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天魔の血脈  作者: 黒ひげの猫
王都断罪編 ①
13/44

エピソード 12

「ま、魔力? 俺はそんなモノ、持っていない」


 ファウストを見つめるイリスの目は、まるで「コイツは何を言っているんだ?」と物語っていた。


「もしかして……アンタ、自分が普通の人間だって思ってるの?」


 イリスの唇が皮肉めいた笑みを形作る。


「アンタの身体を流れてるのは、ただの血じゃない。魔力を持たない人間なら、魔界の空気を吸った瞬間に内側から焼き尽くされてるはずよ。でも、アンタは生きてる。それが普通の人間じゃない証拠ね」


 イリスの言葉が、頭の中で何度も反響する。

 「普通の人間じゃない」という一言が、冷たい杭のように胸に突き刺さった。

 理解が追いつかず、ファウストは思わず眉をひそめる。


「じゃあ、俺は……何なんだ?」


 ファウストは自分が発した声が、ひどく遠くに聞こえた。


「それは――」

 

 一拍置いて、イリスはわざとらしく肩をすくめた。

 

「知りたいことは山ほどあるんでしょ? でも、その前にやることがあるわ」

 

 そう言って、イリスはファウストをじっと見つめた。

 紅い瞳が一瞬だけ真剣な光を宿したかと思うと、ふっと口元が緩む。


「――で、そのためにまずやること。分かる?」


「……やること?」


「決まってるじゃない」

 

 イリスはにやりと笑い、パチンと軽く指を鳴らす。

 その瞬間だった。

 何かが、反転する。

 ベッドがふっと消えた感覚に襲われ、視界がぐらりと傾いた。

「……あ?」と思った瞬間、全身を柔らかな温もりが包み込み、視界が暗く染まる。


 ドボンッ――


 盛大な音を立てて落ちた先は湯。


「ぶはっ……!?」

 

 水飛沫と共に飛び起きたファウストが周囲を見渡すと、その湯は夜空をそのまま閉じ込めたような深い黒色で、波紋のひとつひとつが銀のきらめきを帯びている。

 湯は驚くほど滑らかで、肌に触れると心地よい重みがのしかかる。

 熱すぎず、ぬるすぎず、体の芯を優しく温める温度。

 ひと息吸い込めば、薬草と鉱石のほのかな香りが肺に満ち、痛みや疲れが溶けていくようだった。


「痛みが……消えてく?」


 さきほどまで咳き込んでいた胸が、次第に楽になっていく。

 湯の中には淡く光る粒子が漂い、ゆらゆらと揺れながらファウストの身体にまとわりついた。

 粒子は肌に触れると溶けるように消え、

 そのまま体の内側へと吸い込まれていく。

 呼吸をするたび、胸の奥に溜まっていた重さが、静かにほどけていった。

 

「……普通の、お湯じゃない」


 張りつめていた神経が、一本ずつほどけていく。

 体の奥で固まっていた感覚がゆっくりと緩み、失われていた力が、静かに戻ってくるのが分かった。

 つい先ほどまでは、呼吸をするだけで精一杯だった。

 肺を動かすことすら意識しなければならず、ただ生きるために息を吸って、吐いているだけだった。

 それが今は、違う。

 呼吸は自然に巡り、指先に確かな力が宿る。

 思うままに手を動かし、身体を起こすことができる。

 自分の意思で、再び身体を動かせる。

 その感覚が、確かに戻ってきていた。

 

「……ふぅ……」


 するりと張り詰めていた緊張感が解れ、吐息を漏らす。

 すると、ファウストが落とされた所からふわりとイリスが降り立った。


「ようこそ、魔界の大浴場へ。……回復にはちょうどいいでしょ?」


 イリスは口元を愉快そうに歪めた。


「少しは、呼吸が楽になったんじゃない?」


「……ああ。確かに、体の中に“何か”が戻ってきてる感覚はある」


 ファウストは、腕を持ち上げ、拳を握ってみる。

 まだ力は弱々しいが、手が震えずに動くことに、小さく息を飲んだ。


「その湯は……黒泉こくせんと呼ばれているわ」


 イリスの声は、湯気に溶けるように低く響いた。


「魔界の地脈を流れる水脈に、数千年をかけて薬草と鉱石が溶け合い、さらに大地そのものの魔力が溶け込んで生まれた泉。疲弊した魂すら魔力で満たされる」


 イリスは指先ですくった雫をファウストに見せる。

 その黒い滴は淡い蒼光をきらめかせた。


「だからこそ、黒泉に入ることを許されているのは、魔界でもほんの一握りなの」

 

「でも……正直……気持ち悪い」


 湯に溶けた魔力が、呼吸と共に肺へ皮膚からは血流へと染み込んでいく。

 その力を受け入れてはいるが、自分のものではないと体が認識している。

 それを察したか、イリスはクスッと笑う。


「魔界の魔力は、“性質”が違うからね。嫌がるのも無理ないけど……そのうち慣れるわよ」

 

 そう言って笑ったイリスの表情に、ふと陰りが射す。

 その瞳はどこか遠くを見つめていて、微かな寂しさを湛えていた。

 ファウストはその空気を感じ取り、湯の中で身を起こしながら静かに問いかける。


「イリス……お前って、何者なんだ?」


 問いかけに、イリスはわずかに目を細めた。

 湯気の向こう、その金色の瞳が一瞬、きらりと煌めいた。

 そして、どこか冗談めかしながらも、乾いた声音で答える。


「私? ……私はね、魔王よ」


 あまりにも軽やかに、あまりにも自然に告げられたその言葉。

 だが、冗談には聞こえなかった。

 ファウストは小さく息を呑み、湯気の向こうにいるイリスの姿をじっと見つめる。


「…………魔王、イリス・イェルムヴァレーン。想像と違った?」


 イリスは唇の端を持ち上げ、クスリと笑った。

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