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天魔の血脈  作者: 黒ひげの猫
王都断罪編 ①
3/36

エピソード 2

 それは、今から五年前の出来事だった。

 突如として、漆黒の空を裂くようにして現れた魔族の軍勢が、フォルスター王国を襲撃した。

 その力は人間の想像を遥かに超えており、騎士団や軍勢は比べるまでもないほどの圧倒的な力の差の前に、為す術なく塵と化していった。

 魔族が操る未知の魔法、常識を逸した存在、抗えぬ暴威すべてが、人の手には余るものだった。

 王国の守りは崩れ、多くの兵が命を落とし、街は焼かれ、民は虐殺され、国そのものが滅亡の危機に瀕していた。

 恐怖と絶望が蔓延する中、その混沌の戦場に、たった一人、魔族の大軍勢の前に立ちはだかる青年の姿があった。

 

 その青年の名は、ファウスト・ライウス。

 

 彼はただの剣士ではなかった。

 一振りの剣で数百の魔族を斬り伏せ、無数の魔法に怯むことなく、光のように鋭い反撃を繰り返す。

 彼の剣は雷よりも速く、意志は鋼よりも固く、ただの人間では到底持ち得ぬ力をもって、ファウストは戦場を駆け抜けた。

 血と炎に満ちた戦場において、ただ一人、彼だけが希望の灯火であった。

 兵たちはその姿を見て、心を奮い立たせた。

 絶望に沈んでいた民は、瓦礫の陰からその戦いを見上げ、祈るように彼の名を叫んだ。

 彼の背を追うように、残された兵は再び剣を取り、民は涙を流しながら彼を英雄と信じた。

 この人智を超えた戦いは、三日三晩にわたって続き――ついに、魔族の軍勢は後退を余儀なくされた。

 絶望の淵に沈みかけていた国は、ファウストというたった一人の英雄の手によって救われたのだ。

 この奇跡の戦いの後、人々は彼をこう呼んだ。

 

 《大英雄ファウスト・ライウス》

 

 民は歓喜し、兵は敬礼し、王国は彼に最大の賛辞と栄誉を捧げた。

 その名は、後の歴史に刻まれることとなる。

 


 ―――だが、五年後。

 


 そして今、アドルフに死刑を宣告されたその青年こそ、かつてこの王国を救った大英雄、ファウスト・ライウスである。


「……もう時間か」


 アドルフが扉の方へと向きを変えた。

 その背に、ファウストの静かな声が投げかけられた。


「……待てよ」


 動かぬ体を無理に動かす素振りも見せず、ファウストはただ座ったまま、淡々と語る。


「死ぬ前に、ひとつだけ確認しておきたい」


 アドルフは足を止め、振り返る。

 ファウストの顔には怒りも哀しみもない。

 あるのはただ、冷静な観察者としてのまなざしだった。


「……お前たちは俺を英雄に仕立て上げ、そして今、その役目を終えた俺を罪人として処刑しようとしている。――いったい、何を企んでいる?」


 その口ぶりに焦りはない。

 あたかも、自分の運命がどうなろうと動じないかのように。

 アドルフは少しだけ間を置いてから、ふっと鼻で笑い、肩をすくめる。

 そして、マントの内から一つの物を取り出す。

 それは血を染めたような深紅の光沢を放つ、古びた角笛だった。

 どこか異様な存在感を放つその笛を、アドルフはわざとらしく見せつけるように掲げてみせた。


「……ファウスト。お前は“神”の存在を信じるか?」


 アドルフの問いに、ファウストはわずかに眉をひそめた。

 

「神……だと?」

 

 その声音には嘲笑も憤怒もない。

 ただ、あまりに唐突な問いかけに対する、純粋な疑念の色があった。

 アドルフの指が角笛をなぞる。

 石のような冷たさが、彼の手に伝わるたび、笛の表面に走る血の紋様が淡く脈打つように光った。

 その光景はまるで、古の神がまだ生きており、囁きかけているかのようだった。

 ファウストは顔を上げた。


「……くだらねぇ。俺は神を信じない」


 その宣告めいた声に、アドルフは楽しげに笑い、低く答えた。

 

「ならば――証明してやろう。この笛が奏でる時、お前は否応なく跪くことになる」

 

 

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