プロローグ
夜の森。
村から少し離れた場所にある普段ならなんとも思わない慣れ親しんだただの森。
木々が風にざわめき、たまに気付かずに踏む枝がパキッと音を立てる。
いつもの様に何も変わらない。
いつもと違うことといえば、無駄に伸びた枝が頬や腕を掠め、流れるその液体が血なのか汗なのかさえも分からない事だろう。
もう足が上がらない。
そう思わせるほど私の足は走り続けた疲労により何度も躓き、そのまま地面へと身を預け楽になろうと思うところを理性が踏みとどまらせる。
「へへっ!アニキ!そっちへ行ったぜぇ!」
後方から聞こえてくる高い声。
「馬鹿!言うなよ!感づかれるだろ!!」
前方からは少し低い声が聞こえてくる。
私が今満身創痍な理由は、こんな辺境の地に居るはずもないゴブリンに追われているからだ。
よく考えれば……ううん、よく考えなくてもこの状況が最もいつもと違う事だ。
こっちはダメ、挟まれる。
知性の低いゴブリンが挟み撃ちをするなんて…!
私はそう思い進行方向をほぼ直角に変えた。
「ハァ、ハァ…!」
もう限界。酸素が足りないせいか視界も少しぼやけてきた。
ドンッ!!
私は硬い……柔らかい?よく分からない物体にぶつかってその場に尻もちを着く。
「グヘヘ、獲物から飛び込んできてくれる狩りってホント楽だよなぁ…」
体を起こそうとしても立ち上がれない。
足の疲労もあると思う、でも腰が抜けてしまっているのだ。
見上げると目の前には3メートルは優に超えるトロールが立っていた。
手に持っている岩で出来た巨大な斧のような物には、もう既に乾いてはいるが血がベッタリとこべり付いている。
そっか…このトロールが裏であのゴブリン達を操って…。
死に直面しているというのに自分の思考が冷静な事に戸惑う。
「美味そうだなぁ……人間なんて食うのいつぶりだろうなぁ…」
そう言いながらトロールの口からはヨダレが大量に滴り落ちている。
どこからどう見ても馬鹿そうなこんな奴の術中にはまったと思うと悲しくなる。
その時、カサカサと私の後ろの茂みが動き、身長の低いゴブリンが現れた。
「グルルさん!殺すのは良いけど食べちゃダメっすよ!」
私を追っていた声の高いゴブリンだ。
「うるせぇ!!人間の一人や二人食ったところでバレねぇよ!!!」
トロールは癇癪を起こしたかのように持っている斧をブンッ!と横へと振り、その軌道上にあった木が切り倒される。
私はその倒木を見つめ思う。
数秒後には私もこうなる。
いや、こんなに綺麗に体が残ればいい方なのかもしれない。
……どの道食べられるなら一緒か。
お父さんの言う事きいてれば良かったな。
でも、お父さんだってこんな所に魔族が居るなんて思ってもなかったよね。
薬草だって明日、大人の人達と取りに行けば良かった。
今日は大人しく晩御飯作れば良かったな…。
この前お父さんと食べたご飯美味しかったな。
食べた……食べる?……食べる……食べられる………嫌だ……嫌だ……!嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!!
「い…ぁ……。。。」
思考が現実に追い付いた時、私の口からは細く声にならない音しか発する事が出来なくなっていた。
お尻がじんわりと温かい。
「うわっ!グルルさん!こいつ漏らしましたよ!きったねぇーなー!」
小さなゴブリンが私の周りを跳ね回る。
「いいじゃねぇかぁ、恐怖で染まったって証拠だろうよぉ、サビオが言うには恐怖が満たされれば人間は美味くなるんだろぉ?」
「みたいっす!サビオのアニキは物知りっすからねー!」
ザビオ。さっき正面から聞こえた低い声の奴かな。
そっか、なんでゴブリンだけだと決めつけていたんだろう。
「そういやぁザビオの奴はまだかよぉ、もう俺待てねぇぞぉ」
「なんか先に帰るって言ってたっす!人間を捕まえるのは手伝うけどその後の事は興味が無いそうっす!」
小さなゴブリンがそう言うとトロールは持っていた斧を大きく振り上げた。
「って事はぁ食っていいんだよなぁ!!興味無いんだもんなぁ!!!」
ーッ!!
私は恐怖のあまり瞼を閉じ顔を背けた。
パン!パン!━━━━━
ドスンッ!!ズサッ!
時間が2秒、3秒と経つ。
風に吹かれ木々の波打つ音がこの場の静寂を包む。
斧は振り下ろされない。
恐る恐る瞼を開くと目の前には首から上が無くなったトロールが横たわっていた。
自分の隣を見るとゴブリンにも同様の事が起きている。
理解が追いつかない。
私は木にもたれ掛かりながらなんとか立つことに成功した。
辺りを見渡すと約30メートル先、円状に森が開け、湖がある場所。
その畔に1人の人影が見える。と、同時にその人影が地面へと倒れ込んだ。
私は1歩1歩その方向へと歩みを進める。
既にトロールと身長の低いゴブリンは赤黒い灰へと変わりつつあり死亡した事が確認できる。
沢山走ったからだろうか足が重い。
たった30メートルが遠くに感じる。
最後の木と木の間を抜け湖へとたどり着いた時には歩き始めてから1分は超えていただろう。
湖は雲間から月明かりが差し、風で水面が揺れている。
いつ見ても心を癒される幻想的な風景だ。
そんな湖の畔に1人の男の人がうつ伏せで倒れていた。
私はその人に近づき精一杯の力で男の人の体を回転させ仰向けにすると心臓がある場所へ耳を押し当てる。
…ドクッ。……ドクッ。
良かった、心臓は動いてる。
注意深く観察すると呼吸もしっかりしている。
黒い髪に隠れる白い肌は月明かりでより白く見える。というか、血色が悪い。おそらく貧血だろう。
まずはこの人をどう村まで運ぶかだ。
そう思い辺りを見渡すともう使われていない湖畔の納屋が目に入った。
もしかしたらあそこにアレがあるかも!
私はよろけながらも納屋へと歩き始めた。