55話 一撃を届かせるために
目の前にいる血に濡れた牙と巨大な翼を持つ魔獣を見上げ、レオンは静かに自分の死期を感じていた。
低く唸る声。
地面を踏みしめるだけで伝わってくる重い振動。
魔獣はゆっくりと翼を広げ、その巨体を誇示するようにレオンを見下ろしている。
逃げ場はない。
剣を握る手が、わずかに汗ばんでいた。
もしかすると俺は今日――ここで死ぬのかもしれない。
遡ること数時間前。
「レオン! 剣を構える時は力を抜けって言ってんだろ!」
「っ、分かってる!」
「力を入れるのは剣を振り下ろす一瞬だけでいいっ!」
甲高い金属音が、荒野に響き渡る。
ファウストの剣が振るわれるたび、鋭い風がレオンの頬をかすめた。
受け身訓練から数日が過ぎ、レオンはようやく目を瞑らずに攻撃を見極められるようになっていた。
繰り広げられる斬撃をいなし、躱し、剣で受け止め、技を流す。
最初は一撃も防げなかった攻撃も、今ではかろうじて対応できるようになっている。
受け身訓練をクリアしたレオンに出された次の課題は、ファウストの攻撃を躱しながら、隙を見て自分でも反撃をすることだった。
それは、ただ逃げ続けるだけの訓練とは違い、攻撃を見極め、躱し、そして――斬り返す。
その一瞬の隙を掴まなければならない。
そこで、訓練の最初にひたすら走り続けさせられていた、あの地獄のような時間がようやく意味を持った。
足を止めれば命取りになることを、レオンは散々なほど思い知らされてきた。
ファウストは決して立ち止まらない。
常に動き続け、間合いを変え、攻撃の角度を変えながら剣を振るう。
その動きに合わせるため、レオンもまた走り続けた。
魔力量が増えたことで、レオンの動きは最初の頃とは比べものにならないほど速く、鋭くなっていた。
だが、いくら成長したとはいえ、歴戦の猛者であるファウストに敵うはずがない。
ファウストの剣は速い。
常人なら、とっくに目で追うことすらできない速さだった。
むやみに走り続けたところで、ファウストに追いつけるはずもない。
ただ一方的に攻撃を受け続け、体力の限界を迎えるだけだ。
だが、レオンは一方的にやられて終わるような性格ではなかった。
受け身訓練の際、レオンはひたすら「ファウストに一撃を入れること」だけを考えていた。
そのために、行動のすべてを観察した。
攻撃を入れるタイミング。
体勢。
体の動かし方。
小さな動きさえ見逃さず、観察し続けた。
そしてついに、ファウストの一つの癖を見つけた。
それは、攻撃を繰り出す前のほんの一瞬だけ動きが止まることだった。
ピタリと一瞬動きを止める。
次の瞬間、風を切り裂きながら距離を詰め、斬撃が放たれる。
もし隙を狙えるとすれば、その一瞬しかない。
その隙を狙うには、ファウストの瞬発的なスピードに対応しなければならなかった。
そこでレオンは、体内に流れる魔力の流れをコントロールすることに専念した。
魔力は血に混ざり、全身を巡っている。
身体には常に魔力が流れ続けている状態なのだと、ローザから教わっていた。
ならばその流れを自分の意思で調整することができたら、どうなるのか。
例えば、走る瞬間。
地面に着く足へ一時的に魔力を集中させ、それを一気に放出する。
すると、筋肉の力だけでは生み出せない爆発的な瞬発力が生まれる。
実際に試してみると、その効果は想像以上だった。
足に込めた魔力を弾けさせた瞬間、レオンの体は弾丸のように前へ跳ねた。
ただ、それを実現するには同時に複数の魔力を調整しなければならなかった。
ひとつでも乱れれば、動きは鈍る。
最悪の場合、魔力の流れが崩れその場で体の制御を失う可能性もあり、ファウスト相手にそれは死を意味する。
レオンは必死に魔力の流れを整えた。
ファウストの動きを捉えるための動体視力の強化。
攻撃を察知するための感覚強化。
攻撃の威力を上げるための筋力強化。
そして、ファウストのスピードに食らいつくための、瞬発的な魔力操作。
これらすべてを同時に維持しなければならない。
それは、ほんのわずかな集中の乱れでも崩れてしまう、綱渡りのような制御だった。
「レオンッ! さっきから動きが硬いぞっ!」
「っ――! 集中してんだから話しかけるなっ!」
レオンは歯を食いしばりながら、ファウストの動きに合わせて魔力を足へ集中させる。
地面を蹴る瞬間に爆発させるために、血流に乗って巡る魔力を、足裏へ意識的に絞り込む。
次の瞬間、ファウストの剣が唸りを上げて振り下ろされた。
レオンはそれを剣で受け止め、甲高い金属音が荒野に響き、衝撃が腕を通して全身を揺らした。
剣を滑らせるように受け流し、二人は一度距離を取った。
そして、その瞬間だった。
ほんの刹那。
ピタリとファウストの動きが止まり、レオンの瞳が鋭く見開かれた。
見逃さない。
あの癖だ。
「っ、今だっ!」
レオンは足に溜めていた魔力を一気に解放した。
地面を蹴った瞬間、足元の魔力が爆ぜる。
体が弾けるように前へ跳び、砂埃を巻き上げながら一気に間合いを詰めた。
「っ――」
瞬きをしているほんの一瞬の隙に、レオンは一気に間合いを詰めた。
迷うことなく剣を振るい、反撃の一撃を叩き込む。
――キィンッ!
鋭い金属音が鳴り響き、その刃はファウストの剣によって受け止められた。
だが、その瞬間、ファウストの体がほんのわずかに揺らぐ。
完全に受け切ったはずの一撃。
それでも体勢はわずかに崩れていた。
レオンの攻撃を受け止めながら、一瞬の隙を突かれたファウストは思わず目を見開く。
まるで予想外の出来事を目の当たりにしたかのように、その表情にはわずかな驚きが浮かんでいた。
「……へぇ。魔力調整まで出来るようになったのか」
交わる剣越しに、ファウストはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
そして、まるで休戦だと言うように、ふっと体の力を抜く。
「俺だって、ただ一方的にやられてるだけじゃねぇよ」
「うん。これなら次に進めるな」
どこか満足そうにそう言うと、ファウストは指をパチンと鳴らした。
次の瞬間、視界が揺らいだ。
気づけば、目の前の景色は荒野から鬱蒼とした森へと変わっていた。
「は?」
突然の環境の変化に、レオンは思わず周囲を見回す。
その時だった。
耳を劈くような魔獣の唸り声が、森の奥から響き渡る。
ドシン――
ドシン――
重い足音が、大地を揺らしながら近づいてくる。
やがて木々をかき分けるようにして、一体の魔獣が姿を現した。
血に濡れた牙。
巨大な翼。
腹を空かせているのか、獰猛な瞳がレオン一人を鋭く捉えている。
「次は実戦だな」
「…………は?」
理解が追いつかないレオンをよそに、ファウストはあっさりと言い放った。
「その魔獣を倒せたら、合格だ」
「…………マジで言ってんのかよ」
目の前の魔獣を見上げながら、レオンは静かに思った。
――もしかすると俺は今日、死ぬのかもしれない。




