エピソード 22
食材を求め、ファウストと共に王都クレスチナ東の町を訪れたイリスは、目を輝かせていた。
「すっっごい!」
生活感あふれる町並み。
威勢よく声を張り上げる商人たち。
屋台から漂う香ばしい匂いは、否応なく空腹を刺激する。
その全てが、イリスの好奇心を煽ってやまない。
大通りは、まだ朝だというのに人でごった返していた。
色とりどりの布地や香辛料を並べる商人、荷馬車を操る若者、子どもを抱えながら野菜を売る女性。
人の生活そのものが熱気となって溢れ出している。
魔界育ちのイリスにとっては、全てが目新しい光景だった。
「ファウスト! 早くアンタも来なさいよ!」
心躍らせるイリスとは対照的に、ファウストの顔は青ざめていた。
この国で「ファウスト」という名は、かつて人類を救った英雄の名であり、同時に国家転覆を企んだ裏切り者として知られた名でもある。
だからこそ人間界に滞在する間は偽名を使うよう、口酸っぱくイリスに言い聞かせてきた。
余計なことは絶対にしない、と胸を張って宣言していたイリス。
だが、その時間は無意味だったとしか思えないほど、イリスは堂々とファウストの名を叫んでしまった。
周囲の視線が一斉にファウスト達へと注がれる。
「ファウスト」という響きがもたらす記憶と噂が、人々の間にざわめきを広げていった。
「何してるのよ! 私、お金持ってないんだから!」
自分が注目の的になっていることに気づいていないイリスは、棒立ちのファウストに大きく手を振った。
「もう、お腹が減ってるんだから早くしてよね!」
駆け寄ったイリスは、心配そうにファウストの顔を覗き込む。
「大丈夫? なに、もしかしてお腹痛いの?」
ピタリと硬直したままのファウスト。
その様子に首を傾げたイリスだったが次の瞬間、ファウストの手が彼女の頭を叩いた。
パシン、と乾いた音が響く。
「いったぁ! ちょっと、なにするのよ!」
「何するんだはこっちの台詞だ、このバカッ! あれほど俺の名前を呼ぶなって言ったのに、お前は……っ!」
「あっ……」
自分の失態に、ようやく気づいたイリス。
無自覚だったことを物語るその表情。
しかし、もう遅い。
周囲では囁きが渦を巻いていた。
「今、あの娘……ファウストって言ったぞ」
「まさか……あの処刑されたはずの男が?」
「いや、でも……確かに、あの男に向かってファウストって――」
不信と恐怖、そして好奇が入り混じった声が飛び交う。
数人の商人は荷を下ろし、衛兵を呼ぼうと走り去る者まで現れる。
ささやきは瞬く間に波紋のように広がり、ただの通行人までもが足を止めて彼らを見つめていた。
英雄の名が持つ重みは、時を経てもなお人々の心に深く刻まれている。
だがそれは憧憬ではなく、恐怖と猜疑心を伴った記憶だった。
「無意識だったの! 仕方ないじゃない、呼び慣れてないんだから……」
不貞腐れた声に、ファウストは深くため息をついた。
「……お前も知ってるだろ。俺がなぜ処刑されることになったのか」
言葉は低く、鋭い。
吐き出した言葉は自分自身への確認のようでもあった。
イリスが本当に理解しているのかを確かめるように、再度釘を刺す。
「ファウスト・ライウスという存在そのものが、もう罪なんだよ」
一瞬、空気が冷え込んだ。
イリスは視線を逸らし、小さく呟く。
「……わかってるわよ。次からは気をつけるから」
「今の俺は“ギル”。そういうことにしておけ」
「なんだか……そこらにいそうな、ありふれた名前ね」
「――それでいいんだよ」
自分の存在そのものが罪だと語ったファウスト。
けれどこの町に入ってから、ファウストがどこか懐かしそうに周囲を眺めていることに、イリスは気づいていた。
市場の喧騒、行き交う人々の声。
それはかつてファウストが守った世界の断片だった。
彼の横顔をじっと見つめながら、イリスは問いかける。
「……なんだよ」
「懐かしいの?」
その一言に、ファウストは眉間に皺を寄せる。
「勝手に人の心を読むな」
「気づいてる? 今の自分が、どんな顔してるか」
言葉に詰まり、ファウストはわずかに目を逸らした。
「……知るかよ。興味ねえよ。――ほら、腹減ってんだろ。先に何か食おう」
これ以上この話に触れられたくないのか、ファウストはイリスを置き去りにして市場の方へ歩を進める。
残されたイリスは、その背中を見つめながら七色に光る魔眼をそっと開いた。
――大英雄と呼ばれたファウストの影。
――この町を揺るがした戦闘。
――ファウストに救い出された若い娘。
――祈りに満ちた素朴な礼拝堂。
――そして、町の中央に立つ銅像。
魔眼が映す断片は、まるで時の層をめくるように鮮やかに浮かび上がる。
そこには英雄としてのファウストの姿と、人々に記憶された彼の残滓が刻まれていた。
「……嘘つき」
小さく呟く声は、雑踏のざわめきに掻き消される。
イリスは魔眼を閉じ、静かにファウストの後を追った。




