エピソード 9
「っ……」
汗一つでも落とせば、ほんのわずかでも身じろぎすれば得体の知れない何かに首を刎ねられる。
そんな錯覚を起こさせるほどの、息の詰まるような緊張がアドルフたちを覆った。
だが、アドルフにも誇りがあった。
「きっ、貴様はいったい何者なんだっ!」
自らを奮い立たせるように、アドルフは恐怖に抗いながら胸を張る。
――天空の覇者、ドラゴンを従える謎の女が相手でも、今この場には大勢の観衆、そして王である父がいる。
無様な姿を晒すことなど、あってはならない――。
たとえこの場で斬り捨てられることになったとしても、恐怖に屈した姿を、国民の前で見せるわけにはいかなかった。
「質問をしているのは――私だ」
女性が華奢な手をアドルフに向けてすっと翳した、その瞬間だった。
騎士たちがドラゴンに向けて構えていた剣が、するりと手元から抜け落ち、まるで意思を持ったかのように宙を舞い上がった。
十数本の剣が、カチャリと音を立てながら空中で向きを変え、すべての剣先がアドルフを真っ直ぐに狙う。
「なっ、なに……!? ど、どうなっている……っ! まさか……」
目の前で繰り広げられる信じがたい光景に、アドルフの背筋が凍る。
思考が否応なく導き出した“ある種族”の存在に、彼は目を見開いた。
あり得ない。
そんなはずはない。
そう心の中で何度否定しても、剣先は容赦なくジリジリと距離を詰めてくる。
そして、アドルフが答えを口にするよりも早く、女性が手を振り下ろした。
ザシュッ、ザッ、ザシュッ――
「グッ……!」
鋼の刃が頬をかすめ、腕を裂き、脚を浅く斬りつける。
傷は深くない。
だが、それは明確な警告だった。
「……次はない」
自慢の甲冑ごと斬られた箇所からは、ドクドクと鮮血が溢れ出した。
再び女性がアドルフへと手を翳すと、アドルフの手に握られていた剣までもが意志を持つかのように動き出し、刃先をその胸元へと向ける。
「クソッ――」
得体の知れない力に追い詰められたアドルフは、血走った目でファウストを睨みつけ、怒鳴りつけるように命令を下した。
「命令だっ! ファウスト・ライウス! その女を殺せっ!」
叫ぶと同時に、アドルフは腰の短剣を一閃の動きで抜き放ち、ためらいなく自らの掌に突き立てた。
「っ……!」
歯を食いしばり、顔をしかめながらも痛みに耐えるアドルフ。
傷口からはドクドクと真紅の血が滴り落ち、その鮮血を懐から取り出した“深紅の角笛”へと浴びせる。
「俺の命令は絶対! そうだろ、ファウストッ!」
血飛沫を浴びた角笛は、不気味に蠢きながら、その色を深紅から漆黒へと変えていった。
その瞬間、空気が一変する。
まるで世界そのものが、角笛の変貌に戦慄しているかのようだった。
ブゥォォォォオオオ――
禍々しい音が辺りに鳴り響き、空気が震える。
地の底から這い上がるような、低く、野太い咆哮にも似た音が空気を震わせた。
ただの合図ではない。
命を強制する“呪い”としての音だった。
その重苦しい音が鳴り響いた瞬間、ファウストの胸元に赤黒い紋章が浮かび上がる。
「ゔっ……くっ、ぐはっ……!」
呻き声とともに、ファウストの身体が弓なりに反り返る。
胸元を押さえ、爪が食い込むほどに掻き毟る。
浮かび上がった紋章は角笛と同じ意匠で、脈打つように脅威の存在を誇示していた。
「ファ、ファウスト!?」
驚愕した女性が駆け寄ろうとするも、その紋章から放たれる禍々しい気配に、さすがの彼女も眉をひそめる。
しかし、すぐに鼻で笑った。
「……ふふっ。人間ごときが“私たち”の技を真似るなんて、愚かにも程があるわ」
女性はファウストの胸元へそっと手を当てる。
その掌から淡い白光が溢れ、じわじわと赤い紋章に染み込み始めた。
「大丈夫、もう私がいるから」
――ジュゥゥッ。
何かが焼けるような音と共に、女性の手のひらから白い煙が立ち昇る。
ファウストの胸元に刻まれた紋章は徐々に輪郭を崩し、音もなく霧散していった。
「ファウスト、起きて」
そう呟いた女性がそっと手を離すと、ファウストの胸元に浮かんでいた紋章は跡形もなく消えていた。
眉間に深く皺を刻み、激しく苦悶していたファウストの表情は徐々に和らぎ、やがて苦痛から解放されたようにまばたきを繰り返す。
「っ、リュドミラッ!」
正気を取り戻したファウストは、勢いよく上体を起こすなり、血相を変えて周囲を見渡した。
「リュドミラッ! リュドミラーッ!!」
「ファウスト、落ち着いてっ……!」
女性は突然取り乱したファウストに戸惑いながらも、そっとその身体を抱きとめ、静かに落ち着かせようとする。
けれどファウストはその声に応じず、まるで心のどこかが引き裂かれたように、ひたすらリュドミラの名を叫び続けた。
「リュドミラッ……リュドミラ……っ」
「……ごめんね、ファウスト。今は少し、眠っていて」
女性は悲痛なその叫びに胸を締めつけられながらも、優しくファウストの両目を両手で覆う。
その瞬間、ファウストの瞼がすっと閉じられ、力なくその身体が沈み込むように眠りについた。
「クソッ、クソッ……! なんなんだこれはっ! この力は……“絶対”じゃなかったのかッ!」
切り札であるはずの力を、あっさりと女性に封じられたアドルフは、怒りに任せて叫びながら角笛を睨みつける。
「貴様っ! ファウストに何をしたッ!」
苛立ちの矛先は、やがて女性へと向けられる。
「何をしただって? ――それは、こっちの台詞」
女性の声は、静かでありながら怒気を孕んでいた。
その視線が、黒く焼け焦げたリュドミラの亡骸へと移る。
「あんな……ファウストに惨い仕打ちをしておいて……」
低く、しかし確かな憎しみを滲ませながら、彼女は続けた。
「それに、“紛い物”の血の契約だなんて……この私に通じるはずがないでしょ」
その言葉に、アドルフは目を見開き、怒気と混乱が入り混じったような表情を浮かべる。
「ま、紛い……だと? 貴様、いったい何者なんだ!」
怒声を上げ、アドルフは宙に浮いていた自分の剣を掴み取り、女性に向けて構えた。
それに応えるように、女性はゆっくりと立ち上がり、はっきりとその名を名乗る。
「……私はイリス・イェルムヴァレーン。魔界を統べる者。お前たちの言葉で言えば――“魔王”よ」
「ま、まっ……ま……魔王だとっ!? そんなバカな、そんなの……嘘だッ!!」
アドルフはその場でガクンと膝を突き、まるで背骨から力が抜けたかのように、情けなく地面に崩れ落ちた。
その瞬間、イリスの口から発せられた“魔王”という一語が、広場にいた全ての者に衝撃を与えた。
「ま、魔王……!?」
「嘘だろ……!?」
「逃げろォォォ!!」
誰かの叫び声を皮切りに、群衆が蜘蛛の子を散らすように四方八方へ逃げ出す。
怒号と悲鳴が入り混じり、王都の中心が一瞬にして地獄絵図と化した。
「嘘だって……? なら、私が“魔王”だと証明してあげるわ」
イリスは静かにそう呟くと、アドルフと逃げ惑う人々に向かって、すっと右手を掲げる。
華奢なその掌から、突如として燃え盛る炎が立ち上がった。
「ま、魔法だとっ……!?」
目の前で起こる“人知を超えた現象”に、アドルフの顔から血の気が引いた。
魔族のみが行使するという伝説の力“魔法”を、初めて目の当たりにした瞬間だった。
「アドルフ様っ、早く避難を!」
「こちらです、掴まってくださいッ!」
複数の騎士が駆け寄り、混乱の中でアドルフを抱きかかえるようにしてその場から離れようとする。
イリスの掌に燃え上がった炎は、やがて空気を巻き込みながら徐々に球体へと形を変えていく。
それは、災厄の予兆だった。
だが、魔法が放たれようとしたその刹那だった。
人の背丈ほどもある純白の翼を背に携え、白銀のローブを身にまとった男が、ふわりと空から舞い降りるようにイリスの前へと降り立った。




