表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天魔の血脈  作者: 黒ひげの猫
王都断罪編 ①
38/44

エピソード 37

 炎が消えたあとには、湿った空気と焦げた匂いだけが残っていた。

 さっきまで取り乱し、我先にと逃げ惑っていた観衆たちは、まるで悪夢から醒めたかのようにその場に立ち尽くしている。

 闘技場の入口へ避難していた参加者たちも、ひとり、またひとりと恐る恐る会場へ戻ってきた。

 まだ警戒の色を残しながらも、消え去った炎の跡を見渡し、少しずつ息を吐き始める。


「……雨、か」


 誰かがぽつりと呟いた。

 空を見上げる者、肩に触れた冷たい雨粒をそっと指先で確かめる者。


「火が……本当に消えてる」


「俺たち……助かった、のか?」


 その一言が、押し殺していた感情に形を与えた。

 張りつめていた空気がわずかに緩み、胸の奥で固まっていた恐怖がほどけていく。

 誰かが泣き笑いして肩を落とし、誰かが深く息を吐いてその場にへたり込む。

 静かな雨音に混じって、ほっとした吐息があちこちから漏れた。

 じわりと、安堵の温度が会場全体へ広がっていく。

 そして、会場の中央に立つファウストへと、自然と視線が吸い寄せられていく。

 誰も声を上げない。

 畏れとも安堵ともつかぬ沈黙だけが、ファウストを中心に波紋のように広がっていった。

 その中で、ファウストはゆっくりと剣を鞘へと戻す。

 

 カチャリ――


 金属が触れ合う小さな音が、静まり返った闘技場に、やけに大きく響いた。


「な、なぁっ……! アンタ……ファウストなんだろっ!」


 張りつめた空気を裂くように、誰かが叫ぶ。

 震えた声には、まだ消えきらない恐怖が残っていた。


「俺たちのことを……助けてくれたのか!?」


 問いかけるより先に、乱れた呼吸が漏れた。

 恐怖はまだ身体に残っている。

 だが同時に、助かったという安堵も、胸の奥で確かに脈打っていた。

 相反する感情が絡み合い、声はかすかに震える。

 観衆の視線が、一斉にファウストへと縋るように向けられた。

 助けてほしい。

 信じたい。

 それでも、裏切られた痛みは、まだ完全には消えていなかった。


「アンタが……俺たちを裏切って……魔族と繋がってたのは……本当なのか……!?」


 今度の声には、怒りも憎しみもなかった。

 あるのはただ、壊れ物に触れるような、かすかな希望だけだった。


 ――信じていい理由を、どうかくれ。


 そんな願いが、震える叫びに滲んでいる。

 闘技場は水を打ったように静まり返り、誰もが息を呑んだまま、安堵と安心、そして拭いきれない不安を胸に押し込める。

 そのすべてを抱えながら、ファウストの返答を待ち続けていた。

 

「最初に裏切ったのは…………この国だ」


 その声は、驚くほど小さかった。

 ただ、胸の奥に沈んでいた言葉が、自然にこぼれ落ちただけの声だった。

 だが、静まり返った闘技場では、その独白は否応なく響き、誰の耳にも届いてしまう。

 観衆は息を呑み、ざわめきが遅れて広がった。

 その言葉が何を意味するのか、確かめようと誰もが必死に推し量る。

 それでもファウストは、顔を上げなかった。

 濡れた金髪が額に張り付き、影に沈んだ瞳は、ただ地面の一点だけを静かに見つめている。

 そこにあったのは、怒りでも悲しみでもない。

 期待も、失望も、すべてを通り過ぎた末に残った何も映さない人間の目だった。

 冷たい雨が、無言のまま肩を濡らす。

 ファウストは短く、諦めきったように息を吐いた。


 ――もう、この場に用はない。


 居場所も、大切な人も、すべてを奪われたこの地に、心を寄せる理由など、ひとつも残っていなかった。

 観衆のざわめきを遠くに感じながら、ファウストはただ、淡々とそう告げた。

 

「……イリス。子供を確保した」

 

 雨に濡れた前髪を、ただ邪魔だからと無造作にかき上げ、ファウストは魔法を通じてイリスへ報告を送った。


『…………何か、他に言わなくていいの? せっかく――』


「もう……必要ない」


 イリスの問いかけを遮るように返したその声は、感情の起伏が削ぎ落とされ淡々としていた。


『……そ。分かった。なら、もういい』


 通信の向こうで、小さな吐息が落ちる。

 

『じゃ、あとは双子の回収をお願い。終わったら……また、呼んで』


「わかった」


 短い返答を終えると、ファウストはゆっくりと顔を上げた。

 その視線の先にいるのは、今回の騒動の元凶アドルフとヒンツ。

 パチリ、と視線が重なる。

 ファウストの目に映る彼らは、もはや“人間”として扱う対象ですらない。

 ただ、遠く隔てられた別種の生物を見ているかのような、

 決して埋まることのない絶対的な断絶だけが、そこにあった。

 その距離感を保ったまま、ファウストは、かすかに息を吐いた。

 

「……こんな実験。まだ続けていたのか」


 知っていた事実を淡々と再確認するだけの乾いた、冷え切った声だった。

 

「……ゲート闘技場入口」


 短く、低く落とされた指示。

 その一言だけで、空気が軋むように震えた。

 息が詰まるほどの圧が、場を覆い尽くす。

 闘技場の中央。

 ファウストの足元に、濃い影が滲み出し、黒い縁を描きながらゆっくりと広がっていく。


 ゆらり――。


 深い水面が揺れて形を成すように、影は歪み、やがて闇に縁取られた“門”となって口を開いた。

 それが“人間”に許された道ではないことを、誰もが理屈ではなく、本能で悟っていた。

 

「ま……また、俺たちを見捨てるのか!?」


 震えた声が、闘技場のどこかから響いた。

 怒鳴り声ではなかった。

 怒りでも恨みでもない。


 ――ただ、助けてほしかった。


 頼れるものを失った人間が、最後に縋ろうとした叫びだった。


「頼むよ……! アンタ、俺たちを助けてくれよっ! アンタは……英雄だろっ……!」


 助けを求める声が次々と重なり、空気が震えた。

 恐怖に滲んだ声も、涙に濡れた声も、誰もが同じ願いを抱いていた。

 もう一度、救ってほしい。

 あの日のように、手を伸ばしてほしい。


「………………」


 だがファウストは、そのどれにも反応を示さなかった。

 振り返らない。

 言葉も返さない。

 迷いすらなかった。

 ただ静かに、淡々と、門へ向かって歩き出す。

 その歩みには、後悔も逡巡も一切ない。

 まるで、ここに別れを告げることなど、最初から決まっていたかのように。

 ファウストは門の中へ足を踏み入れた。

 深い闇が波打ち、彼の身体を優しく、しかし確実に飲み込んでいく。

 その姿は、闇に溶けるように消えていった。

 門はゆっくりと閉じ、黒い影だけが残る。

 そして次の瞬間、その影さえ跡形もなく消え去った。

 もう、手の届かない存在になってしまったかのように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ