エピソード 43
扉が閉じる音と同時に、ファウストたちは魔王城の一室へと転移していた。
「ハァッ……ハァッ……」
「ッ……ハァ、ハーッ……」
二人とも、立っているだけで精一杯といった様子で、肩を大きく上下させている。
「……アンタたち、向こうで何が――」
ローザは言葉を途中で詰まらせた。
ここまで疲弊しきったファウストとイリスを見るのは、初めてだった。
「っ……私たちも、さっぱりよ……」
イリスは息を整えながら、吐き捨てるように言う。
「気づいたら……魔法が、使えなくなってたの」
「……魔法が、使えない?」
その言葉に、ローザは一瞬、理解が追いつかないといった表情を浮かべる。
人間界にいただけで、魔法が封じられるというそんな事態、聞いたことがない。
だが次の瞬間、斬り落とされたイリスの腕と、血に汚れたファウストの姿が目に入り、ローザの顔色が変わった。
「……イリス。アンタ、その腕……」
「あぁ。大丈夫だから」
イリスは気にも留めない様子で、斬り落とされた腕を傷口へと当てる。
ぴたり、と触れると断面の細胞同士が絡み合い、音もなく繋がっていく。
数秒後には、そこにあったはずの欠損は、跡形もなく消えていた。
「……本当に、何が起きてるのよ」
再生した腕を確かめるように、イリスは拳を握り、開く。
問題なく動くのを確認すると、呆れたように小さく息を吐いた。
「あの角笛……一体なんなの? あの魔力量、私を超えてるじゃない」
「角笛?」
その言葉に、ローザの眉がわずかに動いた。
「そう。向こうのアホが、バカみたいな魔力量の角笛を操ってたのよ。ファウスト、アンタは角笛のこと知ってた?」
「あぁ。魔界に来る前に一度だけ見せられたけど……その時は何も違和感がなかった」
「まぁ、そうよね。私だって、あの魔力に気づかなかったくらいだし」
イリスとファウストが角笛について話している間、ローザは何かを考え込むように沈黙していた。
「ローザ? どうかしたの?」
「え? あぁ……ごめんなさい。角笛のことだけど、心当たりがあるかもしれないの…」
「本当?」
「えぇ。でも確証はないから……少し、時間をちょうだい」
そうローザが答えた、そのときだった。
部屋の入口から、小さな影が駆け込んでくる。
闘技場でファウストが保護した少女、リーナだ。
「ファウストさんっ!」
泣きはらした目のまま、リーナは縋るように走り寄り、ファウストの脚に抱きついた。
無事な姿を確かめた瞬間、張り詰めていたものが切れたように、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「……無事だったか」
ファウストはそう呟き、リーナの頭にそっと手を置いた。
「イリスを呼んでくれて、ありがとうな」
その瞬間、後ろから伸びた手が、ファウストの手を勢いよく払いのけた。
「リーナに触るんじゃねぇ!」
「お兄ちゃんっ!」
駆け込んできたレオンが、リーナを庇うように前へ出る。
「……お前も、無事でよかったよ」
「っ――」
一瞬だけ、レオンの表情に戸惑いが走った。
感情が追いつかないまま、言葉だけが先に出てしまったような顔だった。
ファウストに向けられるその刺のある態度に、リーナはきっと睨むが、すぐに向き直り深く息を吸ってから、その場で深々と頭を下げた。
「……助けてくれて。本当に、ありがとうございます」
震えながらも、はっきりとした声だった。
その様子を黙って見ていたイリスが、ふいに一歩前へ出てレオンの前にずい、と立ちはだかる。
「……何よ、そのガキみたいな態度」
イリスの声は低かった。
「ファウストは、アンタの命の恩人でしょう?」
「イリス……。いいから」
「よくないわよ」
イリスは即座に言い切った。
「アンタたちを助けるために、ファウスト……本当に、死にかけたのよ」
「っ――」
その言葉に、レオンの表情が一瞬だけ歪む。
言い返そうとして、できなかった。
「黙ってないで。何か、言いなさいよ」
責めるというより、突きつけるような声音だった。
「……イリス」
そこでファウストが、静かに割って入る。
「レオンは、俺が“世界を滅ぼす未来”を予知したらしい。
警戒するのは……当たり前だろ」
感情を交えない、淡々とした口調。
だがその言葉はイリスの逆鱗に、真っ直ぐ触れた。
「……はぁぁあ!?」
一気に声の温度が跳ね上がる。
「ファウストが、世界を滅ぼす? 何バカなこと言ってんのよ!」
イリスは一歩、前に出た。
「それにね。予知があろうがなかろうが、今回の件とは別の話でしょ?」
じわりと、威圧するような魔力が、彼女の足元から滲み出す。
イリスの魔力を直に浴びるレオンは息苦しそうに喉を鳴らし、顔を歪める。
その空気を、断ち切るようにパンッ、と乾いた音が部屋に響いた。
「はい、そこまで」
ローザが、両手を打ち鳴らしていた。
「ファウスト。向こうで保護した“魔法を操る子供”……私に見せてちょうだい」
「あ……あぁ」
即座に応じたファウストの声には、自然と従う色が混じっていた。
「それと、イリス」
ローザは視線だけを向ける。
「あなた、魔王でしょう。感情に任せて動くなんて……今さら、することじゃないわ」
「っ――」
「私、昔から……あなたに、何度も言ってきたわよね?」
その言葉と同時にローザの足元から、ひやりとした冷気が静かに広がった。
床に霜が降り、白い模様を描くように凍りついていく。
冷気は意思を持つかのようにイリスへと伸び、足元から絡みつき、脚、腕へと薄く霜を落としていった。
魔王であるイリスですら、思わず肩を震わせる。
「……少しは、冷静になったかしら?」
「っ……分かってるわよ」
イリスは視線を逸らし、短く吐き捨てるように答える。
「なら、いいわ」
ローザはそれ以上の追及はしなかった。
霜から解放されたイリスはそのまま背を向け、自分の部屋へと歩き去った。
ローザが、いつものようにニコリと微笑む。
すると先ほどまで張りつめていた冷気は、嘘のようにすっと消え去った。
あのイリスを、言葉と気配だけで制する存在。
ファウストの胸に、ひとつの疑念が浮かぶ。
――ローザとは、一体何者なのか。
そんな空気の中、ローザは何も言わずリーナとレオンをそっと抱き寄せると、そのまま扉魔法を発動させた。
「今日は、私の店で子供たちを預かるわ」
「あぁ……頼む」
ファウストはそう言うと、自分の影へと手を差し入れた。
影がゆらりと歪み、その中から黒い棺が静かに姿を現す。
魔法を操る子供を収めたそれを、ファウストは迷いなくローザの影へ沈めた。
まるで、預け先が決まっている荷物を渡すかのような、手慣れた動作だった。
「また明日、子供たちを連れて来るわ」
「分かった」
ローザは扉へ向かい、子供たちを促す。
だが、扉を潜る直前ふと足を止め振り返った。
「……イリスのこと、よろしくね」
先ほどまでの冷静さとは違ってい、少しだけ柔らかい声だった。
「だいぶ……動揺してたから」
「……分かってる」
「……頼むわよ」
念押しするように言い残し、ローザは子供たちと共に、扉の向こうへと姿を消した。
静まり返った部屋で、ファウストは燭台を手に取り、イリスの部屋へ向かった。
扉の前に立つと、中からこれ以上近づくな、と拒むような気配が伝わってくる。
「……イリス」
扉は叩かず、声だけを投げる。
しばらくして、ギギギィ……と重たい音を立て、扉がゆっくりと開いた。
「入るぞ」
返事はなかったが、ファウストは一歩ずつ、慎重に部屋の中へ進む。
部屋の中央。
ベッドの上で、ブランケットを深く被り、身を縮める影があった。
ファウストはベッドの縁に腰を下ろし、低く呼びかける。
「……イリス」
「入れなんて、言ってない」
返ってきたのは、拗ねたような不貞腐れた声だった。
「今日は……その、悪かった。心配かけた」
ゆっくりと、ブランケットがずれる。
イリスが顔を覗かせ、真っ直ぐにファウストを見つめた。
「……死んじゃったかと思った」
ぽつり、と零れるような声。
イリスはそっと腕を伸ばし、今はもう傷一つないファウストの胸に手を当てる。
「本当に、死んじゃったと思った。すごく……怖かった」
触れた手は、かすかに震えていた。
「私は……ファウストを失いたくないの。もう……あんな思い、したくない」
「あぁ」
「お願い、ファウスト。私より……先に死なないで」
「……約束する」
その言葉に安心したのか、イリスの体からふっと力が抜け、ファウストの胸に身を預けるようにもたれ、そのまま静かに眠りに落ちた。
「……ったく、風呂くらい入れよ」
苦笑まじりに小さく呟き、ファウストはイリスの体をそっと抱き上げ、ベッドへ横たえた。
乱れたブランケットを、肩までかけ直す。
眠る顔は、先ほどまで必死に強がっていたのが嘘のようだった。
立ち上がろうとしたその時、イリスの手がファウストの服の裾を、ぎゅっと掴んだ。
「……仕方ねぇな」
ファウストは再び腰を下ろし、眠るイリスの傍らに静かに座った。
戦場では決して見せない、やわらかな表情で、ただイリスの寝顔を見守り続けた。




