を寄せ合うことになる。
こちらには近づかないでくれ――そう願いながら、二人は息を殺した。
「っ…………」
ただ見つからないよう隠れることだけを意識していた二人だったが、ふと我に返ると互いの顔が思っていた以上に近いことにヘレナは気づいてしまった。
視線を上げれば、唇が今にも触れてしまいそうな距離だ。
意識してしまった途端に、やけに心臓の音がうるさく感じる。
「ご……ごめんなさい」
たまらず距離を取り直そうとするヘレナだったが、距離の近さに気づいていないファウストは、不審に動くヘレナの体を抱き寄せる。
「今は動くな」
「っ……だ、だって」
「……気づかれるだろ」
更に距離が縮まってしまい、ヘレナはファウストの胸元に顔を埋める体勢になってしまった。
ただでさえ自分の心臓の音がうるさいというのに、ファウストの心臓の鼓動が耳元に響く。
初めての距離の近さに言葉が出てこない。
ヘレナは平静を装ってはいたが、ほんの僅かに意識してしまったが故に、頭の中は混乱状態となった。
そんな空気を破るかのように、カツン――カツンと足音が少しずつ近づいてきた。
「なぁ……今、音しなかったか?」
「音? どうせ、ハメを外したカップルなんじゃないか?」
「こんな時間にか?」
「人目を気にしないカップルに、時間なんて関係ないさ」
徐々に近づいてくる話し声に、ヘレナの体を抱き寄せるファウストの手にグッと力が加わり、張り詰めるような緊張感が伝わってくる。
だがヘレナは今、それどころではなかった。
「っ……」
強く主張する自分の心臓の音と、ファウストの鼓動が耳元で重なる。
この距離の近さに意識をしているのは、私だけではないのかという羞恥。
「もうっ、無理っ……」
「あ。おい! ヘレナっ!」
全ての限界をとうに超えたヘレナは、ファウストの体を押し返し物陰から飛び出した。
「っ!? 何者だっ!」
突然、物陰から現れた人影に警戒心に満ちた声が鋭く響く。
「えっと……」
視界の端では、ファウストが「何やってんだ、バカ」と言うかのように頭を抱えている姿が見えた。
なんて誤魔化そうかと考えていると、向かい側からキラリと何かが光った。
よく見れば、月明かりを反射させる傷一つない新品の鎧を纏った新人騎士の二人組だった。
今夜、この辺りの見回りを担当させていたのを思い出した。
「こ、こんばんは」
ヘレナはややぎこちない笑みを浮かべながら、二人に声をかける。
「……あ、ヘレナ団長でしたか。こんばんは」
「確か、二人は今晩この辺りの担当だったわね」
二人はヘレナの顔を見るなり警戒を解き、構えていた剣を鞘に戻す。
「そうなんですよ。今のところ住人も見当たらないので、今晩も暇そうですね」
もはや、夜の散歩と化している見回り。
退屈そうだった一人が、厳重な警戒体制に少し大袈裟だと言いたげな様子で、つい本音を漏らした。
「一応、これも立派な仕事なんだから、気を抜かないようにね?」
ヘレナに宥められた新人騎士は無意識のうちに口を滑らせていたことに気づいたようで、ハッとした表情を一瞬見せると、畏まったように敬礼をした。
「任せてください!」
「では、ヘレナ団長! お休みなさい」
二人揃って深く頭を下げ、ヘレナの横を通り過ぎそのままファウストが隠れている方へ歩き出そうとする。
「……あ、そうそう」
新人騎士が通り過ぎようとしたその時、ヘレナが呼び止めた。
「ちょうど向こうから歩いてきたけど、特に異常はなかったわよ」
飄々と嘘をつくヘレナは、自分たちが歩いてきた道を指す。
「そうでしたか! なら、他の道を回ってきます。ヘレナ団長も夜道に気をつけてくださいね」
「それ、誰に言ってるのよ」
二人は何も疑う様子もなく踵を返し、別の路地裏へと歩いていった。
姿が完全に闇に溶けきったのを確認し、ヘレナは未だ物陰に隠れるファウストにそっと声をかける。
「……もう大丈夫みたい」
「危なかったな」
ファウストは周囲を警戒しながら、ゆっくりと物陰から姿を現す。
すると、ヘレナの姿を見るなり深いため息を吐いた。
「あのなー。急に暴れるなよ」
さっきのことを言っているのだろう。
「お前らしくなかったぞ?」
「っ――――」
あまりにも平然としたその態度に、ヘレナの胸の奥で何かが弾けた。
「だっ! だいたい、嫁入り前の女性にあんなことして……何考えてるんですかっ! あんなの、心臓に悪すぎます!」
「はぁ!? あの状況で離せるわけがないだろ!」
「だからって――!」
言い返そうとした瞬間、ヘレナは言葉を詰まらせた。
あの少しでも動いてしまえば触れてしまいそうだったあの一瞬を、再び思い出してしまったのだ。
「っ……」
体中の熱が顔に集中し、思わず視線を逸らす。
「なんだよ、急に黙って……」
ファウストが怪訝そうに眉を顰める。
「……なんでもないです」
ぶっきらぼうに返すヘレナ。
だが、誤魔化しきれてないのは自分でも分かっていた。
「お前、顔赤くないか?」
「っ!? 赤くないです!」
「いや、どう見ても――」
「っ――もうっ! 赤くないって言ってるじゃないですかっ!」
思わず声が大きくなり、ヘレナは「しまった!」と両手で口を押えた。
「っ、急に大声出すなよっ!」
夜更けの時間帯に突如として響いたヘレナの大声は夜の静けさを一気に破り、その影響で家々の明かりが点いてしまった。
「おい、どうすんだよ……」
少し離れた所から、新人騎士の二人組が走ってこちらに向かってくる足音が聞こえてきた。
呆れてため息をつくファウストを前に、ヘレナは小さく咳ばらいをする。
「どうするって……そんなの、逃げるに決まってるじゃないですかっ!」
「ったく、お前は……」
二人は、月明かりの中を逃げるように駆けた。




