エピソード 16
「何の用だよ」
魔王の従者らしからぬ荒々しい言葉使いで、ファウストは浴場を隔てる扉に声をかけた。
「……遅い。早く中に入って」
むくれたような返事が返り、ファウストは渋々と扉に手をかけ浴場の中へ入る。
魔王城の浴場は黒泉とは異なり、大人が何人も走り回れるほど広大で、その半分以上を巨大な浴槽が占めていた。
浴槽には地熱で温められた湯が絶え間なく注ぎ込まれ、壁に備え付けられた魔法装置で温度を自在に調整できる仕組みになっている。
「熱すぎたのか?」
「違う」
「じゃあ何で呼んだんだよ。朝食の仕込みをしてたのに」
イリスは赤い長髪をざっくりとまとめ上げる。
濡れた髪の隙間から覗く白いうなじが、湯気でほんのり赤く染まっていた。
イリスは短く「ん」とだけ答え、浴槽の端に並ぶ小瓶へ指を向ける。
「……なんだよ。コレ」
その小瓶は掌にすっぽり収まる大きさで、花を思わせる繊細な装飾が施されていた。
一目で女性向けの品だと分かる。
「こういうのに、お前が興味あるとは思わなかったけど」
その一言に、イリスの白い額に小さな皺が寄る。
「……ローザに貰ったの」
「ローザ? あぁ、サキュバス族の長か。あの人からの贈り物なんて、本当に信用していいのか?」
「害は無いって言ってたし、大丈夫でしょ」
「害は無い、ねぇ……」
イリスはそう言ったが、魔界の繁華街を仕切るサキュバス族の長ローザは、多くの魔人や魔獣が行き交う中で性別問わず誰もを魅了する美貌を持ち、狙った獲物から精気も金も容赦なく奪い尽くすことで知られていた。
そのため『女豹のローザ』なんて呼ばれている。
そんな女豹からの贈り物など到底信用できず、ファウストはためらうことなく小瓶の蓋を開けた。
「……オイル?」
掌に垂らした液体はとろりと粘りを持ち、鼻腔を甘ったるい香りが満たしていく。
「あっ! 何で先に開けるのよ!」
まさかファウストが瓶の中身を確かめると思っていなかったイリスは、慌てて振り向きざまに小瓶を奪い取った。
「お、お前っ! ま、前を隠せ!」
ファウストの視界に、イリスのバランスの取れた形の良い胸元が飛び込んでくる。
女性の身体に見慣れていないわけではない。
だが、あまりの突然な光景に思わず動揺し、ファウストは慌てて着ていたシャツを脱ぎ、その胸元を覆った。
そして、それ以上視界にイリスの身体が入らないように、そっと顔を背けた。
「アンタに身体を見られるのは初めてじゃないんだから、そんな慌てなくてもいいのに」
「……そういうわけにはいかねぇだろ。それに嫁入り前の身で、何言ってんだ」
濡れた身体をシャツで隠し続けるにも限界がある。
ファウストは厚手のタオルを持ってきて、無言でイリスに差し出した。
ファウストから『嫁入り』などという言葉が出た瞬間、イリスは露骨に顔をしかめ、心底うんざりしたように大きくため息を吐いた。
「嫁入りって……」
イリスは小さく鼻で笑い、ゆっくりとファウストを見上げた。
「こんな私を、誰かが欲しがると思う?」
湯気に紛れる声は、強がりとも自嘲ともつかない響きを帯びていた。
そして、ほんの一拍置いて唇の端を吊り上げる。
「……それとも、アンタが貰ってくれるの?」
挑発のように吐き出されたその言葉に、ファウストは思わず息を呑んだ。
「そ、それは……」
しどろもどろになる彼を見て、イリスはふっと口角を上げる。
「……冗談よ、冗談」
軽く笑い飛ばすような声音。
だが、その瞳の奥にわずかな影が揺れたことに、ファウストは気づかなかった。
「で――。小瓶の中の液体は何だ?」
ファウストは気を取り直し、イリスに小瓶の中に入っていた液体の正体を問い詰める。
「そっ、それは……」
気を取り直したファウストが問い詰めるように声を掛けると、イリスは視線を泳がせ、声を詰まらせた。
「な、なんだっていいでしょ! ローザが……髪が綺麗になるから使えって言ったのよ!」
イリスは早口でまくしたてると、ファウストの手から小瓶をひったくり、ぱちんと音を立てて蓋を閉めた。
「はい、この話は終わり!」
そう言って、湯気の立ちこめる浴場の隅に小瓶を乱暴に置く。
背を向けたイリスの耳が、うっすら赤く染まっていることにファウストは気づいた。
「……耳、赤いけど」
「うっ! うるさい!」
そう返されてしまえば、ファウストもそれ以上は突っ込めない。
ローザはサキュバスとしての力だけでなく魔法薬学にも精通しており、彼女自身が編み出した特別な技術で作る魔法薬や美容薬は即効性があると評判だった。
高値で取引されるほどの人気を誇るのも頷ける。
念のため小瓶の底を覗くと、ローザの作であることを証明するサインがしっかり刻まれていた。
「……まあ、害は無いって確認できたし、大丈夫か」
ファウストの中で一つ引っかかったのは、イリスが受け取った小瓶が、市場に流通している『商品』ではなく、イリスのためだけに作られた薬だということだった。
何か裏があるのかと訝ったが、これ以上疑ってもきりがない。
小瓶を返そうと差し出したその時、逆に小瓶ごと突き返される。
「……やって」
「は? 今度は何だよ……」
思わずファウストは聞き返した。
「だから、やってって言ってるの!」
「え、俺が?」
「そうよ! そのオイルを髪に揉みこんで、最後にクシで梳かすの」
「……分かったよ、やりゃいいんだろ?」
これ以上何か言えば面倒になる。
そう察したファウストは、纏められていたイリスの髪を解き、オイルを手に取って馴染ませた。
「……これでやり方、合ってんのか?」
「んー、多分大丈夫だと思う」
「なんだそりゃ……」
言われるままにオイルを揉み込み、仕上げに櫛を数度通す。
すると、イリスの赤い髪はみるみる潤いを帯び、艶やかに光を放ちはじめた。
「おぉ、すげぇな」
ここまで効果が分かると、ファウストも楽しくなり、何度も櫛を通してしまう。
その様子にイリスは不思議そうに首をかしげた。
「そんなに違う?」
「ああ、全然違う。こう……ヌルッて櫛が通るんだよ」
「ヌルッて。他に表現ないの? ……それにしても、随分手慣れてるじゃない」
感心したように目を細めるイリスに、ファウストは答えず、ただ淡々と櫛を動かす。
指先に伝わる髪の感触が、胸の奥を静かに揺らした。
幼い日の記憶。
妹リュドミラの髪を、毎朝こうして梳いてやったこと。
絡まった髪に小さな手が引っかかって泣き出すたび、優しく櫛を通してやったあの日々。
今、目の前にあるのは違う赤髪。
だが、その懐かしい感触に、ファウストは一瞬だけ遠い日常を重ねてしまった。
「……リュドミラにも、同じように頼まれたことがあるからな」
スラム街で暮らしていた頃、偶然手に入れた櫛や髪留めをリュドミラに渡すと、彼女は跳ねるように喜び、髪を綺麗にしてくれとせがんでくることがあった。
『お兄ちゃん! この髪留め、私にくれるの? やった! 可愛く結んで!』
『ありがとう、お兄ちゃん! どう? 似合う? 可愛い?』
「……懐かしいな」
厳しい生活の中、リュドミラの笑顔だけが支えだった。
その笑顔の記憶は、どれほどの月日が流れようと決して色褪せることのない、大切な宝物だった。
「何か言った?」
「……いや。何でもねぇよ」
ファウストはふと胸をよぎった記憶を振り払い、意識を手元の作業へと戻した。
イリスはそれ以上は何も聞かず、ただ静かに櫛を通される感触を受け入れていた。




