エピソード 37
炎が消えたあとには、湿った空気と焦げた匂いだけが残っていた。
さっきまで取り乱し、我先にと逃げ惑っていた観衆たちは、まるで悪夢から醒めたかのようにその場に立ち尽くしている。
闘技場の入口へ避難していた参加者たちも、ひとり、またひとりと恐る恐る会場へ戻ってきた。
まだ警戒の色を残しながらも、消え去った炎の跡を見渡し、少しずつ息を吐き始める。
「……雨、か」
誰かがぽつりと呟いた。
空を見上げる者、肩に触れた冷たい雨粒をそっと指先で確かめる者。
「火が……本当に消えてる」
「俺たち……助かった、のか?」
その一言が、押し殺していた感情に形を与えた。
張りつめていた空気がわずかに緩み、胸の奥で固まっていた恐怖がほどけていく。
誰かが泣き笑いして肩を落とし、誰かが深く息を吐いてその場にへたり込む。
静かな雨音に混じって、ほっとした吐息があちこちから漏れた。
じわりと、安堵の温度が会場全体へ広がっていく。
そして、会場の中央に立つファウストへと、自然と視線が吸い寄せられていく。
誰も声を上げない。
畏れとも安堵ともつかぬ沈黙だけが、ファウストを中心に波紋のように広がっていった。
その中で、ファウストはゆっくりと剣を鞘へと戻す。
カチャリ――
金属が触れ合う小さな音が、静まり返った闘技場に、やけに大きく響いた。
「な、なぁっ……! アンタ……ファウストなんだろっ!」
張りつめた空気を裂くように、誰かが叫ぶ。
震えた声には、まだ消えきらない恐怖が残っていた。
「俺たちのことを……助けてくれたのか!?」
問いかけるより先に、乱れた呼吸が漏れた。
恐怖はまだ身体に残っている。
だが同時に、助かったという安堵も、胸の奥で確かに脈打っていた。
相反する感情が絡み合い、声はかすかに震える。
観衆の視線が、一斉にファウストへと縋るように向けられた。
助けてほしい。
信じたい。
それでも、裏切られた痛みは、まだ完全には消えていなかった。
「アンタが……俺たちを裏切って……魔族と繋がってたのは……本当なのか……!?」
今度の声には、怒りも憎しみもなかった。
あるのはただ、壊れ物に触れるような、かすかな希望だけだった。
――信じていい理由を、どうかくれ。
そんな願いが、震える叫びに滲んでいる。
闘技場は水を打ったように静まり返り、誰もが息を呑んだまま、安堵と安心、そして拭いきれない不安を胸に押し込める。
そのすべてを抱えながら、ファウストの返答を待ち続けていた。
「最初に裏切ったのは…………この国だ」
その声は、驚くほど小さかった。
ただ、胸の奥に沈んでいた言葉が、自然にこぼれ落ちただけの声だった。
だが、静まり返った闘技場では、その独白は否応なく響き、誰の耳にも届いてしまう。
観衆は息を呑み、ざわめきが遅れて広がった。
その言葉が何を意味するのか、確かめようと誰もが必死に推し量る。
それでもファウストは、顔を上げなかった。
濡れた金髪が額に張り付き、影に沈んだ瞳は、ただ地面の一点だけを静かに見つめている。
そこにあったのは、怒りでも悲しみでもない。
期待も、失望も、すべてを通り過ぎた末に残った何も映さない人間の目だった。
冷たい雨が、無言のまま肩を濡らす。
ファウストは短く、諦めきったように息を吐いた。
――もう、この場に用はない。
居場所も、大切な人も、すべてを奪われたこの地に、心を寄せる理由など、ひとつも残っていなかった。
観衆のざわめきを遠くに感じながら、ファウストはただ、淡々とそう告げた。
「……イリス。子供を確保した」
雨に濡れた前髪を、ただ邪魔だからと無造作にかき上げ、ファウストは魔法を通じてイリスへ報告を送った。
『…………何か、他に言わなくていいの? せっかく――』
「もう……必要ない」
イリスの問いかけを遮るように返したその声は、感情の起伏が削ぎ落とされ淡々としていた。
『……そ。分かった。なら、もういい』
通信の向こうで、小さな吐息が落ちる。
『じゃ、あとは双子の回収をお願い。終わったら……また、呼んで』
「わかった」
短い返答を終えると、ファウストはゆっくりと顔を上げた。
その視線の先にいるのは、今回の騒動の元凶アドルフとヒンツ。
パチリ、と視線が重なる。
ファウストの目に映る彼らは、もはや“人間”として扱う対象ですらない。
ただ、遠く隔てられた別種の生物を見ているかのような、
決して埋まることのない絶対的な断絶だけが、そこにあった。
その距離感を保ったまま、ファウストは、かすかに息を吐いた。
「……こんな実験。まだ続けていたのか」
知っていた事実を淡々と再確認するだけの乾いた、冷え切った声だった。
「……扉闘技場入口」
短く、低く落とされた指示。
その一言だけで、空気が軋むように震えた。
息が詰まるほどの圧が、場を覆い尽くす。
闘技場の中央。
ファウストの足元に、濃い影が滲み出し、黒い縁を描きながらゆっくりと広がっていく。
ゆらり――。
深い水面が揺れて形を成すように、影は歪み、やがて闇に縁取られた“門”となって口を開いた。
それが“人間”に許された道ではないことを、誰もが理屈ではなく、本能で悟っていた。
「ま……また、俺たちを見捨てるのか!?」
震えた声が、闘技場のどこかから響いた。
怒鳴り声ではなかった。
怒りでも恨みでもない。
――ただ、助けてほしかった。
頼れるものを失った人間が、最後に縋ろうとした叫びだった。
「頼むよ……! アンタ、俺たちを助けてくれよっ! アンタは……英雄だろっ……!」
助けを求める声が次々と重なり、空気が震えた。
恐怖に滲んだ声も、涙に濡れた声も、誰もが同じ願いを抱いていた。
もう一度、救ってほしい。
あの日のように、手を伸ばしてほしい。
「………………」
だがファウストは、そのどれにも反応を示さなかった。
振り返らない。
言葉も返さない。
迷いすらなかった。
ただ静かに、淡々と、門へ向かって歩き出す。
その歩みには、後悔も逡巡も一切ない。
まるで、ここに別れを告げることなど、最初から決まっていたかのように。
ファウストは門の中へ足を踏み入れた。
深い闇が波打ち、彼の身体を優しく、しかし確実に飲み込んでいく。
その姿は、闇に溶けるように消えていった。
門はゆっくりと閉じ、黒い影だけが残る。
そして次の瞬間、その影さえ跡形もなく消え去った。
もう、手の届かない存在になってしまったかのように。




