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天魔の血脈  作者: 黒ひげの猫
王都断罪編 ①
36/44

エピソード 35

 ――第千回記念試合の朝。

 王城。


 カチャリ、と。

 銀食器が触れ合う澄んだ音が、広い食堂の静けさを切り裂いた。

 そのほんのわずかな音でさえ、妙に重く響き、アドルフの喉がひくりと動く。


「アドルフ」


「はいっ――父上」


 長い卓を挟んだ先。

 王――ヒンツ・フォルスターの鋭い視線が、アドルフの胸を一突きにした。

 目が合った瞬間、アドルフの肩がビクリと跳ねる。

 ヒンツの眼差しは、獲物の弱点を瞬時に見抜く捕食者のそれだった。


「ファウストを失って数ヶ月……。まだ、代わりはできぬのか?」


 低い声は怒号ではない。

 それなのに、心臓を掴まれるような圧力があった。


「ファウストのように……自我を保てる適合者はまだ……。しかしっ、近しい個体なら、すでに完成しております」


「――自我を保てぬ者は、すべて失敗作だ」


 淡々と告げられたその言葉が、刃のように鋭くアドルフを切り裂く。


「も、申し訳ございません……!」


 アドルフは反射的に椅子から立ち上がりかけ、慌てて背筋を伸ばし直した。

 椅子の脚が床を擦る小さな音でさえ、許されない気がした。

 ヒンツの瞳は、氷より冷たい。

 呼吸一つにも怯えが走るほどの圧が、空間のすべてを支配していた。

 

「……“あの方”は、なんと仰っておられる?」


 その言葉を口にした瞬間、アドルフは無意識に背筋を更に伸ばしていた。


「“あの方”は、ただ……ファウストが“特別”なのだと」


「――そうか……」


 ヒンツの返答は短かった。

 だがその一語に、王には似つかわしくない感情。

 焦燥とも期待ともつかぬ揺らぎが、わずかに滲んだ。

 次の瞬間、空気がぐっと重く沈む。

 広い食堂の空気がまるで凍りつくかのように停滞し、壁に掛けられた銀器の装飾でさえ光を潜めた。

 “あの方”という存在を話題にしただけで、場そのものが息を殺す。


「――ファウストの所在は、いまだ掴めぬのか」


「は、はい……。魔界へ連れ去られてからしばらくして、契約の繋がりが――途絶えました。その後の行方は、いまだ……」


 アドルフの声は震えていた。

 ファウストを見失ったという事実が、どれほどの意味を持つのか。

 その恐怖が、言葉の端々に滲む。

 ヒンツは報告を聞いたあと、静かに息を吐いた。

 嘆きでも疲労でもない。

 怒りを必死に押しとどめる者だけが漏らす、深く重い呼吸。


「――何としてでも、ファウストを探し出せ」


「し、しかしっ……! ファウストは魔界に――!」


 アドルフの声が裏返る。

 しかしヒンツは、表情ひとつ変えなかった。

 ただ冷たく、重く、アドルフの言葉を押しつぶす。


「“あの方”が望んでいるのだ」


 ヒンツの声は低く、抗いようのない絶対の重さを持っていた。

 

「……お前にファウストを任せたのが、そもそもの間違いだった」


 ヒンツの声は低く、抑え込んだ怒りが微かに震えていた。


「あれほどまでに、美しく……そして、完璧な存在を手放すなど、言語道断だ」


 その声音には、王としての叱責ではない響きがあった。

 陶酔。

 崇拝。

 まるで“神性”を語るかのような熱を帯びている。

 ヒンツの瞳には、国王の威厳ではなく、一人の男として、いや、人間としての枠を超えた “渇望” のような光が宿っていた。

 アドルフは唇を噛み、血の味を覚えながら頭を深く垂れた。

 反論の余地はない。

 ここで何を言おうと、ヒンツの心には届かない。


「……申し訳ございませんでした」


 その言葉は、謝罪ではなかった。

 ただ、絶対者に対してひれ伏すしかない者の、降伏の声だった。


「……もう、よい」


 ヒンツはゆっくりと立ち上がる。

 その動きは静かであるのに、周囲の空気が揺らぐような圧を持っていた。


「――先ほど、失敗作があると言ったな」


「は、はい……」


 アドルフの声は震えている。

 しかしヒンツは、それに気づいていながら気に留める様子もなく、淡々と続けた。


「……その“失敗作”を、今日の記念試合で出せ」


「し、しかしっ――! まだ実験段階です! どのような影響が出るか、まだ誰にも……!」


 ヒンツは視線だけをゆるやかに落とした。

 その瞳には、怒りも苛立ちもなかった。

 冷たさすら通り越えた、氷よりも静かな狂気が宿っていた。


「……ファウストに近づけるなら、何でもよい」


 囁くような声だった。

 だがアドルフには、それが王の命令ではなく、

 ファウストという存在へすがりつこうとする、ひとりの狂信者のつぶやきのように聞こえた。


「失敗作と言えど――それなりには、使えるのだろう?」


 問いかけというより、結果だけを求める確認。

 アドルフは息を呑み、喉が焼けつくように乾いた。

 それでもどうにか声を絞り出す。


「っ――観客や、試合の参加者には……なんと説明を……?」


 ヒンツは鼻で小さく笑った。

 そこに温度も優しさもない。ただ、退屈を紛らわせるような嘲笑。


「――余興だと言えばよいだろ」


 その声音は静かだ。

 命令とも忠告ともつかない、平坦な音。

 だが、そこに“命を扱う者”としての責任も、“人の情”も、ひとかけらも存在しなかった。

 アドルフは言葉を失い、視線を落とす。

 自分の問いかけが、意味を持たなかったことを悟った。

 ヒンツはもう興味を失ったらしく、ゆるやかに背を向けた。

 重厚な王のマントが床を擦り、その音が妙に冷たく響く。


「……承知しました」


 アドルフの返事は、掠れてほとんど声になっていなかった。

 だがヒンツは振り返りもしない。

 アドルフの声など、そもそも届いていないかのように。

 扉が静かに閉じる。

 カチリ、とその音だけが広い食堂に残響し、

 ヒンツの残した“冷たい気配”だけが、まだ室内を満たしていた。


 

 ――そして、時は流れた。


 王都クレスチナ、闘技場。

 第千回記念試合の熱気が渦を巻き、観客席は歓声で震えていた。

 来賓席には王族や貴族が並び、アドルフもそのひとりとして静かに立っていた。

 だが次の瞬間、歓声が悲鳴へと裏返った。

 闘技場中央から爆炎が噴き上がり、観客席を赤く照らす。

 砂塵と熱風が吹き荒れ、人々が我先にと逃げ惑う姿が視界を埋め尽くした。

 叫び声が飛び交い、倒れる音が遠く近くで混ざり合う。

 一瞬前までの祝祭は、音を立てて崩れ落ちていく。

 そこにあるのは歓喜ではなく、地獄の喧噪だった。

 アドルフは無表情のまま、その混乱を眺めていた。

 混乱も、悲鳴も、彼の心を揺らさない。

 それが“予定された惨劇”であることを知っていたからだ。

 だがそのなかで、彼の瞳がふいに止まった。

 爆炎の中に “ありえない影” を見つけたのだ。

 熱風が吹き荒れ、炎が闘技場を呑み込む。

 その灼ける世界の中心から、ゆっくりと歩み出る影があった。

 剣を構え、闘技場の中央に立つ一人の男。

 その身にまとった光は、血のように赤く、炎と熱風の中でもなお揺るがない姿。

 アドルフの心臓が強く跳ねた。

 痛いほどに。

 そんなはずはない。

 ここにいるはずがない。

 魔界に消え、どこにもいなかったはずの存在。

 だが、それでも見間違えようがない。

 アドルフの喉が、乾いた音を立てた。

 その男こそ、自分が追い求め、失い、壊し、それでもまだ “渇望し続けていた” 唯一の存在。


 ファウスト・ライウス。


 炎を割って立つその姿に、観衆は息を呑む。

 だがアドルフの胸を満たしたのは、驚愕ではなかった。

 歓喜とも、怒りともつかない、混ざり合った狂気のような熱。


「……ファウスト……?」


 その名は、声になったのかどうかさえ分からなかった。

 ただ、呼ばずにはいられなかった。

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