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天魔の血脈  作者: 黒ひげの猫
王都断罪編 ①
22/44

エピソード 21

「《扉》ゲート。人間界、王都クレスチナ 東の町」

 

 準備を終えたファウストと、待ちくたびれて腕を組むイリス。

 二人は魔術を発動し、食材を調達するため目当ての町に繋ぐ扉を開いた。

 

「……魔術って、本当になんでもありだよな」

 

 術式を維持しながら、ファウストはしみじみ呟く。

 

「人間界にいた頃、魔族がどこから現れるのか、多くの学者たちが議論していた。けど実際は、こんなふうに簡単にどこへでも現れることができたなんてな」

 

 ファウストが展開している魔法は『ゲート

 望む場所へ現在地を繋ぐ転移の術だ。

 かつて魔族が人間界に侵攻した際も、この魔法が使われており、突如として出現する魔族に、人族はなすすべもなかった。

 ただし、この術には条件がある。

 繋ぎたい場所を強く思い描くこと。

 知らぬ土地に通じることは、決してできない。


「今はもう、この魔法の使用を制限しているじゃない」


 イリスが肩をすくめて答える。

 ファウストが魔界に連れられ、この『ゲート』の存在を知った頃には、すでに禁忌の魔法とされていた。

 今や使用を許されているのは、魔王イリスに認められたごく一部の魔族のみ。


「制限をかけた以上、もうそう簡単に魔族が人間界に現れることはないはずよ」


 その言葉は、気まぐれの一言に過ぎないのかもしれない。

 けれど、魔王の気まぐれ一つで人間界には束の間の平穏が訪れた。

 実際、ここ数ヶ月、人間界で魔族を見かけたという噂すら聞こえてこない。

 

「いつまでもそこにいないで、早く行くわよ」


「あ、あぁ……」


 ゲートの向こうから漂ってくるのは、懐かしい香り。

 我慢できずに先を急ぐイリスに手を引かれ、ファウストは扉を潜った。

 久方ぶりの人間界。

 目の前には果てしない青い海が広がり、波間を白く砕く音が耳に届く。

 海鳥たちが翼を広げ、甲高い声で空を切り裂くように舞っていた。


「……懐かしいな、この磯の匂い」


 実感がじわじわと胸に広がり、ファウストは肺いっぱいに空気を吸い込む。

 その時、隣から妙な呻き声が洩れた。


「うぅ〜〜〜っ……」


「……何してんだ?」


 振り向くと、イリスが眉間に皺を寄せ、鼻をつまんで蹲っている。


「この臭い……まだ鼻が慣れないのよ」


 魔界には存在しない磯の匂いが、彼女には耐えがたいらしい。

 苦悶と苛立ちが入り混じった顔は、威厳ある“魔王”の面影とは程遠かった。

 

「そのうちに慣れる」


「っ、早くこの場所から離れようよ……」


「残念だったな。この町は海に面しているから、どこにいてもこの匂いはするぞ」


「えっ……」


 イリスの顔がみるみる青ざめていく。

 そんな様子に、ファウストは思わず吹き出しそうになった。


「ははっ、魔王様も磯の香りには敵わないか」


「う、うるさいっ! 私だって完璧じゃないの!」


 険しい表情を崩さぬまま、イリスは一面に広がる海をじっと見つめていた。

 しかし、その瞳はどこか子どものように輝いている。


「……広い……こんなの、魔界には無かったわ」


 イリスは小さく呟く。


「不思議な響き……でも、悪くないわね」


 そう言いながらも、イリスの視線は青の地平線に釘付けになっていた。

 磯の匂いには眉をひそめながらも、煌めく波を映すその瞳は子どものように輝いている。

 ファウストはそんなイリスの横顔を見て、ふと何かを思いついたのか、口元を吊り上げ悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「なぁ、ちょっと海の水、舐めてみろよ」


「な、舐める……?」


 イリスは怪訝そうに首を傾げ、恐る恐る指先で海水をすくい上げた。

 そして、警戒するように舌先を触れさせる。


「……っ!? しょっぱっ! な、なにこれ!?」


 顔をしかめて慌てるイリスを見て、ファウストは堪えきれず吹き出した。


「ぷっ! ははっ、これが海だ。塩辛いだろ?」


「しょっぱいなんてもんじゃないわよ! 毒でも入ってるんじゃないの!?」


 怒りながらも口の中を気にしているイリスに、ファウストはさらに笑みを深めた。


「な、なんで……こんなにしょっぱいの?」


「あー、笑った笑った……。海がしょっぱい理由なんて知らねーよ。教えてくれる人なんて、周りにいなかったからな」


 ファウストは肩をすくめながら、どこか遠くを見るように海を眺める。

 その声音には、冗談めいた軽さの裏に小さな孤独が滲んでいた。


「……そ。なら、今度は私が調べてあげる」


「お前が?」


「そうよ。私が、ファウストに教えてあげる。なんで海の水が塩っぱいのか」


 その言葉に、ファウストは思わずくすりと笑う。


「ふふっ……何年先になるんだろうな」


 イリスは不満げに頬を膨らませ、そっぽを向く。

 ふと、波が寄せては返す砂浜を見つめたイリスは、恐る恐る足先を伸ばした。

 つま先が濡れた瞬間。


「ひゃっ!? つ、冷たいっ!」


 小さく跳ねるイリスに、ファウストは吹き出す。


「ははっ、魔王が波に驚いてるとはな」


「う、うるさい! 心臓に悪いのよ、こんなの!」


 イリスはぷいと顔を背けながらも、何度も押し寄せる波をじっと見つめていた。

 その目は、やはりどこか輝いている。

 海鳥が頭上を横切り、陽光を反射してきらめいた。


「でも、この風は嫌いじゃない……」


 イリスは髪を揺らす潮風に目を細め、小さく呟いた。

 その横顔は、さっきまでの不機嫌さが嘘のように穏やかだった。


「っ、くしゅんっ」


 不意のくしゃみに、イリスは慌てて鼻を押さえた。

 潮風に晒された頬が少し赤らんでいた。


「コレ、使えよ」

 

 ファウストは懐から布を取り出し、彼女の首元に巻き付けた。


「……これは?」


「海辺の町は風が冷たいから、体がすぐ冷えるんだ。この町の人間は、みんなこうして首に巻いて寒さを凌いでる。……それに、海の匂いも少しは和らぐだろ?」


 布は熱を外に逃がさず、体温をこもらせる特殊な素材で作られたこの街の特産品。

 かつて誰かに教わった知識が、こんな場面で役に立つとは思わなかった。

 イリスは布に顔を埋め、満足げに目を細める。

 その姿を見て、ファウストは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。


「……ありがと」


「行くぞ。屋台の飯が食いたいんだろ?」


「っ、そう! 私、もうお腹ペコペコなの!」


 ぱっと顔を輝かせるイリスに、ファウストは思わず苦笑を浮かべる。

 そして二人は肩を並べ、町の中心地へと歩き出した。

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