前編
後編に答え合わせを詰め込みました。あと中編、後編と続きます。
社交界一の美貌、国中の男が平伏す美しさ、全女性が嫉妬する容貌…幼い頃より様々な賛辞で容姿を讃えられて来たタチアーナ・ハロフスキー男爵令嬢。
女性たちの頂点に君臨する美貌をもつ彼女の心を射止めた人物は、彼女より3つ年上のセティ・クローシュ伯爵だった。
彼の家は代々縫製業を営んできたが、時代の流れを見据え新たに女性向けファッション全般──衣服から装飾品に至るまで──を手がけるようになった。今ではそれが家業の中心となり、彼こそがその事業で財を成した若き実業家である。
セティとタチアーナが出会ったのは仕事がきっかけだった。
最初は服飾事業の広告塔としてセティの方からタチアーナに声をかけたのが始まりだ。彼の急な誘いにも関わらず、タチアーナはすんなりとモデルの仕事を引き受けてくれた。
凍てつくような美貌の彼女は見た目とは違い、中身はとても控え目で謙虚な女性で、セティは直ぐに彼女に惹かれていった。
そして熱烈なアプローチの末、気付けばプロポーズ、そして結婚に至った。
今は結婚してからもうすぐ二年が経とうとしていた。
しかしセティのタチアーナへの愛は衰えることなく、夫婦仲は周りから見ても良好、全てが順風満帆のように見えた。
セティがこの日、この手紙を見るまでは。
『探さないでください。どうかお元気で。タチアーナ』
セティは記された文章の意味をしばらく理解することができなかった。
――何かの冗談だろうか?
眩暈を起こしそうになりながら、もう一枚手紙とは別の紙がそばに置かれていることに気付く。
なんとなく嫌な予感がしつつ、その紙を手に取る。
「……嘘だろ」
タチアーナの名前が署名された離縁状を見て、セティは今度こそその場に崩れ落ちた。
◇◇◇
「あれ、失礼ですが伯爵、本日奥様はどちらに?」
アトリエデザイナーの代表であるジェイコブが、タチアーナを伴わず一人で来たセティに対し、訝し気に尋ねる。
「………今日は僕ひとりだよ。妻は…家を出て行ってしまったんだ…」
それだけ言うと、セティは憔悴しきった様子で応接室のソファに倒れ込むようにして座りこんだ。
あの後、我に返ったセティは、タチアーナがいなくなったと屋敷で大騒ぎし、使用人総出で近隣への捜索と聞き取りを夜通し行った。が、彼女の足取りは何一つとして掴めなかった。
翌日になり彼女の実家であるハロフスキー家を訪れタチアーナが来てないか尋ねるも、ただただ驚かれるばかり。そればかりか、うちの娘を傷つけでもしたのかと疑念を持たれてしまった。
その後、彼女と付き合いのある友人や知人にも連絡を取ってみたが、彼女は家族だけでなく、友人、そして屋敷の使用人の一人にすら誰にも行く先を告げていないことがわかった。
捜索の範囲を広げ、やみくもに捜すこと早一月。全ての予定をキャンセルし、タチアーナの行方を探していたのだが、そろそろ仕事が滞ってきて限界だと秘書のセルゲイに泣きつかれてしまった。
今日は来シーズンに向けた新作パターン案を検討するため、タチアーナ同伴のもとアトリエのデザイナーたちと打ち合わせをする予定であった。
が、いないのだからどうしようもない、やむ無くセティ一人でこの場へとやってきたわけである。
「家を出て行ったって、喧嘩でもなさったのでしょうか?」
そう尋ねるのは奇抜な格好をしたジェイコブの片腕のアンナ。彼女は、いつも仲の良い二人なのに、珍しくセティがタチアーナの機嫌を損ねるようなことでもしたのではと予想し、興味深げに身を乗り出す。
「喧嘩などしてない。いなくなる前日までは、本当に普通だったんだ。でも、夜帰ってきたら、手紙が置いてあって…彼女の荷物が一部無くなっていた。」
離縁状の件は伏せておいた。もちろん自分が署名する気などサラサラない。
あの日まで、本当に何一つ変わったことなどなかった。朝だって、いつも通りに起きて、いつも通りに支度をし、いつも通りに二人で朝食を食べ、いつも通りいってらっしゃいと見送ってもらったのだから。
「ははーん、じゃあ日頃の行いが積りに積もって耐えきれ無くなったんですね。お気持ち、わかります。」
アンナは自分の勝手な想像に自分で共感し、うんうんと頷く。
彼女も既婚者なのだが、夫に対して積年の不満があるようだ。
「まさか…僕の日頃の行いが良くなくて、それで?」
口に手をやり考えを張り巡らせる。いつも通りと思っていた自分の行動に、いつの間にか彼女が耐えきれなくなってしまったのだろうか?
黙ってしまったセティに対し、つかさずジェイコブがフォローを入れてくる。
「そんなことありませんよ、クローシュ伯爵。私の目から見ても、お二人はいつでもお互いを思い合っているように見えましたから。」
「ジェイコブ様、私たちが見てないところでタチアーナ様は無理をされてたのかもしれませんよ。」
「アンナ、ちょっと黙ろうか。」
いつも歯に衣着せぬ発言をするアンナだが、弱ってるセティに対しても絶好調であった。
「伯爵様、ジェイコブ様。今日の打ち合わせはタチアーナ様がいないと二度手間になると思うんで、一度リスケにしませんか?リスケ日はタチアーナ様が見つかってから調整ということで…それで、余ったこの時間は伯爵様の相談会にしちゃうとか?」
「何を勝手なことを言ってるんだ。私たちが伯爵のプライベートな相談に乗るなんて烏滸がましいにも程がある。クローシュ伯爵、どうか気を悪くしないで下さい。」
ジェイコブはクローシュブランドのお抱えデザイナーとしてセティと共に長年仕事をしてきたものの、相手は貴族であるという理由から一線を引いていた。そのためアンナの気安過ぎる態度に対し、彼女を嗜めてから謝罪する。
「いや…」
セティは項垂れた姿勢のまま言葉を続ける。
「アンナの言う通り、是非相談に乗って欲しい。…もう八方塞がりで…誰かに話を聞いて欲しい気分だったんだ。君たちなら距離感もちょうどいい。もし、今まで僕がタチアーナにしてきたことが、他人から見ておかしいと思うことがあれば遠慮なく指摘して欲しい。それで、やはり僕の行いに非があるとするなら、彼女が望む通り………離婚に応じようと思う。」
(離婚!)
ジェイコブとアンナは心の中で叫んだ。
しかし、直ぐに二人はセティが大袈裟に事を言っているだけだと考え直す。
「そ、そうですね、お時間の許す限り、お話をお伺いしましょうか。では、お茶のお代わりをお願いしてきます。」
少しばかり動揺が態度に出てしまったアンナだが、なんとか平静を装ってセティの話を聞くことにした。
◇
「それでは早速…まず現状と経緯を確認させて下さい。奥様が戻られないのは、今回が初めてのことですか?」
アンナは机の上に手を組んで徐ろに質問する。
相談に乗るというより、まるで尋問をしているようである。しかしそのことにセティは気にする様子もなく普通に返答する。
「今回が初めてのことだよ。結婚してもうすぐ二年になるが、大きな喧嘩もしたことがない。だから、突然出て行ってしまうなんて考えもしなかった。」
「うんうん、本当に仲がよかったですもんねえ。グイグイ引っ張っていきつつもタチアーナ様のご意見をきちんとお聞きになるクローシュ伯爵と、一歩下がって伯爵を立てるタチアーナ様は理想の夫婦だとアトリエ内でも言われていました。」
アンナは二人の様子を思い返す。お互いを思いやる様子は、お世辞ではなく本当に仲睦まじいように見えた。
と、ここで傍観していたジェイコブが口を挟む。
「あの、奥様はただ、ご実家に帰られてるだけということはございませんか?」
「タチアーナの実家のハロフスキー家は彼女を金で売ろうとするような連中の集まりだから、彼女が進んで帰ることは万に一もないよ。
逆に囚われてる可能性を考え、ハロフスキー家を訪れてみたが、そのような素振りもなく、寧ろ彼女が失踪したことに慰謝料だなんだと言われてしまった。」
「うわぁ…絵にかいたような毒親ですね。」
タチアーナは見た目に反して控え目な性格なのは、育った環境の影響が強い。
ハロフスキー男爵が侍女を孕ませてできた娘がタチアーナで、所謂不貞の子。そのことに激怒した正妻は妊婦である母親を侍女から解任した。屋敷から追い出された母親は、地方にある田舎町に身を寄せ、そこでタチアーナを出産し、母子二人でひっそりと暮らしていたらしい。
けれども彼女が12歳になったときに母が病で亡くなってしまう。母親は自分が死んだらここを頼れと生前に伝えていたのが、ハロフスキー家だった。
ハロフスキー男爵は既に見目麗しく成長していたタチアーナを拒むことなく受け入れ、我が子として認知した。すんなり受け入れてくれたのは、男爵の優しさからではなく、タチアーナの容姿を利用する打算からだったと、後からわかったのだが。
もちろん、正妻と娘からは浮気相手の子供ということ、それから彼女の優れた見た目への嫉妬で、蛇蝎のごとく嫌われた。嫡男の反応はまだましだったようなのだが、着替えの最中にわざと部屋に入ってくるなど、常にそういう対象としてタチアーナのことを見てきたらしい。
12歳まで平民として暮らしてきたため、受けさせてもらった貴族としての教育は大変な苦労をしたとも聞いた。
「では、奥様のご友人のところに身を寄せられてる可能性は?」
「残念ながら、それもないよ。彼女は驚くほど交友関係が少ないから…ほとんどが僕と結婚してからの繋がりで出来たもので、一応それら全てにあたってみたが、彼女を匿っている形跡は無かった。」
あれほど容姿に恵まれ、それを鼻にかけるわけでもない慎ましい性格しているのに、タチアーナに友人と呼べる人は存在しなかった。
母親と住んでいたときは、彼女の容姿に目をつけられないよう、ほとんど人と関わらないようにして過ごしてきたという。町の人とはほぼ会話もしたことがなかったらしい。
男爵家に身を寄せてからも、状況に変わりはなかった。通わせて貰った学校では、義妹を見下し虐めていると義妹本人に悪い噂を流されたり、他の女生徒からは男性に色目を使ってると言いがかりをつけられたり…。中には庇ってくれる人もいたらしいが、庇われた結果、嫌がらせが増し、結局自分から離れていった。そんな感じでついぞ友人というものは出来なかったと苦笑混じりに溢していた。
「あのー、伯爵様。確認なんですが、タチアーナ様はいつからいなくなっちゃったんでしょうか?」
アンナは先程から、気になっていたことを尋ねる。実家を訪問し、友人関係を洗って…実はセティは既にかなりの時間をかけてタチアーナ探しをしているのではないかと思い始めたのだ。
「ちょうど一月前からだよ。」
え、長。
ジェイコブとアンナの二人は、せいぜい二、三日前に家を出て行ってしまったのだと思っていた。が、一月も探して手掛かりが掴めないなんて、これは最早事件レベルの案件な気がする。
「お、置き手紙は、きちんと奥様の筆跡だったのですよね?」
「ああ、もちろんだとも。僕が彼女の筆跡を見間違うはずがない。」
…離縁状も間違いなく本人の筆跡だった。
「ううん…じゃあ間違いなくタチアーナ様の意思で出て行かれたということね…。あの、差し支え無ければ、お手紙の内容をお伺いしても?」
「…問題ないよ。『探さないでください。どうかお元気で。』以上だ。他には何も書かれていなかった。……これは、出来れば隠しておきたかったことなんだけど、手紙と一緒に、離縁状が置かれていた。」
もう、完全にアウトじゃん。
口には出さないが、アンナとジェイコブはお互いに目配せする。
二人はセティが離婚に応じると言ってたことを急速に理解した。
「クローシュ伯爵、妻が突然急に思い立って家を出て行くことなんてことは、まず有り得ません。きっとどこかに原因があるはずです。」
ジェイコブがアンナに代わり、セティのどこに原因があったかを確認する。
「まあ、そうだね。」
「最近、奥様を構ってやってないことはございませんでしたか?例えば、お仕事優先で記念日を疎かにしたり、顔を合わせる時間が減っていたりなど。」
「いや、それはない。僕は記念日は大切にするタイプだ。タチアーナの誕生日もこのあいだ祝ったばかりだよ。それに彼女を連れて行う仕事も多いから、顔を合わす頻度が減るなんてこともなかった。」
「では奥様の仕事量が増えて大変になっていたりなんかは?」
「それもないな。家の管理の仕事はほとんど家令に任せているし、タチアーナの仕事量が増えないよう常に本人と調整をしている。それに、お互いに困ったことがあれば、すぐに相談するよういつも言っている。」
「素晴らしいです。」
つい率直な感想が出た。これだけ聞けば普通に良い夫ではないか。
「一つ、女性目線からの意見をよろしいでしょうか?」
と、ここでアンナがジェイコブから話の主導を取り返して質問を投げかけた。
「ああ、是非きかせて欲しい。」
「ご結婚されて二年とお伺いしました。とてもセンシティブな内容で申し訳ないのですが…お子様のことで、奥様は悩まれていたりはしていなかったでしょうか?」
中々子が出来ず、一人悩んでしまう女性は貴族に限らず共通の悩みだ。
「おい、アンナ…踏み込み過ぎだ。」
「それに関しても、問題ない。僕たちはプラトニックな関係だからね。」
?
ジェイコブとアンナの頭ははてなマークでいっぱいになる。
「ええと、プラトニックというのは…」
「毎晩、僕たちは同室の別々のベッドで就寝していた。子など、出来るはずがない。」
「…」
タチアーナが出ていった原因が、一気にクリアになった。
「ご質問がございます。」
「なんだい。」
「えと、伯爵様は、お子はいらないというお考えで?」
「そうだよ。」
「タチアーナ様は?」
「たぶん、僕と一緒の気持ち…な気がする?」
あれ、どうだったか。
彼女は家族が欲しいと切に訴えてなかっただろうか。
口に手をあて、思案する様子のセティに、アンナが口を開く。
「伯爵様、おそらくですが、それです。タチアーナ様は、清い関係を望んでいなかったのでは?」
「!?まさかっ。」
「何がまさかですか!確かめてもいないのに適当なこと言わないでください!だから、タチアーナ様はあの時、あんなに不安そうにしてたんだわ!!!」
「え?」
アンナは茶器が音を立てるくらいの声量で憤っているのだが、それよりも、アンナの口ぶりはまるでタチアーナと接触があったことを匂わせており、二人はそのことに全ての意識を持って行かれていた。
「アンナ、君、タチアーナ様と会ったのかい?」
「あ、いや、」
「お願いだ!正直に答えてくれ!君は失踪前にタチアーナに会ったのか!?」
「…会うのは会ったんですが、三カ月ほど前ですよ?そのときに、相談をされました…」
「どんな相談だ?君から聞いたことはここだけの話にするし、本人にバレても僕から強要されて仕方なくと伝えておくから、どうか教えて貰え無いだろうか。」
まさかここにきて手掛かりになりそうな情報が掴めるとは思ってなかったので、セティは必死になってアンナに詰め寄る。
「今回の件と関係あるか分からないのですが、一月も連絡が取れないのは私も心配なので、この際全てお話します…」
アンナは当初の想定より長丁場になりそうな予感がして、ソファに深く座り直した。
続きは近日中にアップします。