エピソード 13
黒泉で体を休めた事で、わずかながら体力を取り戻したファウストに、イリスは声をかけた。
「――さ、もういい頃なんじゃない?」
ファウストの返事を待つ間もなく、イリスはパチリと指を鳴らす。
その瞬間、ファウストの視界がふっと暗転し、次に気づいた時には先程までいたベッドのある部屋に戻っていた。
「っ――――」
ふわりと腰が沈むほどの柔らかいベッドの感触。
一瞬思考が追いつかなかったファウストは、遅れて気づく。
「…………転移魔法か」
これは瞬時に移動する魔法。
イリスが発動したのだと。
しかも、それだけでは終わらない。
濡れていたはずの髪も衣服も、全て乾いた状態になっている。
転移魔法だけでも高度な術式。
転移魔法と他の魔法を複合して同時に行使するその力量に、嫌でも思い知らされる。
やはり、イリスは魔界を統べる王なのだと。
「まどろっこしいのは嫌いだから、単刀直入に言うわね」
混乱を隠しきれないファウストをよそに、イリスはまっすぐ彼の瞳を見据えた。
「――アンタの妹、リュドミラは生きてるわ」
「……は?」
その一言に、ファウストの思考は凍りついた。
胸の奥で心臓が一拍遅れ、血の流れさえ止まったかのように感じる。
呼吸は浅く、喉が焼けつくように乾き、口を動かしても声にならない。
――リュドミラ。
頭の中に浮かんだのは、処刑場のあの光景。
黒焦げの塊となった妹の姿。
アドルフが冷酷に吐き捨てた言葉と共に刻まれた絶望。
だが今、イリスの口から放たれたのは、その絶望を覆す言葉。
信じたい。
いや、信じてしまいたい。
だがあの時に目にしたものは、あまりにも残酷な現実だった。
心の奥で「あり得ない」と叫びながら、同時に「もし本当なら」という希望が火種のように灯ってしまう。
イリスの声音には一切の感情がない。
だからこそ、その冷徹さが真実味を帯び、ファウストの胸を抉る。
疑いと願いがせめぎ合い、心は引き裂かれるように揺れ動いた。
「……俺を騙そうとしてんのか」
絞り出した声は、震えを帯びていた。
自分でも気づかぬほどに、怒りと恐怖と希望が入り混じっていた。
そんなファウストを見ても、イリスは一切取り合わない。
表情も声色も変えず、ただ事務的に言葉を返した。
「なら、確かめてみる?」
その声音には挑発もなく、ただ当然の提案のような平静さがあった。
するとイリスはふわりと宙に手を翳すと、光の粒が円を描くように広がっていく。
「私が見た光景、そのまま見せてあげる」
イリスの言葉と共に、光が揺らめき幕のように形を成す。
そこに浮かび上がったのは、イリスが実際に目撃した光景だった。
逃げ惑う群衆から現れた白い翼が背中に生えた男。
黒く焦げたリュドミラは、その男が発生させた風に包まれていた。
やがて焼け爛れたリュドミラの肌がゆっくりと修復され、閉じていた瞼が揺れる。
僅かな息。
そして次の瞬間、リュドミラは驚いたように目を開いた。
混乱している様子のリュドミラを男は抱き起こす。
男は大きな翼をはためかせると、リュドミラを抱えたまま天へと昇っていった。
残されたのはただの余韻だけ。
宙に映し出された映像は、淡い光の粒に戻り霧のように消え去った。
「リュドミラっ!」
間違いない。
リュドミラだ。
死んだと思っていた。
いや、死んだはずの妹が、息を吹き返している。
ファウストの張り詰めていた緊張がふっと解けた。
胸の奥を締めつけていた重苦しさが消え、溢れてくるのは安堵だけ。
妹は生きていた。
それだけで、どれほど救われることか。
「リュドミラっ……リュドミラ」
だが同時に、疑問が胸を突き刺す。
リュドミラはどこへ消えてしまったのか。
あの白い翼の男は何者で、彼女をどこへ連れ去ったのか。
安堵と不安が交錯し、ファウストの心は落ち着きを取り戻すどころか、さらに大きく揺さぶられていった。
「あの男は、いったい何者なんだ」
妹を救った存在。
だが同時に、彼女を連れ去った張本人でもある。
イリスに問いかける声は震え、抑えきれない怒りと不安が滲んでいた。
ファウストの問いに、イリスは視線を逸らさず静かに答えた。
「――天の眷属。人の理から外れた存在よ。神に仕える者か、それとも……その意志を代行する者か」
淡々とした声音には揶揄も挑発もない。
ただ事実を並べるだけ。
だからこそ、その言葉の重みが胸に沈む。
「少なくとも、あれは人間でも魔族でもない。“天”の側に属する者……そう考えて間違いないわ」
「て、天ってどういう事だよ」
ファウストの声は震え、動揺を隠せない。
理解を超えた単語に、喉がひきつり胸がざわめく。
イリスは一歩も揺らがぬ瞳で、短く言い放った。
「――つまり、女神族よ」
それ以上の説明はない。
淡々と断言するだけの声音が、かえって真実味を帯びて胸を抉る。
女神族――。
その名だけが、重く心に残った。
「女神族って……そんなの聞いた事ないぞ!」
ファウストの声には、困惑と苛立ちが入り混じっていた。
リュドミラを連れ去った得体の知れない存在。
認めたくない思いが、言葉を荒げさせる。
「……そりゃそうよ。女神族なんて、基本、人間の前には現れないもの」
イリスはさらりと言い切ると、わずかに肩をすくめて続けた。
「でも、魔族が存在するんだから、女神族が存在するのも当然でしょ」
あまりにも当たり前のことを口にするような声音。
その冷淡な理屈が、逆にファウストの胸をざわつかせた。
説明は最小限。
それ以上を語る気配すら見せないイリスの態度が、逆に真実味を増していく。
「人の前に現れないって、そんなのどうやってリュドミラを……」
ファウストの声は掠れて震えていた。
人ならざる存在が、なぜ自分の妹に手を伸ばしたのか。
イリスは瞳を細め、低く呟く。
「――だからこそ、余計に厄介なのよ」
短い言葉。
説明を省きながらも、その声音には揺るぎない確信があった。
女神族がリュドミラに関わる理由。
そこに触れようとしないイリスの態度が、逆に真実の重さを際立たせる。
「ね、私と取引しない?」
イリスの口から放たれたのは、あまりにも突拍子もない言葉だった。
ファウストの思考が一瞬止まり、次いで警戒の色が強く胸をよぎる。
リュドミラの生存を示された直後だからこそ、その提案は甘美であり、同時に危険な響きを帯びていた。
「取引って、ふざけてんのか」
怒気を含んだ声が、思わず口を突いて出た。
リュドミラを盾に揺さぶろうとするのか。
胸の奥に怒りと警戒が渦巻く。
だがイリスは微笑すら浮かべず、ただ淡々と返す。
「ふざけてなんかないわよ」
静かな声。
その落ち着きこそが、逆に本気であることを嫌でも思い知らせる。
「女神族が相手だとしても、リュドミラを取り戻す。そうでしょ?」
問いかけの形を取ってはいるが、その実、答えを求めてはいない。
ファウストが否定しない事を分かったうえで、断定するように口にしている。
そして、間を置かずに続けた。
「私も、協力してあげる。女神族を相手するなら魔王の私の力が必要になるはずよ」
イリスは淡々と告げた。
だが、続く言葉が甘い申し出だけではないことを、ファウストはすぐに悟る。
「魔王の私の手を取るということは――もう二度と後戻りできないわよ?」
イリスの声は冷徹で、逃げ道を断ち切る宣告のように響いた。
「……それでもいい。リュドミラを取り戻せるなら、俺は迷わない」
ファウストの言葉は静かで、その声音には、一片の揺らぎもなかった。
それは誓いであり、祈りであり、決して曲がることのない覚悟そのものだった。
「……そう」
イリスは淡々と相槌を打つ。
「――ならいいわ。私と取引……。いえ、契約をしましょ」
イリスは一瞬のためらいもなく、自らの胸元へと爪を突き立てた。
鋭い感触が肉を裂き、胸を抉るように深く食い込む。
次の瞬間、傷口から紅い血が溢れ出し、指先を濡らして滴り落ちた。
「魔王との契約は、いつだって血で彩られるもの。――欲望と引き換えに血を捧げる、それが悪魔との掟よ」
イリスの指先がさらに深く胸を抉る。
ずぶり……ぐちゅりと湿った音が響き、赤黒い血が白くて綺麗な指を汚した。
常ならば悲鳴を上げるような行為の最中に、イリスは微笑を浮かべていた。
痛みの気配など微塵もない。
むしろ妖艶な笑みを湛え、契約の儀を楽しむかのようにさえ見える。
肉が裂ける音と共に、真紅の臓器が掌に掴み取られた。
それは驚くほどに、人間と同じ心臓だった。
「さあ……ここに血判を。悪魔の契約は、いつだって血と心臓で結ばれるものなの」
妖艶な微笑みを浮かべるイリスの手の中で、人間と変わらぬ心臓が脈動する。




