エピソード 39
「ヘレナ……なんで、ここに?」
「やっと、見つけました……!」
その声には、怒りと心配、そして安堵が入り混じっていた。
ヘレナは騎士たちの制止を振り切り、人々の波をかき分けながら、ファウストへと距離を詰めていく。
「会いたかった……」
ファウストの顔を見たヘレナは、どこか懐かしむように頬を緩める。
だが、視界に映るファウストの背に隠れる魔人の子供たちと、ただならぬ雰囲気を放つ扉を交互に見つめ、ヘレナは緩んだ頬を一瞬強ばらせた。
「っ……本当に、魔界にいたんですね……」
言葉を詰まらせるヘレナに、冷たい声で突き放すように、ファウストは言葉を投げつける。
「……王都騎士団長が、こんな場所で何をしているんだ」
「あなたが現れたと、部下から報告が入って……」
急いで駆けつけたのか、ヘレナは少し息を切らしていた。
「私、今日は非番だったんですよ? 久しぶりの休みだったので、ゆっくりしようと思っていたのに……」
不貞腐れながらも、ヘレナは小さく息を整える。
つい先程まで、のんびりとした時間を過ごしていたのだろう。
鎧や武器など一切身につけておらず、王国騎士団長とは思えないほどの身軽さだった。
「だから、今の私は、ただのヘレナとしてここにいます」
「…………」
ファウストは静かに黙っている。
そんなファウストに、ヘレナはためらいながら声をかける。
「もう……戻ってくるつもりは、ないんですか?」
「あぁ」
ヘレナの必死の訴えに、ファウストは短く冷たく答えた。
「そう……ですよね」
ファウストの答えを聞いたヘレナは小さな手を固く握りしめる。
その拳からは、深い後悔の念が滲んでいた。
「この国が、あなたにしたことを考えれば……当然です。でも、私たちには、どうしてもあなたが必要なのです!」
ヘレナは大きな瞳に涙をたたえ、真っ直ぐにファウストを見つめる。
「お願い、帰ってきてください……ファウスト」
「俺は――――」
言葉を絞り出そうとしたその瞬間、闘技場内から、全てを飲み込むかのような漆黒の煙が立ち上った。
「な、なんだ……アレはっ!」
闘技場内の騒ぎに続いて起きた異変に、人々は一斉に顔を上げ、立ちのぼる煙へと視線を向けた。
次の瞬間、あちこちから悲鳴が上がる。
煙はあまりにも速く、あまりにも不自然だった。
風に流されることもなく、意思を持つかのように広がり、瞬く間に闘技場全体を覆い尽くす。
そしてそのまま、ゆっくりと、しかし確実に街全体を包み込もうとしていた。
「なんだ、あの煙は……」
それが自然に発生したものではないことは、誰の目にも明らかだった。
すると、煙を見つめるファウストの顎を、タラリと鼻血が伝った。
「っ――なんで、鼻血が……」
チリチリと刺さるような微弱な魔力を、煙から感じ取る。
ファウストは即座に双子とヘレナを背中に庇った。
どす黒い気配を孕んだ煙は、宙を這うように漂いながら、落ち着きなく形を変えていた。
まるで目に見えぬ何かを探しているかのように、ゆっくりと、執拗に。
「っ、俺の後ろに隠れてろ!」
やがて煙の動きが、ふっと止まる。
一瞬の静寂。
次の瞬間、煙がぬらりと歪み、見つけた“それ”を確かめるように、粘つくような動きを見せた。
見つけた。
そう告げるかのように、煙は一点へと収束し、獲物を見据えるように軌道を整えると、鋭くファウストたちへと襲いかかった。
「っ――伏せろっ!」
ファウストは、咄嗟に防御魔法を展開し、ヘレナと双子を囲む。
「救世主の復讐っ!」
ファウストの手のひらから迸った半透明の光が、瞬く間に盾のように展開し、彼らの身体を覆い隠した。
「な、なんですか! あの煙はっ!」
「っ、伏せろって言っただろ!」
ファウストは背中から顔を覗かせたヘレナを、強く抱き寄せた。
「お前たちも、絶対にこの防御魔法からは出るなっ!」
「っ、ファウストさんっ!」
「大丈夫だ、俺に掴まってろ!」
震えるリーナや少年も、ファウストにしっかりと抱きかかえられる。
黒い煙は防御魔法を覆い、視界を一気に暗く染めた。
ピシッ、パシッ――
防御魔法に亀裂が走る。
「っ、クソッ……」
亀裂はみるみるうちに枝分かれし、蜘蛛の巣状に広がっていく。
そしてパリンッ、と乾いた音が響いた瞬間、防御膜は粉々に砕け散った。
次の刹那、呼吸すら奪い去るほどの濃密な魔力が、爆風のようにファウストたちへ襲いかかってきた。
「っ、グッ――」
魔力の奔流に押し潰される寸前、ファウストは反射的に魔法を放とうとした。
だが、魔法が、発動しない。
まるで何者かに魔力の源そのものを掴まれたように、魔力の反応が途絶えた。
「っ、魔法がっ――使えない?」
その一言が、誰よりもファウスト自身の血の気を奪った。
「なっ、どっ……どうしてっ」
ギチ――
眼窩の奥で嫌な音がした。
次の瞬間、視界が赤黒く滲み、耐えきれずに膝が落ちる。
目尻から、血が溢れた。
涙ではない。
抑えようとしても止まらず、赤い筋が頬を伝って滴り落ちる。
「なんだよっ……これ」
呼吸をするたび、頭蓋の内側が軋み、視界が内側から崩れていく。
双子やヘレナへ視線を向けると、影響を受けているのはファウストだけのようだった。
彼らは苦しむ様子もなく、ただ困惑した表情でファウストを見つめている。
――魔法が使えないのも、出血も……全て、この煙の影響なのか?
「狙いは俺か……」
まるでこの煙の発する魔力が、最初からファウストひとりを狙い撃ったかのようだ。
すると、リーナの兄と視線がぶつかった。
「名前は!?」
「レ、レオン……」
レオンの魔力反応は弱々しかった。
だが、それでもこの状況を打開できる可能性が、まだ消えたわけじゃない。
「魔法は使えるかっ!」
「す、少しなら……」
「……今から、レオン。お前に俺の魔力を、ほんの少しだけ分ける」
「は、え?」
強硬手段だ。
だが、他に選択肢は残されていなかった。
迷っている暇はない。
ファウストは一歩踏み込み、レオンの肩を強く掴んだ。
「は、えっ!? な、なんで俺が、お前の魔力なんかをっ!」
「いいから聞け!」
低く、鋭い声が、レオンの言葉を断ち切る。
「俺は今、魔法を使えない。リーナを魔界へ帰せるのは、お前しかいない。言ってる意味、分かるよな?」
「っ……」
その一言で、レオンの表情から動揺が消えた。
代わりに宿ったのは、兄としての覚悟だった。
「俺の血には……イリス、魔王の血が流れている。分けるのは本当に少しだけだが、魔力量の差で、体には激痛が走るはずだ」
レオンの肩が、僅かに震える。
怖くないわけがなかった。
それでも、レオンは視線を逸らさず、ファウストを真っすぐに見つめ返す。
「ほ、本当に……リーナを、魔界に帰せるんだな?」
「約束する」
「……分かった。リーナのためなら……俺は、なんでもする」
覚悟を決めたレオンは、唇を引き結び、力強く頷いた。
「いいか。血を飲んだら、俺と同じ言葉を繰り返せ。それで、魔法が発動する」
「……わかった」
ファウストはそれ以上の説明をせず、躊躇なく腕に浅い切り傷を入れた。
赤い血が、じわりと滲み出す。
ファウストはその腕を、静かにレオンの前へ差し出す。
「準備はいいか?」
「……大丈夫」
「いくぞ」
その合図と同時に、レオンは一歩踏み出した。
震える呼吸を押し殺し、ファウストの傷口へそっと、舌を這わせる。
――ゴクリ。
喉が鳴る、小さな音。
ファウストの血を飲み込んだ、その瞬間レオンの体が、びくりと跳ねた。
異質な魔力。
自分のものではない力に対する、明確な拒否反応だった。




