エピソード 21
「《扉》ゲート。人間界、王都クレスチナ 東の町」
準備を終えたファウストと、待ちくたびれて腕を組むイリス。
二人は魔術を発動し、食材を調達するため目当ての町に繋ぐ扉を開いた。
「……魔術って、本当になんでもありだよな」
術式を維持しながら、ファウストはしみじみ呟く。
「人間界にいた頃、魔族がどこから現れるのか、多くの学者たちが議論していた。けど実際は、こんなふうに簡単にどこへでも現れることができたなんてな」
ファウストが展開している魔法は『扉』
望む場所へ現在地を繋ぐ転移の術だ。
かつて魔族が人間界に侵攻した際も、この魔法が使われており、突如として出現する魔族に、人族はなすすべもなかった。
ただし、この術には条件がある。
繋ぎたい場所を強く思い描くこと。
知らぬ土地に通じることは、決してできない。
「今はもう、この魔法の使用を制限しているじゃない」
イリスが肩をすくめて答える。
ファウストが魔界に連れられ、この『扉』の存在を知った頃には、すでに禁忌の魔法とされていた。
今や使用を許されているのは、魔王イリスに認められたごく一部の魔族のみ。
「制限をかけた以上、もうそう簡単に魔族が人間界に現れることはないはずよ」
その言葉は、気まぐれの一言に過ぎないのかもしれない。
けれど、魔王の気まぐれ一つで人間界には束の間の平穏が訪れた。
実際、ここ数ヶ月、人間界で魔族を見かけたという噂すら聞こえてこない。
「いつまでもそこにいないで、早く行くわよ」
「あ、あぁ……」
ゲートの向こうから漂ってくるのは、懐かしい香り。
我慢できずに先を急ぐイリスに手を引かれ、ファウストは扉を潜った。
久方ぶりの人間界。
目の前には果てしない青い海が広がり、波間を白く砕く音が耳に届く。
海鳥たちが翼を広げ、甲高い声で空を切り裂くように舞っていた。
「……懐かしいな、この磯の匂い」
実感がじわじわと胸に広がり、ファウストは肺いっぱいに空気を吸い込む。
その時、隣から妙な呻き声が洩れた。
「うぅ〜〜〜っ……」
「……何してんだ?」
振り向くと、イリスが眉間に皺を寄せ、鼻をつまんで蹲っている。
「この臭い……まだ鼻が慣れないのよ」
魔界には存在しない磯の匂いが、彼女には耐えがたいらしい。
苦悶と苛立ちが入り混じった顔は、威厳ある“魔王”の面影とは程遠かった。
「そのうちに慣れる」
「っ、早くこの場所から離れようよ……」
「残念だったな。この町は海に面しているから、どこにいてもこの匂いはするぞ」
「えっ……」
イリスの顔がみるみる青ざめていく。
そんな様子に、ファウストは思わず吹き出しそうになった。
「ははっ、魔王様も磯の香りには敵わないか」
「う、うるさいっ! 私だって完璧じゃないの!」
険しい表情を崩さぬまま、イリスは一面に広がる海をじっと見つめていた。
しかし、その瞳はどこか子どものように輝いている。
「……広い……こんなの、魔界には無かったわ」
イリスは小さく呟く。
「不思議な響き……でも、悪くないわね」
そう言いながらも、イリスの視線は青の地平線に釘付けになっていた。
磯の匂いには眉をひそめながらも、煌めく波を映すその瞳は子どものように輝いている。
ファウストはそんなイリスの横顔を見て、ふと何かを思いついたのか、口元を吊り上げ悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「なぁ、ちょっと海の水、舐めてみろよ」
「な、舐める……?」
イリスは怪訝そうに首を傾げ、恐る恐る指先で海水をすくい上げた。
そして、警戒するように舌先を触れさせる。
「……っ!? しょっぱっ! な、なにこれ!?」
顔をしかめて慌てるイリスを見て、ファウストは堪えきれず吹き出した。
「ぷっ! ははっ、これが海だ。塩辛いだろ?」
「しょっぱいなんてもんじゃないわよ! 毒でも入ってるんじゃないの!?」
怒りながらも口の中を気にしているイリスに、ファウストはさらに笑みを深めた。
「な、なんで……こんなにしょっぱいの?」
「あー、笑った笑った……。海がしょっぱい理由なんて知らねーよ。教えてくれる人なんて、周りにいなかったからな」
ファウストは肩をすくめながら、どこか遠くを見るように海を眺める。
その声音には、冗談めいた軽さの裏に小さな孤独が滲んでいた。
「……そ。なら、今度は私が調べてあげる」
「お前が?」
「そうよ。私が、ファウストに教えてあげる。なんで海の水が塩っぱいのか」
その言葉に、ファウストは思わずくすりと笑う。
「ふふっ……何年先になるんだろうな」
イリスは不満げに頬を膨らませ、そっぽを向く。
ふと、波が寄せては返す砂浜を見つめたイリスは、恐る恐る足先を伸ばした。
つま先が濡れた瞬間。
「ひゃっ!? つ、冷たいっ!」
小さく跳ねるイリスに、ファウストは吹き出す。
「ははっ、魔王が波に驚いてるとはな」
「う、うるさい! 心臓に悪いのよ、こんなの!」
イリスはぷいと顔を背けながらも、何度も押し寄せる波をじっと見つめていた。
その目は、やはりどこか輝いている。
海鳥が頭上を横切り、陽光を反射してきらめいた。
「でも、この風は嫌いじゃない……」
イリスは髪を揺らす潮風に目を細め、小さく呟いた。
その横顔は、さっきまでの不機嫌さが嘘のように穏やかだった。
「っ、くしゅんっ」
不意のくしゃみに、イリスは慌てて鼻を押さえた。
潮風に晒された頬が少し赤らんでいた。
「コレ、使えよ」
ファウストは懐から布を取り出し、彼女の首元に巻き付けた。
「……これは?」
「海辺の町は風が冷たいから、体がすぐ冷えるんだ。この町の人間は、みんなこうして首に巻いて寒さを凌いでる。……それに、海の匂いも少しは和らぐだろ?」
布は熱を外に逃がさず、体温をこもらせる特殊な素材で作られたこの街の特産品。
かつて誰かに教わった知識が、こんな場面で役に立つとは思わなかった。
イリスは布に顔を埋め、満足げに目を細める。
その姿を見て、ファウストは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
「……ありがと」
「行くぞ。屋台の飯が食いたいんだろ?」
「っ、そう! 私、もうお腹ペコペコなの!」
ぱっと顔を輝かせるイリスに、ファウストは思わず苦笑を浮かべる。
そして二人は肩を並べ、町の中心地へと歩き出した。




