49話 大精霊アリアドネ
レオンとリーナは魔王城に戻ると、イリスやファウストに連れられ、精霊アリアドネが待っているという食堂へ向かった。
そこでは、キラキラと黄金に輝く羽を持つ精霊が、忙しなく飛び回っている。
そして、レオンたちの姿を見つけるやいなや、真っ直ぐこちらへ飛んできた。
すぐ目の前まで迫られ、レオンは反射的に目を瞑る。
次の瞬間、ポンッと何かが弾ける音がした。
「うわぁぁぁぁあんっ! ファウストのバカ者ーーっ!」
幼い少女の泣き叫ぶ声が、これでもかというほど、城に響き渡った。
いったい何が起きたのかと、レオンは目を開ける。
すると、つい先ほどまで目の前にいたはずの精霊の姿はなく、代わりに自分たちと同じ年頃と思しき少女が、ファウストに強く抱きついていた。
「わ、妾は……何も悪いことなどしておらぬのにっ! あのように怒らなくても、よいではないかっ!」
その少女は、腰のあたりまで届く、ふわふわとした白銀に輝く髪が印象的だった。
ファウストはその少女の頭を優しく撫で、これまで見たこともないほど穏やかな表情で機嫌を取る。
「悪かったよ。急いでたんだ……。許してくれ、アリアドネ」
ファウストが口にした名前に、レオンとリーナは耳を疑い、互いに顔を見合わせた。
アリアドネは精霊だと聞いていた。
それなのに、今、目の前にいるのはどう見ても、ごく普通の女の子だ。
「ファウストは……本当に、怒ってはおらぬのか?」
「怒ってないよ。俺が今まで、アリアドネに怒ったことなんてあるか?」
「……本当か? 妾に、怒ってはおらぬのだな?」
「あぁ、本当だ。俺の方こそ、嫌な思いをさせて悪かった」
何がどうなっているのか。
二人のなにやら甘い空気に取り残されたレオンとリーナは、困った表情で近くにいるイリスに助けを求めた。
だが、イリスは呆れたような表情を浮かべるだけで、何も言わず、食堂にある席へと向かい腰を下ろす。
「……レオン、リーナも。早くこっちに来なさい」
動揺を隠せないまま、イリスに言われたとおり、レオンとリーナも後に続いて席についた。
そこには、何かの書物を読んでいるローザの姿もあった。
ローザは二人の姿に気づくと、読んでいた書物を静かに閉じ、顔を上げる。
「無事でよかったわ。二人とも、怪我はない?」
「だ、大丈夫です」
「うす……」
ローザから漂う独特の冷たい空気に、緊張した面持ちで、レオンとリーナは答えた。
「そう。よかったわ」
そう言うと、ローザはファウストとアリアドネに、冷ややかな視線を向けた。
「アリアドネ」
ローザは、ぴしゃりと彼女の名だけを呼ぶ。
「……妾に、何用じゃ」
「そろそろ、もういいかしら?」
その言葉と同時に、彼女の身から、底冷えするような魔力が溢れ出した。
突如として満ちた冷気に、レオンとリーナは、ぞわりと身体を震わせる。
だが、次の瞬間。
今度は冷えきった身体を包み込むような、温かな風が食堂内を満たした。
相反する魔力が、ほぼ同時に溢れ出したことに、レオンとリーナは混乱する。
そのとき――。
「フンッ」
誰かが、鼻で笑う音が聞こえた。
「ローザ。子供の前で魔力を乱すなど……そなたも、まだ若いのう?」
アリアドネの言葉に反応するように、仮面でも被っているかのように硬かったローザの表情が、僅かに歪んだ。
「そなた、誰に口を利いておるのか……分かっておるのか? 相変わらず、年中喪中のような辛気臭い表情じゃのう」
アリアドネは、「やれやれ」と言わんばかりに肩をすくめる。
「本来、そなたはこの魔王城に立ち入ることを許されてはおらぬ存在。だが、ギル坊の友であるがゆえ、特別に認めておること――忘れてはおらぬだろうな?」
その言葉に、ローザはピクリと小さく反応した。
チクチクと肌を刺すような魔力が満ち、重苦しい空気が場を覆う。
その中で、イリスがパンッと手を叩いた。
すると、何もなかったはずの卓の上に、白い皿に丁寧に盛り付けられた肉料理や、温かなスープ、焼きたてのパン、新鮮なフルーツが、一瞬にして現れる。
「ファウストが用意したの」
イリスはそれだけ言うと、一人先にナイフとフォークを手に取り、肉料理を頬張った。
突然目の前に現れた豪勢な食事に、レオンとリーナはごくりと喉を鳴らす。
イリスに倣って肉料理を食べようとするが、初めて扱うナイフに、二人は戸惑いを隠せない。
その様子を見ていたイリスは、子供たちの皿にそれぞれ指を向ける。
次の瞬間、肉は食べやすい大きさに切り分けられていた。
「冷めないうちに、食べなさい」
「ありがとう、ございます」
「……ありがとう」
なぜか先ほどまでの天真爛漫な態度から打って変わり、少し冷たい空気を纏ったイリスの様子に、レオンとリーナは違和感を覚えながらも、食事を始めた。
だが、目の前の席に着くアリアドネとファウストは、そんなことなど気にも留めない様子で、楽しげに食事をしている。
「ファウストよ、妾の肉も切ってはくれぬか?」
「はいはい。ほかには、何をしてほしいんですか?」
この空気の中で、なぜこの二人は普段通りでいられるのか。
そんなことを考えながら、レオンは黙々と食事を進めていた。
アリアドネという少女は、ふわりとした柔らかな銀髪が印象的で、どこか全体に丸みを帯びた佇まいをしていた。
まるく柔らかそうな頬に、淡い水色の丸い瞳。小さくふくらんだ唇。
可憐で儚げな雰囲気をまとった少女だ。
だが、その小さな口から紡がれる言葉は、どれも古めかしく、重みを帯びている。
容姿と言葉の落差に気圧されながら、レオンは食事を進めていた。
やがて食事も終盤に差しかかったころ、アリアドネが手にしていたフォークを、そっと皿の上に置く。
金属同士が触れ合う音が、やけに大きく響いた。
その音が、この場の空気を断ち切るようにアリアドネは、イリスを真っ直ぐに見つめる。
「ヴァルグリムが、子を残すことになった」
「……え?」
その言葉に、イリスは動揺を隠そうともしなかった。
「アヤツの前に、主が再び姿を現すことは……とうとう、なかったな」
その言葉の意味を、イリスはすぐには受け止めきれなかった。
唇がわずかに開いたまま、声にならない息だけが漏れる。
何かを言おうとして結局、何も言えず、ただ視線を落とした。
いつもなら迷いなく言葉を返す彼女が、沈黙したまま動かない。
それだけで、この話題がどれほど重いものなのかが、痛いほど伝わってきた。
レオンには、正直なところ、何の話なのかよく分からなかった。
ヴァルグリムも、主も、その関係も、理解できるだけの知識はない。
それでも、この場に落ちた沈黙と、イリスの表情、アリアドネの声の温度が、これは軽々しく触れていい話ではないのだと、はっきり告げている。




