エピソード 26
今日の魔王城は、驚くほど静まり返っていた。
「――ああ、久しぶりにゆっくりできるな」
それもそのはずだ。
普段なら朝から城を騒がしくしているイリスが、珍しく早起きしたかと思えば「調べものがある」と言い残し、どこかへ出かけてしまったのだ。
残されたファウストは一人の時間を手に入れ、従者としての雑務を早々に片づけると、城の書斎へとこもっていた。
「魔界各種族について……歴代魔王……魔法一覧……」
魔王城の書斎には、魔界の歴史を記した年代記や魔導書、さらには各種族の詳細をまとめた記録まで、膨大な数の本が収められている。
ファウストは暇を見つけてはここに足を運び、今日のように片っ端から本を読み漁るのが習慣になっていた。
今読んでいた一冊を閉じ、本棚に梯子を掛けて次の一冊を探す。
「……やっぱり無いか」
ファウストが探しているのは、『魔力感知について』
それもただの魔力感知ではなく、遠く離れた者の魔力を探り当てる方法が記された本だった。
「……はぁ。やっぱり手がかり無しか」
力尽きたように、ファウストは書斎の床にごろんと寝転がる。
「……どこにいるんだよ、リュドミラ」
イリスが持つ“魔眼”が、かつて一度だけリュドミラの魔力を感知した。
その日を境に、ファウストは彼女を探す手がかりを魔界中で求め続けていた。
それ以来、幾度となくイリスに頼み込み、魔眼でリュドミラの気配を探ってもらったものの、新たな反応は一向に得られなかった。
すぐ近くにいるようで、どこまでも遠ざかってしまった妹。
その姿を思うほど、胸の焦燥は募っていく。
荒ぶる心をどうにか抑え込もうと、ファウストは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
その時。
ふわりと、書斎の中に甘い香りが漂った。
「……何をしているの、こんなところで」
とろりと甘い蜜のような声が耳をくすぐる。
目を開いたファウストの視界には、真横にちょこんと腰を下ろし、顔を覗き込むローザの姿があった。
間近で見る美貌に思わず息を呑む。
視線が絡み合うと、ローザは不敵な笑みを浮かべる。
「……どうやって、この城に入ったんだ」
問いかけに、ローザはにこりと微笑んだ。
「昔ね、どこかのお馬鹿さんが魔王城の“秘密の抜け道”を教えてくれたのよ」
「……なんだそれ」
ローザがわずかに身じろぎするたび、薄桃色の長い髪がふわりと揺れ、毛先がファウストの頬をくすぐった。
次の瞬間、白く細い指先がそっとファウストの頬を撫でる。
「寂しい、会いたい……。――へぇ、アナタって、こんな匂いがするのね」
あまりに突然な言葉に、ファウストは口角を引きつらせる。
そんな彼を見て、ローザは楽しげに微笑んだ。
「ふふっ。実は寂しがり屋なんだって、もっと早く言ってくれればよかったのに」
「な、何突然……変なこと言ってんだよ」
「お姉さんが、慰めてあげようか?」
「はいはい、どうせ“高くつく”んだろ? 遠慮しておく」
ファウストは慌てて身を起こし、ローザから距離を取る。
「イリスとは仲良さそうだけど、それ以外の人とは程よく距離を置く……。だから、ずっと気になっていたのよね。――魔族を救った大英雄、ファウストがどんな人間なのか」
ローザは一歩踏み出し、再びその匂いを嗅ぎ取るように顔を寄せた。
「それに……この魔力。前から気になっていたの」
そう言うと、彼女の手がファウストの胸に触れる。
「……今度は何だよ」
触れられた箇所がじんわりと熱を帯び、次の瞬間、心臓が大きく脈打つ。
ドクリ、と一際強い鼓動。
その途端、ファウストの体から、三色の光が溢れ出した。
「な……何だよ、これ……!」
自らの身体から放たれる光に、ファウストは困惑の声を上げる。
一方のローザは、その輝きを見つめながら、どこか納得したように口元を緩めた。
「……なるほどねぇ」
「なるほどって、どういうことだ! この光は何なんだよ!」
「何って……本当に知らないの? あの子から何も聞かされてないの?」
ファウストの狼狽ぶりに目を丸くしたローザは、やがて深々とため息を吐いた。
「全く……。こんな初歩的なことも伝えてないなんて、あの子は一体何をしているのかしら」
ローザは呆れたように頭を抱えると、ため息まじりに説明を始めた。
「この光はね……魔力を“可視化”させたものなの」
「魔力を、可視化……?」
「魔族の魔力の源は、体内を巡る血液――それくらいは知ってるわよね?」
「ああ……それくらいは」
ファウストの返答に、ローザは少し安心したように頷く。
「つまり、この光は……相手の魔力の属性や個性を浮かび上がらせるものなんだな」
「そういうこと」
ローザの説明によれば、魔力には持ち主ごとに異なる“属性”や“個性”が宿り、その特徴が光の色として現れるらしい。
「あなたからは――白、赤、黒の三色が検知されたわ。赤はイリスの影響かしら……。でも、白と黒は……」
そこで言葉を切ったローザは、しばらく考え込むように沈黙した。
やがて、懐かしいものに触れるような仕草で、漂う白と黒の光にそっと指を伸ばす。
「……どうしたんだよ」
「……いや、憶測で物を言うのは無粋ね」
ローザが手を払うと、漂っていた光はすっと掻き消え、書斎に静寂が戻った。
「それにしても――人間のあなたから三種類の魔力が検知されるなんて不思議な話。でも……イリスの魔力が混じっているのは……まさか、“刻印の魔法”?」
その言葉に、ファウストの脳裏にあの日の光景がよみがえる。
魔界に連れ込まれ、イリスと再会した時、確かに彼女は、刻印と呼ばれる術について口にしていた。
「ああ……言ってた気がするな」
あまりに気の抜けた返答に、ローザは大きくため息をつき、再び頭を抱え込む。
「人間のあなたが魔界で生きていられること自体、もしかしたらと思っていたけど……本当に“あの魔法”に手を出すなんて……。親子揃って、どうかしてるわ」
呆れを滲ませながらも、ローザはふいに身を寄せ、ファウストの胸に耳を当てた。
「なっ、いきなり何すんだよ!」
「いいから黙って。そのまま、深呼吸をして」
「……わ、分かったよ」
ファウストは観念したように、言われるまま何度か大きく息を吸い込み、吐き出す。
ローザはその鼓動を確かめ、やがて小さく息をついた。
「……大丈夫みたいね。心臓も、ちゃんと動いてる」
そう呟いた彼女は、すぐに真剣な眼差しに変わり、鋭くファウストを睨み上げた。
「あのね――あなた達が行った“刻印の魔法”が、どれほど危険な術か……ちゃんと理解してるの?」
「え……」
「まぁ、どうせ碌な説明もしないで、あの子が勝手にやったんでしょうけど……」
「そんなに危険な魔法なのか?」
ローザはまたも深いため息を吐き、言葉を選ぶように口を開いた。
「刻印の魔法は――命を懸けた魔法よ」
「……命を?」
想像もしなかった答えに、ファウストは思わず聞き返す。
「刻印とは、他者を“自分の所有物”にする魔法。死者を使役するような粗末な術じゃない。命ある者を、まるごと縛りつける魔法だからこそ、それに見合う対価が必要になるの」
ローザは視線を鋭くして説明を続けた。
「まず、相手の心臓を取り出すこと。それも臓器を傷つけず、死なせないままに……。それが第一の条件よ。次に――自分の血。体内を巡る魔力の大半を消費し、自分の血と混ぜ合わせながら相手の心臓を“複製”する。魔族にとって心臓と血は魔力の核。どちらを完全に失っても消滅する。だから血が足りなければ失敗。仮に心臓を複製できても、血を使い尽くした時点で発動者も対象も死ぬ」
静かに、しかし容赦なく言い放つ。
「……つまり刻印の魔法は、互いの命を賭け合う魔法なの」
「互いの……命を」
言葉を失ったファウストの姿を見て、ローザは肩を竦める。
「刻印の魔法に手を出した馬鹿を、私はこれで二人も見たわ。……本当に、正気の沙汰じゃない」
ローザの説明を聞いたファウストは、思わず自らの胸に手を当てた。
規則正しく鼓動を刻むこの心臓は――生きろ、とイリスが与えてくれたもの。
命を落とすかもしれない危険を承知で、どうして彼女はそこまでして自分を生かそうとしたのか。
考えれば考えるほど答えは見つからず、ただ胸の奥に重さだけが残る。
そのとき、ふと脳裏に浮かんだのは、刻印の魔法を発動する直前のイリスの声だった。
『――刻印が刻まれた心臓。これは一部の魔族しか知らない“所有”の魔法。魔力を持たない人間には、本来できるはずがない』
その言葉の本当の意味を、ファウストが知るのは――もう少し先の話である。




