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天魔の血脈  作者: 黒ひげの猫
王都断罪編②
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45話 蛇の囁き

「んっ……」


 長い夢を見ていた気がした。

 だが、その内容は何ひとつ覚えていない。

 意識の底に沈み込むような心地よさが残っていて、このまま、もう少し眠っていたい。

 けれど、身体はそれを許してくれなかった。

 微かな違和感が、ゆっくりと意識を浮かび上がらせていく。

 ファウストは重たいまぶたを押し上げると、ぼやけた視界の奥に、見慣れた色が滲んだ。

 目を覚ますと、いつの間にかイリスのベッドで眠ってしまっていたらしく、ベッドの縁に腰掛けるイリスの後ろ姿が視界に入った。

 

「……先に、起きてたのか」


 寝起きで重くなった体を起こしながら声をかける。

 頭はまだ靄がかかったようで、言葉を発するのにも少し時間がかかった。

 視線を向けた先で、不自然なくらいニコニコと頬を歪ませたイリスと目が合う。

 その表情を認識するのに、ほんの一拍、遅れた。


「まぁね。なんか目、覚めちゃって」


「なに……笑ってんだよ」


 自分でも分かるほど、間の抜けた声だった。


「いやー? 私より遅く起きるなんて、珍しいなって思ったから」

 

 その言葉に、一瞬、思考が停止した。


「っ、今、何時だ!?」


「たぶん、昼過ぎ……かな?」


「昼!? 悪いっ、飯っ……うわ、寝すぎたっ」


 一人で慌てるファウストの珍しい様子に驚いたのか、イリスは目を丸くし、パチパチと何度か瞬きを繰り返した。


「全然いいって! さすがに疲れてたんだよ」


「っ、悪い……」


 口ではそう返したものの、胸の奥のざわつきは消えなかった。

 どれほど疲れていたとしても、いつもと同じ時間に目を覚ますのが常だった。

 それなのに、ここまで寝過ごすなんて今まで一度もなかったのだ。


「まだ、完全に魔力も回復してないみたいだし、黒泉にでも行ってきたら? 私もさっき行ったし」


「っ、そうする……」


 イリスの言う通り、体は確かに本調子ではない。

 わずかなふらつきが足元に残り、頭もどこか重かった。

 弱っている。

 そう自覚した瞬間、胸の奥がひやりとする。

 イリスも、それを感じ取っているのだろう。

 からかうような口調とは裏腹に、その視線には先日の戦いが残した影を案じる色が滲んでいた。

 

「一人で行ける? 飛ばしてあげようか?」


 その言葉には、軽い調子の裏に、隠しきれない気遣いが滲んでいた。

 イリスの言う“飛ばす”とは、転送魔法のことだ。

 だが、今のこの状態で転送されたところで、どうせイリスの魔力に当てられて状態が更に悪くなるのが目に見えている。


「いや、いい。自分で行く」


 そう答えると、イリスは一瞬だけ何か言いたげに口を開きかけたが結局、何も言わずに引き下がった。

 その視線を背中で受けながら黒泉へ向かうため、鉛のように重くなった体を引きずるようにしてベッドから起き上がる。

 いつも以上に重い足取りで、なんとか黒泉へ辿り着き、湯に身を沈めた。


「ふぅ……」


 息を吐いた瞬間、張り詰めていたものが、わずかに緩んだ。

 魔界の魔力に、だいぶ体が適応し始めているのだろうか。

 黒泉に含まれる魔力の浸透が、以前よりも早くなったように感じた。

 先程まで身体にまとわりついていた倦怠感が、湯とともに少しずつ、溶けていく。

 完全ではないがそれでも、確かに回復している。

 イリスの心配は、決して過剰ではなかったのだと、湯の中で静かに理解した。

 

「それにしても……アレは、なんだったんだ……」


 ファウストは黒泉に身を沈めたまま、天井を仰いだ。

 脳裏に浮かぶのは、闘技場で起きた出来事。

 魔法を操る、人間の子供。

 不穏な魔力を放っていた、角笛。

 自分が姿を消している間に、人間界でいったい何が起きているのか。

 思考を巡らせていると、湯の静けさとは裏腹に、胸の奥に微かな引っ掛かりを覚えた。

 視線を落とすと、左胸のあたりに黒い線が走っている。


「……なんだ、コレ……」


 指先でそっとなぞる。

 その感触は、ただの汚れや傷ではなかった。

 皮膚の下に“何か”が根を張っているような、嫌な感覚。

 ファウストは息を殺し、湯に浸かっていた体をゆっくりと起こして黒泉の水面に映った自分の姿を、凝視した。

 そこに浮かび上がっていたのは動物の尾に、蛇が巻きついた紋様。

 墨で描かれたかのように黒く、だが、妙に生々しい輪郭を持っていた。

 

「は? ……紋様?」


 なぜ、自分の体にこんなものが刻まれているのか。

 思考を巡らせるまでもなく、脳裏に浮かんだのは闘技場で浴びた、息が止まるほどの威力を持つ、あの黒い煙だった。

 異質な魔力を放っていた、あの角笛。

 それ以外に、考えられるはずがない。

 

「あの時の……角笛か?」


 言葉にした、その瞬間だった。

 尾に巻きついていた蛇が、するりと動く。

 錯覚のはずがない。

 黒泉の水面越しに、それは確かにこちらを見ていた。

 ぞわり、と背筋を這う冷たい感触。

 そして次の瞬間、頭の中でも耳でもない、胸の奥に直接声が流れ込んできた。

 

『ようやく……会えたね』


 その蛇は、口先から細く長い舌を、ゆっくりと覗かせた。

 滑らかで艶のある男の声だった。


「……誰だ、お前は」


 ファウストは視線を逸らすことなく、蛇へと言葉を投げつける。

 その問いかけに、蛇はくすりと喉を鳴らすように笑った。


『オレのことを忘れるなんて、酷いじゃないか。あの狭い場所でアンタが会いに来てくれるのを、オレはずっと待っていたのに』

 

 再び、蛇がするりと身を動かした。


『それに、この魔力……懐かしいな』


「俺は、お前のことを知らない」


 きっぱりと言い切る。

 だが、その断言を嘲笑うかのように、蛇は一拍置いて続けた。


『……今は、そうかもね。でも、近いうちにきっとオレに会いに来る』


 そう言い残すと、蛇はするりと身を翻し、再び尾に体を巻きつけた。

 それきり、動かなくなる。


「……なんだったんだ、今のは……」


 もう一度、蛇に声をかけてみる。

 だが、返ってくる反応はなかった。

 そこにあるのは、先ほどまでの気配が嘘のような静けさと、ただ静かに刻まれた紋様だけだった。

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