中編①
長くなったので、中編を二つに分けました。
――あれは三カ月前のことでした。
前回の打ち合わせの後、タチアーナ様から個人的に話があるから今度時間を作って貰え無いかと言われたんです。
しかも夫には内緒にしてて欲しいと言われ、てっきり伯爵様へのサプライズをお考えになってるのかと思っていました。
◇
「今日は忙しい中、時間を作ってくれてどうもありがとう。」
前回の打ち合わせの日から間を置かずして、アンナはアトリエにある個室でタチアーナと対面していた。
「いえいえ、今はお貴族様たちの社交シーズン前の繁忙期が終わったところなので、全然問題ないですよ。」
タチアーナもお貴族様の一人なのだが、労働階級の自分たちにも平等に優しく接してくれるので、アンナはこの若き美貌の婦人が大好きだった。今は大分見慣れてきたものの、相変わらずこちらが見惚れる位に美しい。
「それで、伯爵様に内緒とのことですが、どのようなご相談ですか?」
「ええと、話の前に先にこれを見て欲しいのだけど…」
そう言って、タチアーナは懐から何かを取り出す。
「わあ!素敵!これは見事ですね。」
見せられたのは、繊細な模様をした一枚のレースだった。
網目も細かく、糸も一級品のように見える。どこかの腕のいい職人が製作したのであろう。
「実はこのレースの製作者が、就職先を探しているの。あなたの伝手でどこかいい場所を知らないかしら。出来れば、ここからは離れたところで…」
「うーん、これほどの腕があれば、個人でも十分やっていけると思うんですが…。寧ろうちでも雇いたいくらいです。でも、それじゃダメということなんですよね?」
「うん、そうなの。その人は少し込み入った事情があって…旦那様から身を隠そうとしてるらしいの。だから、彼に見つからないように、クローシュ領からは遠く離れたところが望ましいのだけど…」
このときのアンナは、タチアーナがご友人から何らかの相談を受けており、その優しさゆえに、力になろうとして自分に話を持ちかけてきたのだと思い込んでいた。
(でも、夫君から逃げないといけない理由って何かしら?)
理不尽な婚姻だったから、本当に愛する人と駆け落ちをするとか?
いや、どこの物語よ。夫の暴力とか束縛から逃げるためとかのほうが、現実味がある気がする。うん、きっとそう。
―その人は貴族としての身分を捨ててまでも、夫から逃れたかった。だから一念発起して、平民として女性一人で生計を立てようとしてるのだわ…なんてことなの、力になってあげないと。
とまあ、アンナはこの短時間で目まぐるしく自分の想像を働かせた。
「なんとなくのご事情はわかりました。私の古い友人の一人で、国外でアトリエを開いている子がいます。その方に連絡を取ってみます。少しお時間はかかるかもしれませんが…それでも良いでしょうか?」
「ありがとう!突然のお願いなのに、本当に感謝します。」
「いいえ、タチアーナ様のお役に立てるなら光栄です。先程のレースは頂いても構いませんか?向こうに連絡を取る際、同封しようかと。」
「是非同封して下さいな。本当にありがとう。」
◇◇◇
「ちょっと待て、その就職先を探してた人っていうのは…」
アンナの話を静かに聞いていたセティだったが、ここへきて口を挟んだ。
「今考えたら、タチアーナ様ご本人だったのかも…あの見事なレースは、タチアーナ様が作られたということでしょうか?」
「レース編みは彼女の特技だよ…」
なんてことだ…レース編みの、あの素晴らしい腕前は自分が彼女に惚れた理由の一つだ。
その昔、まだ結婚する前、タチアーナは美しいレースが施されたハンカチで自分を介抱してくれた。お礼とともにそのレースの繊細な美しさに言及すると、自分が編んだものだと言われ、心の音の優しさと作成物の美しさは比例するのかと感心したものだ。
しかし、その技術をまさか自分の元を離れて生きていくために使うとは…
「…すまない、話を続けて欲しい。もう既にお腹いっぱいだけど。」
「承知しました。」
◇◇◇
一旦話の区切りがついたと思った矢先、タチアーナは追加で頼み事があると言ってきた。
「あと、もう一つお願いしたいことがあって…厚かましくて申し訳ないのだけど、いいかしら?」
「はい、私で良ければ、もちろんお伺いします。」
「ありがとう、実は夫に内緒でプレゼントを買いたいと思っているの。」
「あら!それは素敵ですね!」
「でも、私のお小遣いから買うと、買い物をしたことがわかってしまうから、夫には秘密にしてお金を稼ぎたくって。この前、お知り合いの人物画家の方が絵のモデルを探していると話していたでしょう?まだ誰も見つかってないなら、お引き受けしようかと思ったの。」
「タ、タチアーナ様がですか!?それはめちゃくちゃ喜ぶと思います!実はあの時お話を持ちかけたのは、その方から、たまたま何かの折に見かけたタチアーナ様の姿が忘れられなくてモデルとして描きたいと相談を受けていたからなんです。クローシュ伯爵の手前、指名されてるとは言いづらかったのですが…こちらに関してはすぐに動き出すことが可能だと思いますよ!」
タチアーナは安堵を浮かべ優しく微笑んだ。
「そうなの…よかった。モデル期間は大体一ヶ月くらいでお願いしたいとも伝えておいてくれないかしら?」
「承知しました!」
◇
「何度も話の腰を折ってしまい申し訳ない。」
アンナの話の途中で、再度、セティがカットインしてきた。
「はい、なんでしょう。」
「僕はプレゼントなんて、貰っていないんだけど…」
離縁状っていう特大のサプライズプレゼントは頂いているじゃないですか…とはさすがのアンナも口にしなかった。
しかし、隣のジェイコブが無自覚にセティの心を抉りだす。
「話の流れ的に、家出の軍資金稼ぎのため、モデルの仕事を引き受けたんでしょうね。そう思うとタチアーナ様は、随分と前から計画を練っていたのでしょう。ということは、それよりも前から見限られていたのか…」
み、見限られていたのか?
…モデルを引き受けていたことも知らなかったし、三か月も前から家を出る計画をしていたにも気付くことができなかった…
セティはとうとう頭を抱えて俯いてしまった。
「落ち込むのはまだ早いです。」
「早いということは、まさか話の続きにこれ以上落ち込むことがあると?」
「ご名答。では続けますね・・・」
◇
「それにしても、もうすぐ結婚されてもう二年でしたっけ。伯爵に内緒でプレゼントとか、まだまだお熱くて羨ましいです。我が家は子供が家を出てしまってからは特に、夫というより同居人って感じですからねー。」
アンナは夫とは幼馴染の関係で、燃えるような恋愛をしたというよりは友情の延長戦で夫婦となった。
そのため、普段のクローシュ伯爵の妻への溺愛っぷりや、タチアーナが夫のためにサプライズを用意するという自分たちとは違った夫婦の形を見て、純粋に羨ましいと感じていた。
「…」
あれ、反応が薄い。
「どうかされました?」
「あの、突然こんなこと聞かれて困ると思うんだけど、アンナから見て、私たちって想い合っているように見えるかしら?」
タチアーナは先程までとは違い、女神のように整った顔を曇らせ、こちらに問いかけてくる。
「それはもちろん。とくに伯爵様がタチアーナ様を好きで仕方が無いって感じがします。」
二人で打ち合わせに来るときはいつもタチアーナ様のことを気にかけているし、必ず彼女の意見を聞いて、決してないがしろにしない。本当に夫として出来た方だと思う。それに、タチアーナ様だっていつも伯爵様の方を見て優しい表情でいらっしゃるし、伯爵のスキンシップを嫌がる素振りもない。
…しかし、こんな聞き方をするってことは、実際は異なるということだろうか?
「実のところ…夫は私を好きって振る舞っているだけだと私は思ってるの。私は、あの人の、ただのビジネスパートナーだから。」
「ええっ!?」
◇
「ええっ!?」
セティがまたもや途中で話を遮る。
「クローシュ伯爵…」
残念なものを見る表情でジェイコブが声をかける。
「心外だっっ!!!これほど態度に出して愛を示したきたつもりなのに、彼女にそう振る舞ってるだけと思われていたなんて!!!」
「いや…そう思うのも無理はないのでは…」
何せ、同意なしの清い夫婦生活なんだから。
「伯爵様、すみませんが、話を進めますね。」
◇
いやいや、そんなわけないでしょ、どれだけ大切にされていると思ってるの、とアンナは叫びそうになった。
「ただのビジネスパートナーに、あんな熱い視線を向けるわけないし、露骨に好き好きオーラを前面に出したりしないです。それとも、まさかお家と外では態度が違うんでしょうか?」
まさか家ではタチアーナ様に対してめちゃくちゃ塩対応だとか?外向け、内向けの態度を、あの芯から良い人そうな伯爵が使い分けているのだろうか?
しかし、その質問に対して、タチアーナは首を横に振った。
「いいえ、家でも外と同じ感じで接してくれているわ。けれど、やっぱり、夫と妻、というには、少し違うように感じるの。そもそも、私はあの人からクローシュ・ブランドの広告塔としてスカウトされて、そのまま結婚を乞われたようなものだから。」
「え、ええと、きっかけはそうかもしれませんが、どう見ても溺愛されているようにしか…」
アンナがフォローを入れるものの、タチアーナの顔は浮かないまま話を続ける。
「…少し言語化しづらいのだけど、モデルとして、あの人の妻という看板としては役に立てているとは思っている。でも、私は、夫は本当の意味でまだ私を受け入れてくれてないと思うの。恐らくだけど、私個人には興味が無いというか…」
「それはどうしてそう思うのですか?」
「色々と理由はあるのだけど…例えばその理由の一つに、着飾ってないと私と他人を間違えるの。」
「ええ!?めちゃくちゃ目立つ容貌をされるタチアーナ様に気付かない!?それって、伯爵様の視力が悪いだけなのでは?」
「夫の視力は正常なはず。でも、私と他人の絵姿を間違えてしまったり、夜会で私と似たドレスのご婦人に私だと勘違いして話かけていたり、他にも色々…。」
まるで服装でしか私を見ていないかのような。そうタチアーナは呟く。
「一番堪えたのは、夫の視察先にこっそり着いて行ったときのこと。私は領民の服を借りて、群衆にまぎれて夫を見ていたの。きっとびっくりするに違いないわ、って。でも、想定していた反応と違ってた。確かに目が合ったはずなのに、全く気付く素振りが無くて…思わず、彼のところまで駆け寄って服の袖を引っぱったの。そしたら、とても驚いた様子で『ご婦人、突然どうされたのですか?』って。こんなに側にいても気付いて貰えないってあんまりだと思って、泣きながら私だと名乗ったら、そこでようやく私だとわかってもらえたの。」
◇
「これは酷い。」
ジェイコブが思わず感想を漏らした。
「これに関しては、僕は何の申し開きもない。だって本当にタチアーナに気付かなかったんだから。」
「普通気付くでしょ。あなたの妻であり、タチアーナ様ですよ?美の化身ですよ?常日頃一緒にいるのに、気付かないとかあり得ないです。いつも何を見て生きてるんですか。」
アンナは本人を前にボロクソに言葉を放つ。
「言い訳をさせてもらうなら、このときのタチアーナは体型を隠す服を着ていたし、髪も首元も布で覆っていたから、背格好は似てると思ったけど、他人の空似だと思ったんだよ。それに、まさか視察に付いてきてるとは思いもしなかったから。」
「「…」」
あの顔面が平民に紛れてたら浮きまくりだろうに、他人の空似で済ませてしまうとは。
「とにかく、話を戻します。」
アンナは咳払いをして続きを話し始めた。
◇
「それは…」
ひどい。
この容姿は平民服を着ていても隠しきれるものではないし、話から顔は隠して無かったようだ。毎日寝食を伴に過ごしているにも関わらず、妻に気付かないことなどあるのだろうか?
「とりあえず、伯爵様が天然過ぎるだけってことで、ご自身を納得させましょう?ね?」
自分で言っておいてかなり無茶だと思ったが、この場ではそう結論付けた。
「でも、そうだとしても、時々不安になるの。もし、私が今みたいに服飾のモデルとしてやっていけない外見になってしまったら?年は確実に取るものだし、あと数年もすれば私は夫から見向きもされなくなるんじゃないかって考えてしまって…」
「そりゃあモデル業はいつか引退するときが来るとは思いますが、それと同時に妻を捨てるなんて、人としてどうかと思うレベルなので、あの伯爵様に限ってないと思います。それに…」
アンナは不安になっているタチアーナを宥めるように優しく語りかける。
「タチアーナ様は、伯爵様のことを夫として愛しておられるのですよね?」
その言葉に、間を置かずしてタチアーナは答えを返す。
「それは、もちろん。セティ様は私に生きる意味を教えて下さった方。あの方に出会ってから、私は心から笑ったり楽しんだり出来てるの。私が感じたものを、彼にも返してあげたい…だからこそ、」
タチアーナはそこまで言って、静かに言葉を切った。
「…いいえ、なんでもないわ。今日は本当にありがとう。就職先の件とモデルの件、お手間をかけて申し訳ないのだけど、また、進展があったら、私宛てに連絡をくれると嬉しいわ。」
アンナはタチアーナの含みある物言いが気にはなったが、彼女がすぐに帰り支度を始めてしまったので、この場はここで終了となった。
◇◇◇
「…」
「…」
「…」
アンナの回想が終わると、三人の間に気まずい沈黙が訪れた。
重苦しい空気の中、最初に口火を切ったのは、先程まで話していたアンナであった。
「…タチアーナ様に会ったのはその時が最後です。後は全て手紙でやりとりをさせて貰いました。私は友人にレース編み職人の就職先の世話をしてくれないかと連絡をとり、それと同時にタチアーナ様の連絡先を教えて、その後はどうなったか把握していません。モデルの件も、先方にタチアーナ様から許可が出たから後は直接本人とやりとりをして欲しい、ということで、こちらもその後どうなったか関与していません。」
恐らくではあるが、タチアーナはモデルの仕事で家出資金を手に入れた後、仕事の紹介先の国へと旅立っていったのだろう。
「アンナは間接的にタチアーナ様の家出に全面協力してたんだな…」
「全然意図してませんでしたが、話を総合すると、そうなりますね…。」
「ということは、今ごろ外国にいるかもしれないということか。国中探してもいないはずだ。」
セティは思わぬ形でタチアーナの本音を知って絶望しつつ、彼女の行く先の手掛かりを手に入れることができそうなことで複雑な心境となっていた。
「それで、タチアーナ様が出て行ってしまった原因は、やはり伯爵様にあると思います。それも三つほど。」
「三つもあるんだ…」
アンナはセティの呟きを無視して話を進める。
「最初に伯爵様が指摘して欲しいと仰っていたので、遠慮なく言わせて頂きますね。まず一つ目。」
「白い関係、そして、伯爵様が日頃の溺愛っぷりとは別にタチアーナ様に興味が無いと思わせる態度を無意識に取っていたことから、伯爵様が本当は自分を愛していないと思い込んでしまったのでは?」
「それは、「二つ目。」
アンナはセティの発言を許さず、言葉を被せて続ける。
「一つ目に関連して、伯爵様に自分とは別の愛する方がいると思って身を引いたのかも?」
「まさか!そんなのタチアーナ以外にいるものか!」
「子供は不要、溺愛に見せかけて奥方を何度も間違える…もしかして、自分に似た容姿の愛人がいて、その方と子供を作りたいから、自分とは表面上の関係だけを望まれているのでは?私ならそう考えちゃいます。」
「それは想像が過ぎるんじゃあ、」
セティが否定しようとするも、つかさずジェイコブがアンナの考えに同意する。
「ちょっと非現実的な考えだと思いますが、確かに、人間追い詰められたらそこまで妄想してしまうかもしれませんね…」
「…」
「そして三つ目。自分が仕事で使い物にならないと捨てられる前に、自ら離れることにしたのかもしれません。」
「僕はどれだけ非道な人間だと思われてるんだ…」
「奥様を目の前にして気付かない人が何を言うんですか。」
アンナの容赦ない言葉に、これまでだとジェイコブがセティにフォローを入れていたが、今やうんうんと首を縦に振り容認している。
「まあ、理由も言わず手紙一つで関係を終わらせようとするタチアーナ様も褒められた行為ではないと思いますので、一度話し合う必要はありそうですね。」
「話し合うとしたら、伯爵様はタチアーナ様にどうして欲しいおつもりでしょうか?返答によっては、私の友人のところへはお取次ぎしないつもりです。」
「…僕は、まだタチアーナを愛している。これまで彼女を不安にさせてしまった行為を謝りたいし、その上で、やっぱり僕と別れたいというなら、大人しく身を引くつもりだよ。本音では無理矢理連れてかえりたいところだけどね…」
セティは出来た夫の鑑のような発言をするが、その表情は苦々しい。
嘘をついている様子はなく、本気でタチアーナに向き合おうとしている彼の姿を見てアンナは少し同情する。
「私としても、タチアーナ様にまたお会いしたいし、彼女をイメージしたデザインのドレスをこれからも作りたいです。無理強いはして欲しくないですが、伯爵様には話し合いを頑張ってきて貰って、連れて帰ってきて欲しいと思っています。」
アンナの言葉の後、ジェイコブも自分の意見を述べる。
「私も同じ気持ちです。奥様とまた仕事がしたいし、お二人のお力があってこそのクローシュブランドだと思うので、説得が上手くいくことを応援しています。」
「…ありがとう、頑張るよ。」
こうして、セティはタチアーナが身を寄せているであろう場所の情報を手に入れることに成功したのだった。
あと2話続きます。