エピソード 11
「んっ…………」
目覚めると、そこは見慣れない場所だった。
「ここは……」
ファウストはぼやける視界で周囲を見回す。
石造りのだだっ広い空間に、青白く揺れる燭台の火がぼんやりと照らし出されていた。
ファウストが横たわっているのは、一人では持て余すほどに広く、肌触りの良い絹が敷かれたベッド。
まるで貴族どころか、王族すらもためらうほどの豪奢さだった。
「ど、どこなんだ。ここは……」
脳裏に浮かぶ、断片的な記憶。
処刑台、時計塔、アドルフ、そして――リュドミラ。
「リュドミラッ……!」
半ば反射的に体を起こした瞬間、ベッド脇から微かな寝息が聞こえた。
「んー……ぅ……」
視線を向けると、赤髪の女性がベッドに突っ伏して眠っていた。
背中まで流れる髪がさらりと揺れ、睫毛の影が頬に落ちる。
少し幼さを残した寝顔に、年頃の少女らしいあどけなさが見える。
「……誰だ……?」
ファウストの問いに、女性はピクリと身じろぎした。
「あっ……起きてたのね」
ゆっくりと顔を上げた彼女は、ぱちんと瞬きをして、少し気恥ずかしそうに微笑んだ。
「ふふっ、よかった……ずっと寝たきりだったから、心配したのよ?」
その声は、どこか懐かしさすら感じさせる、柔らかな響きだった。
だが――目の奥に、一瞬ぞくりとするような光が走る。
底の見えない闇が、瞳の奥にひっそりと潜んでいるかのようだった。
言葉にできない“違和感”が、ファウストの警戒心を強めていく。
「おはよう、ファウスト」
名も知らぬ相手に名前を呼ばれ、背筋に冷たい緊張が走る。
「……どうして、俺のことを知っている?」
「あれ、私のこと忘れちゃった?」
ファウストが眉をひそめると、彼女はぱちりと瞬きをして、唇を尖らせた。
「ひどいなあ。せっかく助けてあげたのに。まあ、あの時のアンタは意識がなかったし、覚えてないのも無理ないか……」
頬をふくらませて文句を言いながらも、どこか楽しげな声色。
そして、少しだけ間を置いて、穏やかな口調で名乗った。
「私の名前は――」
その声音に、ファウストの脳裏で何かが弾けた。
「……イリス……?」
思わず口をついて出た名前。
ファウストに名をも呼ばれた彼女は、かすかに目を見開く。
「……イリス・イェルムヴァレーン」
ファウストがそう口にすると、イリスはふっと微笑んだ。
「やっと思い出してくれた?」
まるで、再会をずっと待っていたかのように、静かに微笑んだ。
確かに、名は思い出した。
だが、それだけで頭の中の混乱が晴れることはなかった。
「……ここは、どこなんだ!」
霧のような状況は依然として掴みどころがなく、現実の輪郭さえ曖昧なまま。
混乱と警戒が入り混じる中、ファウストは声を荒げて問う。
その鋭い声に、イリスは「あーあ」と言いたげに眉をひそめ、やれやれといった風にため息をついた。
「そんなに無理しちゃダメだって言おうとしたのに……ほら、もう……」
その言葉を最後まで聞く前に、ファウストの喉奥から熱いものがこみ上げる。
――ゴプッ、ゲボッ。
次の瞬間、ベッドの上に真紅の飛沫が散った。
激しく咳き込みながら、大量の血を吐き出すファウスト。
呼吸は乱れ、肺の奥が焼けつくように痛む。
「……あーあ、やっぱりね。魔力、完全に切れてるじゃない。アンタの身体」
イリスは、どこか他人事のように呟きながらも、心配そうに顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「ゲホッ、ゲボッ――」
呼吸を乱し、血混じりの咳を繰り返すファウストに、イリスは無邪気な微笑みを浮かべたまま、ひとつ首をかしげた。
「ねぇ、気づいてないの? ここがどこか……ここは魔界よ?」
「ま、魔界……?」
「血を吐いたのも、ファウストの体に魔力が全く残っていないから」
イリスは静かに立ち上がり、ベッドの端にそっと腰を下ろす。
細い指先が、ファウストの額に滲んだ汗を優しく拭った。
すると、イリスの指先からほのかに光が漏れる。
ぬくもりの代わりに、どこか異質な気配を帯びた、無機質な輝きだった。
光る指先はそっとファウストの頬に触れる。
そして――イリスの指先から、「トクン」と何かが体内に流れ込む感覚が走る。
それは血でも毒でもない。
だが確かに、“自分ではない何か”が体内に侵入してくる。
「今のアンタの状態にこの処置はあまり良くないけど……辛そうだから少しだけ、私の魔力を分けてあげる」
トクン、トクンと、力がファウストの体内を駆け巡る。
「このまま放っておくと――“本当に”死んじゃうよ?」
ファウストの喉がひくりと鳴った。
肺の奥が焼けつくように熱を持ち、まだ残っていた血を、こみ上げるように吐き出した。
「ほら、言ったでしょ……無理しちゃダメなんだから」
イリスは淡々とした口調で続ける。
「今のアンタは、魔力を持たないただの人間。魔力が無い状態で魔界の空気吸うなんて……猛毒ガスの中で深呼吸してるようなもんよ?」
イリスの言葉にファウストは眉間に皺を寄せ、わずかに口を開いたまま固まった。




