エピソード 36
『ちょっと! 魔法使わなかったんじゃなかったの?』
炎を操る少年を前に、イリスの声が怒気を帯びて響いた。
「しょうがないだろ。ここまで被害が広がるなんて思わなかったんだよ」
熱風が頬を打つ。
見渡せば、そこかしこで火の粉が舞い上がり負傷者が次々と増えていく。
焦げた臭いと悲鳴が入り混ざり、地獄のような光景が広がっていた。
『――勝算は?』
「……五分だな」
いくら正体がバレたからといって、開き直って魔法を使える状況でもない。
これ以上派手に暴れれば、民間人を巻き込むだけ。
それが分かっているからこそ、ファウストの足が止まっていた。
『なに馬鹿な事言ってんのよ!』
イリスの声が頭の中で弾ける。
焦りと苛立ちが入り混じったその響きに、ファウストは眉をひそめた。
「とにかく、間合いさえ詰めれば何とかなるだろ」
再び剣を構えるファウスト。
その後ろ姿を見ていた参加者の一人が、恐怖に満ちた声を上げる。
「な、なんなんだよっ! どうなってんだよこれッ! こんな事になるなら参加するんじゃなかった! あんな化け物……人間な訳がないだろ!」
その参加者は爆撃に巻き込まれたのか、肩から胸にかけて深い火傷を負っていた。
焼け爛れた皮膚の隙間から、赤黒い血がドクドクと溢れ出していく。
「こんな所で……死にたくねぇ……」
掠れた声が、燃え落ちる瓦礫の音にかき消された。
ファウストは一瞬だけ剣を下ろし、参加者の傍らに膝をついた。
「な、何すんだよ! 近寄るんじゃねぇっ!」
参加者は息を荒げ、怯えた目でファウストを見上げた。
近くに落ちていた瓦礫を掴み取る。
「来るんじゃねぇっ! 裏切り者がっ!」
叫びと同時に、瓦礫がファウストトの胸元へと投げつけられた。
鈍い音が響き、ファウストは無言のままそれを受け止める。
「大丈夫だ。アンタはこんな所で死なない」
ファウストは参加者の火傷に手を翳す。
「――熾天使の鐘の音」
指先から淡い光が零れ、焦げた皮膚を包み込む。
鈴のような音色が、どこからともなく響いた。
その瞬間、光が波紋のように広がり、赤黒く爛れた肌が少しずつ再生していく。
「き、傷が……治ってく」
参加者は呆然と、自らの肌を見つめた。
焦げた肉が再生し、血が止まり、痛みが静かに消えていく。
「……アンタは、こんなところで死なない。死にたくないなら、動け。逃げ道は、もうここしか残っていない。――少しでも多くの命を、救ってくれ」
「――アンタのこと、もう一度……信じてもいいのか!?」
その声に、ファウストの足がわずかに止まる。
炎の向こうで、希望と恐怖が入り混じった瞳がファウストを見つめていた。
「勝手にしろ」
短く吐き捨て、ファウストは剣を構える。
「っ、ここだ! 立てるヤツはここに避難しろっ!」
怒号にも似た声が響く。
参加者の叫びに応じ、まだ動ける者たちが次々と駆け寄ってきた。
炎と煙の中、その声だけが指針のように届く。
「急げ! 後方の瓦礫を越えれば安全圏だ――!」
その瞬間、再び爆風が巻き起こった。
熱風が肌を焼き、砂塵が視界を奪う。
赤熱した刃先が閃き、ファウストの金の髪が風に靡いた。
それでもファウストは一歩も引かない。
ただ、灼けるような空気の中で静かに剣を構える。
「さ、そろそろ大人しくしてもらおうか……」
ファウストは、少年との間合いを測る。
熱風が吹き抜ける中、地面を蹴る前の一瞬、息を呑む静寂。
そして、脚に力を込めた。
ドンッと爆ぜるような音とともに、ファウストの身体が前へと弾ける。
瞬く間に距離を詰め、紅蓮の炎がファウストの視界いっぱいに広がる。
「……ッ…………」
少年は無言で再び、炎の奔流を放つ。
咆哮のような熱波が一直線にファウストを飲み込もうと迫る。
だが、ファウストは止まらなかった。
駆け抜けながらファウストは詠唱を紡ぐ。
「光を拒み、音を呑み、命の形すら許さぬ深淵よ。その飢えを満たし、いま眼前の全てを喰らい尽くせ――」
詠唱を終えたその瞬間、ファウストの足元で、巨大な“影”がゆらりと脈打つように揺れた。
まるで地面の下で何かが目覚めたかのように、黒が静かに、波紋のように広がっていく。
ファウストは走り抜けながら剣を逆手に構え、地面を深く削り裂いた。
ザンッッ――
すると、削られた地の裂け目から噴き出すように、巨大な“影”が暴力的に立ち上がった。
黒くねじれた肉と水のように流動する闇がぐちゃりと音を立てて絡み合い、形の定まらぬ巨大な獣が、地を裂きながら姿を現した。
まるで全ての光も熱を喰らうことを欲しているかのように、こちらを見据えている。
「深淵の暴食」
ファウストの斬撃に呼応するかのように、影の獣の大口がぐわりと裂け開いた。
次の瞬間、炎の壁が抵抗する間もなく、その闇へと丸ごと引きずり込まれる。
ゴォォォオオオ……ッ!
轟音と共に、灼熱の炎が渦を巻きながら吸い寄せられ、光も、熱も、燃え盛る音すらも、深淵の中へと呑み込まれていく。
そして、闘技場に残ったのは、耳鳴りのような静寂だけだった。
数秒前まで目の前を埋め尽くしていた炎は、まるで最初から存在しなかったかのように、忽然と消え去っている。
その異様な光景を前に、誰ひとり、言葉を発することができなかった。
「なっ……なんだ、あれは――!」
地面から現れていた影の巨体は、満たされぬ飢えを名残惜しそうに蠢かせながら、裂け目の奥へと沈んでいく。
その場に残ったのは、世界そのものが一口喰われたかのような、重苦しい静寂だけだった。
「もう、終わりにしよう」
少年が後ずさる。
その目に映るのは、確かな“恐怖”。
ファウストは静かに剣を構え直し、奥歯をかみ締めた。
少年を映す瞳の奥には、冷たい怒りが宿っていた。
「こんな小さい子供を闘いの武器にするなんて、アイツ等はどこまで腐ってんだ……」
短く息を吐き、ファウストは目を細める。
握る剣に力がこもる。
「……辛かったよな。もう大丈夫だから」
ファウストはゆっくりと歩み寄ると、少年の足元に伸びる影を見据えた。
「少しだけ、眠っててもらう」
そう呟くと、剣を逆手に持ち替え少年の小さな影へと突き立てる。
「地に落ちるものは、すべて闇の従者。我が声に応じ、この反逆者を拘束せよ。闇の棺よ、閉じ、沈め、奪え――反逆者の棺桶」
刃が影を貫いた瞬間、空気が震えた。
黒い波紋が地面を這い、影がまるで生き物のように脈打ち始める。
次の刹那、影の中から無数の手が伸び出した。
「子供を、拘束しろ」
それは血肉を持たぬ闇の腕。
呻き声のような風音とともに、少年の足を掴み取る。
すると睡魔に襲われたかのように、少年の瞳はゆっくりと閉じていった。
意識を失った身体を縛るように影が絡みついていく。
やがて影は、黒い棺のような形を成し、少年の小さな身体を、静かに包み込んだ。
「……絶対、助けてやるから」
ファウストの低い声が、燃え残る炎の中に溶けていった。
少年の身体を包んだ影は、ゆらりと揺らめきながらまるで安らぎを求めるように、ファウスト自身の影へと吸い込まれていく。
「降れ。――哀哭の天蓋」
曇天が揺らぎ遠くで雷鳴が小さく鳴り、次の瞬間、ぽつりと一滴の雨が落ちた。
やがて、それは無数の雫へと変わり、焦げた大地を静かに濡らしていく。
炎が次々と鎮まり、立ち込めていた煙が雨に溶けて消えていった。




