エピソード 0
フォルスター王国と魔族の大戦、その最前線の街――ルヴェリア。
空は灰に閉ざされ、焦げた血と焼けた鉄の匂いが風に混ざっていた。
火の粉が降りしきり、瓦礫の上を赤黒い炎が這う。
「痛い、助けて……」
遠くから、誰かのかすれた悲鳴が届く。
「まずは子供と女たちを優先して避難させろ! ここもすぐに戦場になる、急げっ!」
声を張り上げる兵士たちの叫びが、煙の向こうに消える。
まだ動ける者たちは、泣き叫ぶ幼子を抱きしめながら、瓦礫の隙間を縫うように走っていた。
「……おい、ファウスト! 無事かっ!」
肩で息を切らすファウストに仲間が声をかける。
ファウストはゆっくりと顔を上げる。
頬には煤、鎧は裂け、指先は血にまみれている。
それでもファウストは、剣を離そうとしなかった。
「……ああ、なんとか、な」
ファウストの声は掠れていた。
喉に砂が詰まったようで、言葉を吐くだけで肺が軋む。
ファウストの腹部には、まだ浅く開いた傷跡が見えた。
皮膚の下で赤い線が蠢き、じわりと僅かな音を立て肉が塞がっていく。
その異様な光景に、仲間は息を呑んだ。
「っ……お前、それ……傷が――」
言葉を失った仲間の目が、恐怖に染まる。
ファウストはそれを見て、わずかに眉を寄せた。
「見なかったことにしてくれ」
「っ、まさかお前、あの実験の生き残りなのか?」
ファウストは答えなかった。
ただ、よろめく足を無理やり前へ出し、まだ煙の上がる戦場を見渡す。
焼けた空気が喉を焼き、鉄の味が舌に残る。
風が吹いた。
灰が舞い、血の匂いが遠くへ流れていく。
倒れた仲間の名を呼ぶ声が、どこかで微かに響いていた。
「……被害状況は?」
「仲間が、何人か殺られた。街の人たちは……無事だ」
その報告に、ファウストはわずかに目を閉じた。
「そうか。隊長はなんて?」
「撤収すると」
短い返答。
沈黙が落ちる。
「……あぁ。わかった」
すると、街の住人がファウストたちのもとへ駆け寄ってきた。
息を切らし、泥と血にまみれた顔。
蒼白した表情から、ただ事ではないことが起きたのだと、背筋に寒気が走る。
「た、たっ……隊長さんが魔獣に殺られたっ!」
その言葉に、ファウストたちが顔を見合わせた。
敵の数は大分減らした。
だが、煙の向こうには確かに、まだ赤い光が瞬いている。
魔獣の目が、闇の中で不気味に輝いていた。
「クソッ! もうそこまで来てるのかよっ」
若い兵士が悪態をつく。
焦げた風が吹き抜け、焼けた木片が空を舞った。
ファウストは黙って空を見つめる。
空が赤黒く染まり、光の反射で血のように揺らめいていた。
低い唸り声のような風音をたてて空が鳴った。
灰の雲を裂いて、巨大な影がいくつも姿を現す。
風音だと思ったその音は翼の音だった。
焦げた鱗、鉤爪の翼。
夜を飲み込むような群れ。
ワイバーンだ。
「……ワイバーンまでいるのか。厄介だな」
ファウストは煙の向こうを見据え、淡々と呟いた。
その落ち着きが、かえって周囲の仲間たちを凍りつかせる。
「どうするファウストッ! もう、戦えるヤツなんて誰もっ!」
「クソッ! 退路も塞がれたっ!」
空を飛ぶ影が降下し、地上に炎が走る。
木造の屋根が崩れ、逃げ場は瞬く間に炎の壁に変わった。
仲間たちは混乱し、誰かが叫び、誰かが泣いた。
だが、ファウストだけが動かない。
風に灰が舞い、ファウストの金色の髪に絡みつく。
その瞳には恐怖も焦りもなく、ただ「どう倒すか」だけを測る冷たさがあった。
「上空の個体が指揮を取ってる。……まずは、あいつを落とす」
振り向くことなく、ファウストは短く命じた。
「な、なに言って……!? お前、まさか一人で――」
「お前たちは、街の人達を少しでも安全な場所に移動させてくれ」
ファウストは剣を拾い上げた。
刃にこびりついた血を払うこともなく、ただ歩き出す。
「ま、待て、ファウスト! お前、もう立つのもやっとだろ!」
その声は震えていた。
仲間の叫びを背に、ファウストはゆっくりと振り返る。
「殿は俺が務める。後は頼んだぞ」
「ファウストッ!」
言い切ると同時に、ファウストは走り出した。
瓦礫を蹴り、崩れかけた屋根を足場にして跳躍する。
空を裂くワイバーンの影が近づく。
だが、ファウストの視線は一点に定まっていた。
上空を指揮する、ひときわ大きな一体だ。
飛びかかってくるワイバーンの爪が、焔を撒き散らしながら振り下ろされる。
「邪魔すんじゃねぇッ!」
ファウストは身をひるがえし、狭い屋根の縁を蹴ってさらに高く跳ぶ。
刃を前に突き出す。
標的は群れを指揮していたワイバーン。
その翼の付け根、運動を司る肉塊めがけて突き刺した。
――キィィィイインッ
「クソッ! 硬すぎんだろっ」
金属が鳴り、鱗が抉れる。
――ギャアァアアッ!
獣は悲鳴のような叫びを上げて落下を始める。
だが攻撃の衝撃は、確実にファウストにも返ってくる。
――ドォオンッ
着地の衝撃で肩が骨の奥で微かに砕け、胸に鋭い痛みが走る。
血が滲み、嘴に当たった肉が裂ける感触。
それでもファウストは立っていた。
裂けた傷口は、じわりと生肉が盛り上がり始める。
落下してくるワイバーンの影が、炎の中で巨大に揺らめいた。
目を細め、息を一度だけ整える。
――次の瞬間、風が鳴った。
獣が地を穿つよりも早く、ファウストの体が動く。
重力に任せて落ちてくる巨体へ、逆に跳び上がるように踏み込む。
足元の瓦礫が砕け、爆風が舞った。
「ああああああああああッ!!!」
閃光のような一撃。
ファウストの剣が、落下してくるワイバーンの首元を正確に捉える。
鱗を裂き、骨を断ち、血飛沫が空を赤く染めた。
巨体は悲鳴を上げる暇もなく、首を失ったまま地面へ叩きつけられた。
――ドォォオオオンッ
風が止んだ。
倒れた瓦礫の隙間から、赤い光が差し込む。
焼け焦げた地面には、無数の影と血の跡が重なっていた。
ファウストは肩で息をしながら、剣を支えに立ち上がる。
その手は血に濡れ、刃は欠けていた。
それでも、その目だけはまだ、死んでいなかった。
「ファ、ファウスト……」
人々は言葉を失っていた。
あの光景を、奇跡と呼ぶほかなかった。
「……生きて帰るぞ」
低く、かすれた声。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
仲間へか、それとも、もう失いかけた自分自身へか。
ファウストはそう言い残すと、再び剣を構えた。
足元の瓦礫を蹴り、目前に広がる魔族の群衆へと走り出す。
血の匂いが濃くなり、視界が赤く染まる。
炎の向こう、咆哮と金属音が再び交錯する。
――そして、戦場が再び動き出した。




