エピソード 14
イリスの掌に収まった心臓は、赤黒い血を滴らせながら規則正しく脈打っていた。
それは人間の臓器と何ひとつ変わらない。
だが――あまりにむき出しで、あまりに生々しいその姿は、目を逸らせないほどの不気味な美しさを帯びていた。
「――さあ、契約を完成させましょ。この契約で必要なのはお互いの心臓
イリスは唇に笑みを浮かべ、わざとからかうような声音で囁いた。
「まさか、この期に及んで心変わりなんてしないわよね?」
「するわけないだろ」
ファウストは短く即答した。
迷いも揺らぎもないその言葉に、イリスはくすりと小さく笑みを零す。
「そうこなくっちゃ」
唇に楽しげな笑みを浮かべ、まるで待ち望んでいた答えを得たかのように、くすりと笑う。
次の瞬間、白い指先がファウストの胸を抉った。
「っ、カハッ―――」
ファウストの胸から、熱い血がどっと溢れ出す。
イリスの指は肋骨を押し広げるように沈み込み、やがて脈打つ臓器を掴み取った。
心臓が引きずり出されると、鮮血が飛沫となって宙を散らし、イリスの頬や唇を赤く濡らす。
イリスはそれを気にも留めず、妖艶に微笑んだまま心臓を掲げた。
「これは……」
微笑みは一瞬で崩れ去り、嫌悪を剥き出しにする。
次の瞬間、イリスの身体の奥底から負のオーラが噴き出した。
それはファウストが戦場で相まみえた魔族の気配など比べものにならないほど濃く、全身が強張り、冷や汗が滴り落ちる。
「っ――――」
やがてイリスは我に返ったようにオーラを収め、鋭い視線をファウストへと向ける。
そして静かに、だが突き刺さる声でファウストへ問いを投げかけた。
「これを、いつ……。どこで?」
イリスの手に収められているファウストの心臓には、『アドルフ』という名が刻まれていた。
「なっ……」
その名を見たファウストは息を呑む。
だが、驚きの奥にはどこか覚えのある気配が潜んでいた。
「これは、『服従の呪い』と言って、呪いをかけた相手を使役する事ができる、古くから魔界に伝わる厄介な術なの。本来は魔族しか扱えないはずなのに、どうして人間が……」
イリスはしばらく、名前が刻まれたファウストの心臓を見つめていた。
「……あの時、確かに呪いは解いたはずなのに。まさか、二重にかけてあるなんて」
小さくため息をつき、吐き捨てるように呟いた。
「……こんな心臓、要らない」
その瞬間、心臓を握るイリスの手から炎が噴き上がり、ファウストの心臓は一瞬で燃え尽き跡形もなく灰となって消えた。
「ほんと、余計な事ばかり……。新しく作り直さなきゃ」
そう言うとイリスは、ファウストの胸の裂け目からとめどなく溢れる血に指をさした。
イリスが血に指を触れた瞬間、重く流れていた血は意思を宿したかのように彼女の指先へ集まり、宙に浮かびながら渦を描く。
赤黒い流れはゆっくりと形を変え、一つの器官を描き出し、やがて動する心臓となった。
「し、心臓を……作ったのか!?」
血が心臓へ変わる異様な光景にファウストは思わず目を見開く。
ファウストの反応を楽しむかのように、「んふふっ」と子供っぽい笑いをもらした。
イリスの口元には、満足げな歪んだ笑みが浮かんでいる。
「どう? 驚いた? 私に出来ない事なんてないんだから!」
血で形作られた心臓は、どくん、どくんと確かに脈動していた。
「……本当に、動いてる……」
「この私が、偽物なんて作るわけないでしょ?」
ファウストは未だ脈打ち続ける心臓をまじまじと見つめていると、イリスが突然声を荒らげた。
「あーっ! アンタ治ってきてるじゃない!」
イリスはファウストの胸元を指さす。
裂け目に淡い光が集まり、砕かれた骨を繋ぎ合わせるように瞬きながら、ゆっくりと傷を癒していた。
「アンタの再生能力、本当にどうなってんのよ! ほら、急ぐわよ!」
先ほどまでの厳かな空気は一変した。
イリスは修復されつつあるファウスト胸の裂け目に、自分の心臓をねじ込むように押し込み、同時に、ファウストの血から作り出した心臓を自分の胸に埋め込んだ。
「ふぅー、間に合った」
すると、ぽっかりと穴が空いたファウストとイリスの胸元に淡い光が帯び、裂かれた肉や皮膚がゆっくりと修復されていく。
肉が蠢き、鼓動と鼓動が重なり合い、ひとつのリズムを刻み始める。
その瞬間、禍々しい光が二人を包み込んだ。
皮膚の下で何かが這い回るような感覚だけが走り、やがてファウストの胸元に赤黒い紋様が浮かび上がる。
紋様は複雑に絡み合い、契約の証として鮮烈に刻まれていく。
ファウストは本能で理解した。
それは血と命で刻まれた契約の烙印。
二度と消えることのない証だと。
「これで、儀式は終了。魔力の源である心臓を交換したから、新しい魔力が体内に流れ始めれば、お互いの魔法や魔力が使えるようになるわ」
傷跡ひとつ残らず元の姿に修復された胸元を見つめ、イリスは呟く。
「やっぱり、アンタの再生能力……治癒魔法なんかじゃ説明がつかないわ」
その冷たい囁きが重く響いた。
「…………なんか、変ね。この魔力」
イリスはファウストとお揃いの烙印が刻まれた胸に手を当て、首をかしげる。
「この魔力は……私と似ている。いや、少し違う?」
「魔力が似てるって……どういう事だよ」
戸惑いを隠せないファウストの声が震える。
「……魔力の性質はその人によって異なるの。なのにアンタの中に流れてる魔力と私の魔力が似てるなんて……。こんなの、初めてよ」
ふと、イリスは頬に飛んだファウストの返り血を指で拭い、そのまま口元へと運んだ。
「なっ……! 何してんだよ!」
突然の行動に、思わず声を荒らげるファウスト。
イリスは眉をひそめ、ぽつりと呟いた。
「……二種類の魔力?」
それだけ言うと、イリスは口を静かに閉ざし、ジロリとファウストを射抜くように見つめた。
「……こんなの、おかしい」
その瞬間、イリスの瞳がねじれるように揺らぎ、金色から薄緑へと変貌した。
「な……っ、色が変わった!?」
たじろぐファウストを意にも介さず、黄緑に染まった瞳で品定めするかのようにファウストを見つめる。
「な、なんだよ……」
「静かにして。集中してるから……」
イリスの瞳が細められる。
「あら、アンタの父親は普通の人間なのね。母親は…………」
するとイリスの表情がわずかに曇り、怪訝な眼差しがファウストに注がれる。
「……ねぇ、アンタの母親って、本当にただの人間?」
「……は? 何を、言ってるんだ……?」
イリスの言葉の真意は、まるで掴めない。
理解しようとしたところで、相手は魔界の王。
その視線を受け、ファウストの胸にこれまで感じたことのない緊張が走る。
「今、魔眼を使ってアンタの魔力のルーツを調べてるんだけど……」
「魔力の、ルーツ?」
「アンタの中に流れる魔力には、魔界の気配とはまた別にもう一つの力を感じるの。魔力は親の遺伝に似ることがあるけど……。こんなの、有り得ない」
イリスは続ける。
「アンタのこと、普通の人間じゃないって言ったけど……。普通じゃないのは、むしろアンタの母親ね」
イリスは小さくため息を漏らした。
「だいたい、人間に二種類の魔力が流れてるなんて、それ自体がおかしいのよ」
黄緑色の瞳は、やがて本来の金色に戻っていく。
「ハァー。もういいわ……。謎が多すぎる。私一人では正直、手に負えないわ。アンタを魔界に連れて来て正解だったわね」
イリスはファウストの胸元にそっと触れる。
「アンタの中にある私の心臓がきっと役に立つわ。魔界にいれば、アンタや母親の正体、リュドミラが天界へ連れ去られた理由……その全てがきっと分かるはずよ」
「俺の……正体……?」
「……最初は苦しいかもしれないけど、私の心臓、大切にしてね」
イリスは満足そうに目を細め、唇の端をわずかに吊り上げる。
その表情は、長い時間をかけて獲物を手中に収めた者のものだった。
ようやく、ファウストは自分のものになったのだと。




