クレクレの妹のせいで婚約破棄しましたが、真実の愛を知りました
「ねえ、クラウディアお姉さま。そのドレス、わたくしにくださらない? お姉さまにはちょっと派手すぎると思うの」
ソフィアは今日も当然のような顔で私に言った。
光沢ある青いドレス。私のために仕立てられたもののはずだった。けれど、ソフィアはいつもこうだ。気に入ったものがあれば、私の持ち物でも欲しがる。
「それにその髪飾りも。お姉さまよりわたくしの方がきっと似合うもの。だって、お姉さまって不器用だし、華やかな場も苦手でしょう?」
私は何も言わず、チェス盤に視線を戻す。角の駒を取って、ゆっくり盤上に置いた。
「もう、またチェス? 女の子なのにそんな遊びばかりして。恋愛とか、舞踏会とか、そういうことには興味ないの?」
ソフィアの声は、軽蔑と憐れみに満ちていた。
でも、私にはこの盤面の方がずっと魅力的だった。
家族も同じようなものだ。
「クラウディアはやっぱり変わっているな。お前にはソフィアの爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいだ」
そう言って父はソフィアを褒める。母もソフィアに甘い。
「ソフィアは華があるもの。伯爵令嬢たる者、教養も大事だけれど、それ以上に映えることが必要なのよ。クラウディアも、もう少し女性らしさを身につけて欲しいわ」
兄も同じだった。ソフィアが笑えば、何もかもがうまくいっていると錯覚する家族。
私は、家族の誰にも愛されていなかった。空気のような存在だった。でも、それでもよかった。ただ、チェスが指せれば。
◇
ある日。
父に呼び出され、一通の手紙を手渡された。
『アレクシス・ヴェルナールは、クラウディア・レミュールとの婚約を解消する。今後は妹ソフィアが正式な婚約者となる』
特に驚きはなかった。
侯爵家の長男であるアレクシスが、伯爵家の娘である私を選んだのは、政略と形式の産物に過ぎない。私が彼を選んだ理由も存在しなかった。
それに私は知っていた。彼が密かにソフィアと恋仲であることを──。
その夜、ソフィアは笑顔で私の部屋に入ってきた。
「やったわ。ようやくアレクシス様と婚約できたの。わたくしの方が美しくて、社交界でも人気があるのよ? 当然の結果でしょう?」
きっと、私が悔しがる様を見たかったのだろう。だが、それは私にとってどうでもいいことだった。関心も、怒りも、湧かなかった。
私は返事をせず、ただ静かに盤上の駒を並べ直していた。駒たちは言葉を持たない。けれど、沈黙のうちに私を理解してくれる。私だけの、確かな世界だった。
◇
一週間後。
私のもとに、一通の手紙が届いた。
差出人はフィリップ・ヴェルナール。ヴェルナール家の四人兄弟の次男で、アレクシスの弟にあたる。家族からは「落ちこぼれ」と蔑まれていた人物だった。
『クラウディア様。無礼を承知でお願い申し上げます。私はまもなく戦地に赴きますが、軍略にまるで自信がありません。どうか、助言をいただけないでしょうか』
不器用な文字だった。けれど、その文面からは、まっすぐな誠意が感じられた。
この国では、戦地で大きな功績を立てれば新たな爵位が授けられるが、重大な失態を犯せば爵位を剥奪されることもある。
「落ちこぼれ」の彼は、せめて一矢報いてこいとでも言われたのだろう。
かつてヴェルナール家を訪れた際、私が何気なく口にした布陣の話を、彼はどうやら覚えていたらしい。頼る宛もなく、藁にもすがる思いで、彼は私に手紙を送ってきたのだった。
私は返事を書くことにした。彼のヴェルナール家での立場が、どこか自分と重なって見えたからだ。
数日後、彼から再び手紙が届いた。中には、手慣れない筆致で描かれた布陣の図が同封されていた。戦況を整理しようと懸命に考えた跡があったが、その配置では敵に側面を突かれるのは明白だった。
私は地図の余白に、自分なりの布陣とその意図を書き添えた。
駒の動きで戦局を読むチェスと、兵の配置で未来を読む軍略は、私にとってよく似ていた。
そうして、いくつもの手紙が行き交った。
やがて、彼が戦場で大勝を収めたという報せが届いた。
その「功績」について、アレクシスがどう語ったのか──あとになって、人づてに聞いた。
「弟に軍略を教えたのは私です。家族ですから、当然でしょう?」
まるで、自分の才覚で勝利を導いたかのような口ぶりだったという。
だが、本当はすべて弟・フィリップの力だった。……正確に言えば、私が練った策を、フィリップが実行したにすぎない。
その手柄を当然のように横取りし、偽りの栄光に身を包んだアレクシスが、軍の重役に就くと噂されている。
けれど、私は構わなかった。称賛も、名誉も、欲しかったわけじゃない。
ただ、私の知恵で誰かが生き延び、未来を切り開けるのなら──それで、十分だった。
◇
アレクシス・ヴェルナールの名が王都の広場で読み上げられたのは、それから数か月後のことだった。
澄み渡る朝の空気を震わせるように、役人の声が広場に響き渡る。
「王命により告げる──アレクシス・ヴェルナール、ヴェルナール侯爵家嫡男。軍規違反および戦線指揮における重大な過失により、軍籍を剥奪。よって、軍人としてのすべての権利と地位を失うものとする!」
広場はどよめきに包まれ、人々は口々に噂を交わし始めた。
「実際に采配をしていたのは、弟のフィリップ様だったらしいわよ」
「アレクシス様は助言を聞かずに命令を出し、そのせいで味方に大きな被害が出たんですって……」
かつて誇り高く、誰よりも威風堂々としていたアレクシスの姿は、もはや王都にはなかった。無謀な指揮と傲慢な態度が命取りとなり、爵位の継承権さえも剥奪されたという。
ただ、弟フィリップの功績が高く評価されたことで、ヴェルナール家そのものの侯爵位は、かろうじて保たれていた。
──そして、そのフィリップが、今は私の目の前にいる。
幾度もの手紙のやり取りを経て、私は彼とチェスを指すようになった。
軍務のない日には、フィリップがチェス盤を挟んで私の前に座る。将校服に身を包んだ彼の表情は、かつてとは違い、自信に満ちていた。
不器用ながらも真っすぐに向けられる想いを、私は静かに受け止める。
盤上に駒を置く音が、静かに響く。誰かと指すチェスが、これほどまでに楽しいと感じたのは、初めてだった。
対局を重ねる中で、フィリップは戦略眼を磨き、それを実戦で存分に発揮して次々と功績を上げていった。そしてついには、国王直属軍を率いる将軍にまで昇りつめたのだった。
◇
ある日。
みすぼらしい服に身を包んだ男が、庭園の門で私を待ち受けていた。
アレクシス・ヴェルナール──かつては侯爵家の嫡男として栄華を誇った男の、見る影もない姿だった。
「クラウディア……お願いだ。少しだけ、話を聞いてくれ」
その声はかすれ、目には涙が浮かんでいた。あの傲慢だった男の面影はもうなかった。
「君がいなければ、何もかも上手くいかないんだ。ソフィアも……僕を見捨てた。お金も、地位も失った。頼れるのは君しかいないんだ!」
彼は膝をつき、私の裾を握って縋りついた。
「頼む……戻ってきてくれ、クラウディア。あの頃みたいに、僕の傍にいてくれよ……っ!」
私は彼の手を静かに振り払い、まっすぐに見下ろした。
「あなたが一度捨てた駒は、もう戻らない。
もう遅いのよ。私はフィリップと婚約し、新しい盤の上にいるわ」
「な……なんで、あんな落ちこぼれと……!」
私はため息をついた。
「落ちこぼれと見下していた彼は、今や国王直属の軍を率いる将軍よ。あなたには、それだけの才能も、人を見る目もなかった。それが全てよ」
アレクシスは声にならない呻きを漏らし、地面に崩れ落ちた。私は彼に背を向け、静かにその場を去った。
◇
ソフィアは、私とフィリップの婚約を知ると、しばらく沈黙していた。だが、やがてその怒りと嫉妬を抑えきれなくなり、ある日、私たちが一緒にいるところへ現れた。
「フィリップ様、クラウディアお姉さまと婚約したと聞いて、驚いたわ。でも、わたくしの方があなたにふさわしいと思わない?」
ソフィアは魅力的に微笑みながら、フィリップへと歩み寄る。その瞳に宿るのは、いつものように──私の持っているものを奪いたいという欲望だった。
フィリップは冷静なまま、淡々と答える。
「ソフィア……君は、僕に何を求めているんだ?」
その問いに、ソフィアは一瞬だけ言葉を失った。しかし、すぐに笑みを浮かべ直し、挑むように言い放つ。
「わたくしが欲しいのは、あなただけよ。お姉さまにはない、わたくしの魅力に、あなたも気づいているはず」
フィリップはその言葉に目を細め、じっと彼女を見つめた。彼の表情には、迷いはなかった。彼女の本心が見えてしまったからだ。
「君が欲しているのは、僕じゃない。『クラウディアの婚約者』という肩書きの男だろう?」
その冷徹な言葉に、ソフィアの顔から笑みが消えた。数秒の沈黙ののち、無理に笑顔を取り繕いながら、なおも迫る。
「違うわ、フィリップ様。ただ……わたくしこそ、あなたにふさわしい女性だと思っているだけ」
その瞬間、フィリップは静かに立ち上がり、厳かな声で言い放った。
「君はこれまで、欲しいものを欲しいままに手に入れてきたのかもしれない。だが、僕が愛するのはクラウディアだけだ。僕の心だけは、君には奪えない!」
「……なんで、お姉さまなの? わたくしの方が美しくて、華があって、社交界では人気者なのに……!」
ソフィアの声は、泣き声に変わっていた。かつて私のドレスや髪飾りを奪い、私のものを当然のように欲しがった彼女。けれど、フィリップの心だけは奪えなかった。
「美しさや人気は、一瞬の煌めきに過ぎない。だが、信頼や敬意は、積み重ねた時間の中に生まれるんだ」
フィリップのその言葉に、ソフィアは青ざめ、言葉を失ったまま立ち尽くす。そして数秒後、怒りに顔を歪めながら、その場を去っていった。
私とフィリップは、黙ってその後ろ姿を見送った。ソフィアは自分の欲望にだけ忠実で、誰かを心から大切にしようとすることはなかった。けれど、彼女の手には何も残らないのだということに、ようやく気づき始めたのかもしれない。
その後、ソフィアは他人の婚約者を奪おうとした女として社交界で噂されるようになり、次第にその姿を見かけなくなった。気づけば、彼女の周囲からは人が去り、誰も近づこうとしない、孤独な存在となっていた。
◇
私は王都郊外の静かな邸宅に住むようになった。日々は穏やかで、けれど退屈ではなかった。
「クラウディア、今日も一局お願いしていいかな?」
軍務の合間に訪れるフィリップは、相変わらず不器用な笑顔でそう言う。
「もちろん。でも、手加減はしないわよ?」
「ああ、もちろんさ」
盤上に駒が並び、静かな戦いが始まる。
私はかつて、空気のような存在だった。誰からも愛されず、価値を認められなかった。
けれど今、私の知恵を、時間を、心を必要としてくれる人がいる。
私が選び、私を選んでくれた人がいる。
駒を一つ動かすたびに、それが確かなものだと実感できた。
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