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天魔の血脈  作者: 黒ひげの猫
王都断罪編 ①
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エピソード 3

 アドルフの用件が済み、再び暗闇に一人取り残されたファウストだったが、なぜか心がスッと軽くなっていた。


「ハハハッ――」


 勝手に笑みがこぼれ、強張っていた体から、ゆるゆると力が抜けていった。


「プッ! ――アハハハッ! ハハハッ!」


 乾いた笑いから徐々に声を荒らげ、瞳にうっすらと涙が滲むまで、その笑いはしばらくの間続いた。

 一頻り笑ったあと、ファウストはやせ細った自分の体を見つめた。


「……あー。やっと……死ねる。本当に、クソみたいな時間だったな」


 幼くして両親を失ったファウストとリュドミラを待ち受けていた現実は、あまりにも過酷なものだった。

 ファウストにとって、リュドミラは唯一の家族であり、たった一人の心の支えだった。

 双子としてこの世界に生を受け、苦しみも飢えも、全てを分かち合ってきた。

 あの地獄のような日々の中で、リュドミラの存在がなければ、きっと自分はとっくに心が折れていただろう。

 魔物や魔人の脅威に怯えながら、食べ物も、安全な暮らしも、何もかもが保証されない日々。

 生き延びることだけで精一杯の状況の中、他の大人の力を借りる事もできずに過ごした日々は、あまりにも凄惨だった。

 間違った選択を繰り返し、大人達に都合よく扱われ続けた末に、ファウストは今こうして「大罪人」という役を背負わされ、アブソリュート監獄に幽閉されている。

 そんな日々からようやく解放されるのだから、ファウストの口元が緩むのも、当然の事だった。

 ただ、一つだけ心残りがあるとすれば、リュドミラとの別れだった。


「リュドミラ……。アイツの花嫁姿、見たかったな」


 同じ日、同じ時間に生まれ、同じ苦しみを分かち合い、互いを支えながら生き抜いてきた二人。

 ファウストにとって、リュドミラはまるで自分の半身のような、かけがえのない存在だった。

 そんな二人が離れ離れになって、すでに数年もの時が流れていた。

 今頃きっと、素敵な大人の女性になっているのだろう――。

 そう思いながら、ファウストは静かに瞳を閉じ、リュドミラに想いを馳せた。

 そのとき――。

 カタカタと、小さな何かの足音が響いた。

 この場所で、自分以外の気配を感じたのは初めてだった。

 耳を澄ませると、その足音は迷うことなく、まっすぐファウストに向かって近づいてきて……ピタリと、動きを止めた。


 チュッ――


「なんともまぁ、分かりやすい鳴き声だな」


 ファウストは思わずくすりと笑い、近づいてきた“ソレ”に向かって声をかけた。


「こんな所にネズミがいるなんて、珍しいな。……ここにはお前の食い物なんて、何もないぞ」


 足音の聞こえた方へと手を伸ばすと――。


 チュチュッ――


 ネズミは、ファウストの声に応えるかのように鳴き声を上げ、鼻をひくひくと動かしながら、ファウストの匂いを辿る。

 そして、ネズミの鼻先がファウストの手のひらに触れたその瞬間――。


 パチッ――。


 小さな衝撃が、ファウストの体に走った。

 

〈やっと見つけた! こんな所にいたのね!〉


 その衝撃と共に、暗闇に澄んだ女性の声が響いた。


「…………は? え?」


 突然の声に、ファウストは短く声を漏らし、珍しく動揺を見せる。

 だが、そんなファウストをよそに、女性の声は続けざまに語りかけてきた。


〈私はイリス・イェルムヴァレーン! ずっとアンタのことを探してたのよ! ファウスト・ライウス!〉


 凛とした声が、再び暗闇の中に鮮やかに響き渡る。


「探して……? どうして俺の名前を……」


 ファウストは慎重に周囲に意識を巡らせるが、この空間に感じられる気配は、自分自身と目の前のネズミだけだった。

 ふっと息を整え、ファウストは冷静さを取り戻す。

 頭の中で、今の状況を静かに整理し始めた。

 

 ――ここに三人目の気配なんて、存在しない。

 だがこのネズミからは、わずかに“魔”の気配が感じられる。

 これは魔法だ。

 魔法で操られたネズミを通じて、声を送り込んでいる――。


 そう判断した。

 導き出した結論を胸に、ファウストは姿を現さない“イリス”に向かって問いかける。


「……アンタ、魔族だな? 俺を探してたって、俺が誰か……本当に分かってるのか?」

 

 こんな人間離れした芸当ができるとなれば、思い当たる種族は――ただ一つしかなかった。


〈ま、私が魔族だってことくらい、気づいて当然よね。私が誰なのかなんて、今はどうでもいいわ。アンタが“大英雄ファウスト”だったとしても、私には関係ないの。“イリス”――その名前だけ、覚えておけばいいのよ〉


「……イリス?」


 強く主張されたその名を、ファウストが反射的に繰り返す。

 すると、どこか満足げな声が返ってきた。


〈そう、それが私の名前。ねえ、もう一度……私の名前を呼んで?〉


「……イ、イリス?」


 言われるままに名前を口にしながら、ファウストは眉間に皺を寄せ、怪訝な表情を浮かべた。

 

 ――何のつもりだ、こいつは。


〈ふふっ〉


 再び名前を呼ばれたイリスは、たまらず笑みをこぼす。

 その声には、嬉しさを隠しきれない感情が滲んでいた。


〈まだ……話したいこと、いっぱいあったんだけど……もう、魔法の効力が……切れかけてる、みたい……〉


 その瞬間から、はっきりと響いていたイリスの声が、次第に途切れがちになっていく。

 言葉の合間に、ジジ……ジジジ……という雑音が混ざりはじめ、声そのものが揺らぎ始めた。


「ま、待てよ! 俺を探してたって、どういう意味だ!」

 

 イリスの言っていた通り、魔法の効力が切れかけているのだろう。

 その声は徐々に、弱々しくなっていった。

 魔法が完全に途切れる前にと、ファウストは気になっていたことを急いで問いかける。

 だが、その問いに返答が返ってくることはなかった。


〈……ファウスト。絶対に、アンタを死なせないわ〉


 それだけが、はっきりとした意思を持って耳に届いた。

 そして――


 プツッ。


 という小さな音を最後に、イリスの声は完全に途切れた。


 チュチュッ――


 それと同時に、イリスの魔法で操られていたネズミが自我を取り戻したのか、ファウストの前から足音を響かせて離れていく。


「……俺を、死なせない……か」


 イリスの残したその言葉が、胸の奥に重く残る。

 ファウストは再び、自らの肉が削げ落ちた痩せ細った身体に目を落とした。


「今さら生き延びたところで……失ったものが多すぎる」


 低く、乾いた声で呟く

 これ以上、生きて何になるというのか。

 もはや、救いも、帰る場所も、誰かの手すら、自分には届かない。

 生き延びたところで、何一つ報われることなどないと、とうに理解していた。


「……もう、いいんだよ」


 誰にともなく呟いたその声は、まるで自分に言い聞かせるような響きを持っていた。

 そしてそのまま、ファウストは再び目を閉じ、闇の中でただ終焉の足音だけを待ち続けた。

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