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天魔の血脈  作者: 黒ひげの猫
王都断罪編②
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59話 精霊の涙

『あの少年、ほんとにドラゴンの主やってんだねー』


 厨房で朝食の準備をしていたファウストの胸元から、煩わしい声が聞こえてきた。

 だが、ファウストはそれに返事をしない。


『ちょっと、聞こえてるくせに無視は酷くない?』


 不貞腐れた声が続く。

 その声の主は、先日の闘技場での戦いの後に現れたものだった。

 フォルスター王国第一王子アドルフが持っていた角笛。

 そこから噴き出した濃密な魔力の煙を浴びた直後、ファウストの体に刻まれた紋様。

 獣の尾に絡みつく蛇の紋様。

 それが、今こうしてファウストに話しかけてきているのだ。

 

『暇なんだし、話し相手になってくれてもよくない?』


「……俺は暇じゃない」


 包丁を動かしながら、ファウストは短く返す。


『料理しながら会話くらいできるじゃん? もうさ、暇で暇で消えちゃいそうなんだよ』


「面倒くさいから、いっそそのまま消えてくれ」


『そんな事言わなくったってよくない?』


「っ……朝からうるせぇな」


 ファウストは小さく舌打ちした。

 

「用件はなんだよ」


『んー? なんかさ、これから面白そうなことが起きそうだなって思って』


「面白いこと?」


 ファウストの眉がわずかに動く。


「勿体ぶった言い方すんな」


 食材を切る手に、思わず力が入った。


 ガタンッ――。


 包丁が台に強く当たり、厨房に乾いた音が響いた。

 

『……これから、大きなことが起きるよ』


 紋様の声が、どこか楽しげに響く。


『それこそ――世界の命運を分けるような出来事がね』


「世界の、命運?」


 ファウストの手が、わずかに止まった。


『そう』


 くすくすと笑う気配が胸元から伝わる。


『それとね』


 一拍おいて、紋様は続けた。


『向こうで、正義感に満ちた綺麗な女の人が君のことをずっと待ってる』

 

 その言葉に、ファウストの眉がわずかに動き、脳裏に一人の女性の顔が浮かんだ。

 凛として鋭い瞳、それでいてどこか真っ直ぐな眼差し。


『…………もうすぐ、会えるね。我が主』

 

 それだけ言うと、紋様はそれ以上話しかけてくることはなかった。

 まるで最初からそこにいなかったかのように、気配さえ静かに消えていく。


「……何かが起きる」


 ファウストは小さく呟いたその時だった。

 まるでタイミングを計っていたかのように厨房の扉が、静かに開き、おずおずとした足取りで、アリアドネが中へ入ってきた。


「おはよう、アリアドネ」


 ファウストは振り返り、いつもの調子で声をかける。


「もう少しで出来上がるから、ちょっと待っててくれ」


 だが、アリアドネは何も答えなかった。

 ファウストの横に立ち、不安そうな表情で彼を見上げている。


「アリアドネ? 何かあったのか?」


 するとアリアドネは、まるでどこにも行かせたくないと言いたげに、弱々しくファウストへ抱きついた。


「……ファウストよ。誰かと話しておったのか?」


「いや」


 ファウストは、包丁を置きながら答える。


「ここには、ずっと俺しかいないよ」


 胸元に現れた紋様のことは、まだ誰にも話していない。

 だからファウストは、何でもないことのように嘘を吐いた。


「……そうか」

 

 アリアドネは小さく呟いた。


「ファウストよ。その……」


 言葉を続けようとして、ふいに口を閉ざす。

 まるで、自分の中にある何かと葛藤しているかのようだった。


「アリアドネ?」


 ファウストが不思議そうに呼びかける。

 しばらくの沈黙が続き、やがてアリアドネはゆっくりと顔を上げた。


「…………お主のことを探している人物の姿が見える」


 その瞳は、どこか遠くを見つめている。


「会いに行くといい」

 

 その言葉は、ついさっき蛇の紋様から聞いたものと同じだった。

 ファウストの手が、わずかに止まる。

 胸元に刻まれた紋様は、今はもう沈黙している。

 だが確かに、あれはそう言っていた。

 これで、紋様が口にした言葉のすべてに、現実味が増した。


「王都で、お主を待っておる」

 

「……そうか。教えてくれてありがとう、アリアドネ」


 ファウストは小さく息を吐いた。


「……もう、行くのか?」


 アリアドネが不安そうに問いかける。


「うん。なんか、ずっと嫌な予感はしてるし」


 ファウストはそう言って、軽く肩をすくめた。


「それに――これは俺にとって大事なことだから」


 未だ不安そうな表情を浮かべるアリアドネの頭を、ファウストは優しく撫でた。


「大丈夫だ。すぐ帰ってくる」


 そう言って、ファウストは厨房を後にしようとしたその時、躊躇っていたアリアドネが、思わず声を上げた。


「ファウストッ!」


 ファウストは足を止め、振り返る。


「死ぬではないぞ」


 アリアドネは強く言う。

「妾はこの城から出られぬ身じゃ。お主に何かあっても、そこでは助けてやれぬ……」


「アリアドネ……」


「頼むから、無事に帰ってきておくれっ!」


 普段は滅多に感情を表に出さないアリアドネだが、その瞳には今にもこぼれ落ちそうなほど涙が溜まっていた。


「お主に何かあっては……妾は耐えられぬ」

 

 こんな姿のアリアドネを見るのは、ファウストも初めてだった。

 いつも飄々としていて、どこか掴みどころのない精霊。

 それでいてなぜか放っておけず、気づけば、かつてのリュドミラの姿と重ねてしまっていた。

 そんなアリアドネが、これから起こる未来を見てここまで取り乱している。

 それが何を意味するのか分からないほど、ファウストは愚かではない。

 これから待ち受ける未来は――きっと、壮絶なものになる。

 

「心配するなよ」


「ファウスト……」


「絶対に帰ってくる」


 ファウストはそう言って、アリアドネの頭をそっと撫でた。


「そしたら、リュドミラが食べたいもの、なんでも作ってやる」


 少しだけ笑って続ける。


「だから――泣くなよ」

 

「うんっ……うん。必ず、無事で帰ってきておくれ」


 アリアドネは涙をこらえながら頷いた。

 ファウストは、彼女の瞳からこぼれ落ちた涙を指でそっと拭い、何も言わず静かに厨房を後にした。

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