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天魔の血脈  作者: 黒ひげの猫
王都断罪編 ①
14/44

エピソード 13

 黒泉で体を休めた事で、わずかながら体力を取り戻したファウストに、イリスは声をかけた。


「――さ、もういい頃なんじゃない?」

 

 ファウストの返事を待つ間もなく、イリスはパチリと指を鳴らす。

 その瞬間、ファウストの視界がふっと暗転し、次に気づいた時には先程までいたベッドのある部屋に戻っていた。


「っ――――」

 

 ふわりと腰が沈むほどの柔らかいベッドの感触。

 一瞬思考が追いつかなかったファウストは、遅れて気づく。

 

「…………転移魔法か」


 これは瞬時に移動する魔法。

 イリスが発動したのだと。

 しかも、それだけでは終わらない。

 濡れていたはずの髪も衣服も、全て乾いた状態になっている。

 転移魔法だけでも高度な術式。

 転移魔法と他の魔法を複合して同時に行使するその力量に、嫌でも思い知らされる。

 やはり、イリスは魔界を統べる王なのだと。


「まどろっこしいのは嫌いだから、単刀直入に言うわね」


 混乱を隠しきれないファウストをよそに、イリスはまっすぐ彼の瞳を見据えた。


「――アンタの妹、リュドミラは生きてるわ」


「……は?」


 その一言に、ファウストの思考は凍りついた。

 胸の奥で心臓が一拍遅れ、血の流れさえ止まったかのように感じる。

 呼吸は浅く、喉が焼けつくように乾き、口を動かしても声にならない。


 ――リュドミラ。


 頭の中に浮かんだのは、処刑場のあの光景。

 黒焦げの塊となった妹の姿。

 アドルフが冷酷に吐き捨てた言葉と共に刻まれた絶望。

 だが今、イリスの口から放たれたのは、その絶望を覆す言葉。

 信じたい。

 いや、信じてしまいたい。

 だがあの時に目にしたものは、あまりにも残酷な現実だった。

 心の奥で「あり得ない」と叫びながら、同時に「もし本当なら」という希望が火種のように灯ってしまう。

 イリスの声音には一切の感情がない。

 だからこそ、その冷徹さが真実味を帯び、ファウストの胸を抉る。

 疑いと願いがせめぎ合い、心は引き裂かれるように揺れ動いた。


「……俺を騙そうとしてんのか」

 

 絞り出した声は、震えを帯びていた。

 自分でも気づかぬほどに、怒りと恐怖と希望が入り混じっていた。

 そんなファウストを見ても、イリスは一切取り合わない。

 表情も声色も変えず、ただ事務的に言葉を返した。


「なら、確かめてみる?」


 その声音には挑発もなく、ただ当然の提案のような平静さがあった。

 するとイリスはふわりと宙に手を翳すと、光の粒が円を描くように広がっていく。


「私が見た光景、そのまま見せてあげる」


 イリスの言葉と共に、光が揺らめき幕のように形を成す。

 そこに浮かび上がったのは、イリスが実際に目撃した光景だった。

 逃げ惑う群衆から現れた白い翼が背中に生えた男。

 黒く焦げたリュドミラは、その男が発生させた風に包まれていた。

 やがて焼け爛れたリュドミラの肌がゆっくりと修復され、閉じていた瞼が揺れる。

 僅かな息。

 そして次の瞬間、リュドミラは驚いたように目を開いた。

 混乱している様子のリュドミラを男は抱き起こす。

 男は大きな翼をはためかせると、リュドミラを抱えたまま天へと昇っていった。

 残されたのはただの余韻だけ。

 宙に映し出された映像は、淡い光の粒に戻り霧のように消え去った。


「リュドミラっ!」


 間違いない。

 リュドミラだ。

 死んだと思っていた。

 いや、死んだはずの妹が、息を吹き返している。

 ファウストの張り詰めていた緊張がふっと解けた。

 胸の奥を締めつけていた重苦しさが消え、溢れてくるのは安堵だけ。

 妹は生きていた。

 それだけで、どれほど救われることか。


「リュドミラっ……リュドミラ」

 

 だが同時に、疑問が胸を突き刺す。

 リュドミラはどこへ消えてしまったのか。

 あの白い翼の男は何者で、彼女をどこへ連れ去ったのか。

 安堵と不安が交錯し、ファウストの心は落ち着きを取り戻すどころか、さらに大きく揺さぶられていった。


「あの男は、いったい何者なんだ」


 妹を救った存在。

 だが同時に、彼女を連れ去った張本人でもある。

 イリスに問いかける声は震え、抑えきれない怒りと不安が滲んでいた。

 ファウストの問いに、イリスは視線を逸らさず静かに答えた。

 

「――天の眷属。人の理から外れた存在よ。神に仕える者か、それとも……その意志を代行する者か」


 淡々とした声音には揶揄も挑発もない。

 ただ事実を並べるだけ。

 だからこそ、その言葉の重みが胸に沈む。


「少なくとも、あれは人間でも魔族でもない。“天”の側に属する者……そう考えて間違いないわ」


「て、天ってどういう事だよ」


 ファウストの声は震え、動揺を隠せない。

 理解を超えた単語に、喉がひきつり胸がざわめく。

 イリスは一歩も揺らがぬ瞳で、短く言い放った。


「――つまり、女神族よ」


 それ以上の説明はない。

 淡々と断言するだけの声音が、かえって真実味を帯びて胸を抉る。

 女神族――。

 その名だけが、重く心に残った。


「女神族って……そんなの聞いた事ないぞ!」


 ファウストの声には、困惑と苛立ちが入り混じっていた。

 リュドミラを連れ去った得体の知れない存在。

 認めたくない思いが、言葉を荒げさせる。


「……そりゃそうよ。女神族なんて、基本、人間の前には現れないもの」


 イリスはさらりと言い切ると、わずかに肩をすくめて続けた。


「でも、魔族が存在するんだから、女神族が存在するのも当然でしょ」

 

 あまりにも当たり前のことを口にするような声音。

 その冷淡な理屈が、逆にファウストの胸をざわつかせた。

 説明は最小限。

 それ以上を語る気配すら見せないイリスの態度が、逆に真実味を増していく。


「人の前に現れないって、そんなのどうやってリュドミラを……」


 ファウストの声は掠れて震えていた。

 人ならざる存在が、なぜ自分の妹に手を伸ばしたのか。

 イリスは瞳を細め、低く呟く。


「――だからこそ、余計に厄介なのよ」


 短い言葉。

 説明を省きながらも、その声音には揺るぎない確信があった。

 女神族がリュドミラに関わる理由。

 そこに触れようとしないイリスの態度が、逆に真実の重さを際立たせる。


「ね、私と取引しない?」


 イリスの口から放たれたのは、あまりにも突拍子もない言葉だった。

 ファウストの思考が一瞬止まり、次いで警戒の色が強く胸をよぎる。

 リュドミラの生存を示された直後だからこそ、その提案は甘美であり、同時に危険な響きを帯びていた。


「取引って、ふざけてんのか」


 怒気を含んだ声が、思わず口を突いて出た。

 リュドミラを盾に揺さぶろうとするのか。

 胸の奥に怒りと警戒が渦巻く。

 だがイリスは微笑すら浮かべず、ただ淡々と返す。

 

「ふざけてなんかないわよ」


 静かな声。

 その落ち着きこそが、逆に本気であることを嫌でも思い知らせる。


「女神族が相手だとしても、リュドミラを取り戻す。そうでしょ?」


 問いかけの形を取ってはいるが、その実、答えを求めてはいない。

 ファウストが否定しない事を分かったうえで、断定するように口にしている。

 そして、間を置かずに続けた。


「私も、協力してあげる。女神族を相手するなら魔王の私の力が必要になるはずよ」

 

 イリスは淡々と告げた。

 だが、続く言葉が甘い申し出だけではないことを、ファウストはすぐに悟る。


「魔王の私の手を取るということは――もう二度と後戻りできないわよ?」


 イリスの声は冷徹で、逃げ道を断ち切る宣告のように響いた。


「……それでもいい。リュドミラを取り戻せるなら、俺は迷わない」


 ファウストの言葉は静かで、その声音には、一片の揺らぎもなかった。

 それは誓いであり、祈りであり、決して曲がることのない覚悟そのものだった。


「……そう」


 イリスは淡々と相槌を打つ。

 

「――ならいいわ。私と取引……。いえ、契約をしましょ」


 イリスは一瞬のためらいもなく、自らの胸元へと爪を突き立てた。

 鋭い感触が肉を裂き、胸を抉るように深く食い込む。

 次の瞬間、傷口から紅い血が溢れ出し、指先を濡らして滴り落ちた。

 

「魔王との契約は、いつだって血で彩られるもの。――欲望と引き換えに血を捧げる、それが悪魔との掟よ」


 イリスの指先がさらに深く胸を抉る。

 ずぶり……ぐちゅりと湿った音が響き、赤黒い血が白くて綺麗な指を汚した。

 常ならば悲鳴を上げるような行為の最中に、イリスは微笑を浮かべていた。

 痛みの気配など微塵もない。

 むしろ妖艶な笑みを湛え、契約の儀を楽しむかのようにさえ見える。

 肉が裂ける音と共に、真紅の臓器が掌に掴み取られた。

 それは驚くほどに、人間と同じ心臓だった。


「さあ……ここに血判を。悪魔の契約は、いつだって血と心臓で結ばれるものなの」


 妖艶な微笑みを浮かべるイリスの手の中で、人間と変わらぬ心臓が脈動する。

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