第5話 お父さんの帰宅
「お帰りなさい、ガーウェイ」
王都でも古い建物が多い下町の、ボロアパートの四階。懐かしの我が家の扉を、シアラが開く。
シアラとガーウェイが子供の頃から暮らし、俺とシアラが結婚してからも、アズが産まれてからも、市場に近く、俺の育った教会へも通える上、軍の詰所も近かったので、利便性から引っ越さなかった古びた我が家だ。
扉が開いた瞬間、生活の匂いが鼻をくすぐる。暮らしていたときは何も感じていなかったが、そうか、これが俺の家の匂いか。
歩く度に軋む床の音を聞きながら家に入ると、台所に置かれた丸いテーブルには、背もたれのない椅子が四つ、周りを囲んでいる。
俺の椅子が残っていることが、当たり前なのかも知れないのに、この家に居場所があることを語っていて胸が温かくなった。
壁にはアズが三歳の時に描いた俺とシアラの絵が、そのまま残っている。あの時は微笑ましいと思った次の瞬間、大家に見つかったら何と言えばいいのか二人で考えたりしたな。
「ガーウェイ、服はタンスの中にしまってあるから着替えたら?
そのままじゃ、休まらないでしょ」
帰宅許可が下りたので王都に戻った時のまま、軍の装備のまま家に帰ってきたが、シアラの言う通り、装備を身に着けたままじゃ、いくら家に帰ったと言っても身も心も休まらない。
「そうだな、着替えてくる」
台所にある二つのドアの片方を開く。俺とシアラの寝室だ。
寝室に入り、ドアを閉じて部屋を見回す。シアラと寝ていたベッドとタンス、それだけだ。ここも五年前と変わっていない。
窓からは市場の喧騒が聞こえてくる。相変わらずのうるささに、懐かしさを感じる
腰に着けた剣帯を外し、タンスの中から着替えを取り出す。
着ていた軍の装備を脱ぎ、五年ぶりに自分の服に袖を通すと、妙に体が軽くなった気がした。
靴も軍靴からシアラが手入れしていてくれたのだろう、五年前に履いていた靴を履くと、何だか足元が不安な気がしてくる。
着替えた後で、右目の眼帯をどうしようか考える。顔の傷隠しだし、取ると傷が目立つから見せない方がいいだろう。
改めて自分の服に着替えて、自分は家にいる時こんな格好だったんだなと思った。
五年間、軍の装備に身を包んだままだったので、まるで知らない誰かの服でも着ているかのような気分だった。
けれどもう、軍の装備を身に着けるのも終わりだ。
これからはこの服で過ごすんだと思い、台所に戻るとテーブルの上に酒瓶とカップが並んでいた。
「義兄さんも飲むだろ?」
そう言ってゴーヴァンが、酒瓶と二つのカップを掲げる。
「ゴーヴァンお前、酒を飲むようになったのか?」
「そりゃあ俺だって二十一だぜ、酒くらい飲むさ」
「ゴーヴァン、こんな日の高いうちからお酒飲むの?」
「いいだろ、姉さん。義兄さんが無事帰ってきたんだから、そのお祝いだ」
酒か、まともに飲んだのも五年前だな。
「じゃあ、貰えるか」
ゴーヴァンは牙を見せて笑うと、テーブルにカップを置き並々と酒を注いでいく。
その様子をアズがじっと見てる。
「ちょっと待って、アズはこっち」
そう言ってシアラは冷蔵貯蔵庫からミルクを取り出し、別のカップに注いでいく。
「姉さんも飲むだろ」
「私は止めておくわ。
みんな酔っぱらったら、夕飯はどうするの? ガーウェイが帰ってきたのに、パンだけになるでしょ」
そう言ってカップにミルクを注ぐ。
カップの一つをアズに渡し、俺の記憶の中のいつもの椅子に座る。
ゴーヴァンも酒を注いだカップの一つを、俺がいつも座っていた椅子の前に置いて、自分もいつも座っていた椅子に座る。
「どうしたの、アズ。座らないの?」
カップを持ったまま、アズが俺を見て何か言いたそうな顔をしていた。
「アズ、こっちに来るか?」
俺が自分の膝を軽く叩くと、何かを期待する眼差しで俺を見る。
「いいの?」
「もちろんだ」
アズを抱き上げ、膝の上に座らせる。記憶の中の三才の頃に比べると、当たり前だが重くなっていた。
「これでみんな飲む物は持ったよな」
それじゃあ、とゴーヴァンが俺を見る。ああ、乾杯するのか。
「そうだな。じゃあ、家族とこうしてまた会えたことに、乾杯」
俺がカップを掲げると、皆もカップを掲げる。アズが掲げたカップと小さく互いのカップを打ち鳴らすと、アズは満足そうな笑顔でミルクを飲む。
俺もカップに注がれた酒を飲む。久しぶりののどと腹を焼く感覚が、何とも言えず心地良い。
「ほら、義兄さん。もっと飲めよ」
ガーウェイは空になった俺のカップに酒を注ぎ、自分のカップにも次の酒を注ぐ。
「おいおい、ガーウェイ。ずいぶん早くないか?」
「義兄さん、俺はいつもこんなもんだぜ」
「それでいつも家で飲むと、テーブルに座ったまま寝てるじゃない」
「おじさん、お酒飲むとお母さんに怒られてるんだよね」
「姉さん、アズ。義兄さんの前で言わなくたっていいだろ」
笑う三人を見て、俺がいない間にみんなが過ごした時間があることを、改めて知らされる。
むしろ五年もたったんだ。何も変わってない方がおかしくて、あの頃とは違う今が当然なんだ。
カップを持つ俺の手に、シアラの手が重なる。
俺がシアラを見ると、シアラは俺が困っている時によく向けていた、柔らかな笑顔をしていた。
「そんな顔しないで、ガーウェイ。
あなたがすごせなかった五年は、私たちにとってはあなたがいなかった五年なの。
これからは五年でも十年でも、それ以上を一緒に過ごしましょう」
「そうだな。またこうして、皆ですごそう。
もう、戦争は終わったんだからな」
シアラの手に俺の手を重ねる。改めて触れたシアラの手は五年前より固く、皺が刻まれていた。
この五年間、俺がシアラにかけてしまった苦労の印だった。
「お父さん、これからはずっと一緒にいられるんだよね」
「ああ、これからはどこにも行かないさ」
アズが俺の体に寄り添い、嬉しそうな顔で俺を見上げてくる。
そうだ、これからは家族とすごせるんだ。
「義兄さん。今日、何か食べたいものあるか? 夕飯は義兄さんが食べたいもの用意するよ」
「そうね、今夜はガーウェイの食べたいものにしましょう。
今なら市場で買い物もできるし、何でも用意できるわ」
「買い物に行くの?
僕も、僕も一緒に行く! ねえ、お父さんも行こう」
「皆で買い物か。
いいな。市場に行くのも、みんなで出かけるのも、本当に久しぶりだ」
戦地じゃ、まともな食事なんて食べられなかったから、食べたいものを考えると、何が食べたいのかすぐに浮かばなかった。
「そんなに難しい顔しないで。
まだ日も高いんだから、ゆっくり考えていいのよ」
「そうそう、肉でも魚でも腹いっぱい食ってくれよ」
「おいおい、そんなこと言われたら贅沢したくなるだろ」
皆が笑う。
この笑顔の中にいることが、たまらなく嬉しくて、どうしょうもないくらい幸せだった。
「ねえ、お母さん。僕、買い物とご飯作るの手伝う」
「じゃあ、私とアズでおいしいご飯作りましょうね」
「夕飯の支度なら、俺も」
「ガーウェイは今日は休んでて。
食事の支度は私がやるから、落ち着いた頃に、また」
「今日は俺と姉さんとアズが用意するからさ」
酒を飲み、笑いながらそう言うゴーヴァンを、シアラが軽く睨む。
「ゴーヴァン、酔っぱらって刃物を持つのはやめて」
「包丁くらいじゃ、鱗に傷もつかないから大丈夫だって」
「そういう問題じゃないでしょ。火だって使うんだもの、酔っぱらって家の中で火を吐かれたら危ないじゃない」
シアラの言葉を受けてゴーヴァンが肩をすくめ、思わず俺の頬が緩む。
まあでも、吐いた火で料理をするのは勘弁してほしい。それは火が無いときの、最終手段のようなものだ。料理にツバを吐き吐けられているみたいで、正直いい気持ちがしない。
「お父さん、ぼくもね火、吐けるようになったんだよ」
「おお! それなら見せてくれるか。ああ、でも家の中はダメだぞ、火事になるからな」
一度頷いて、得意そうな顔をするアズ。
そうか。アズ、火を吐けるようになったのか。きっとゴーヴァンが教えたんだろう。
アズの成長に嬉しさを感じる反面、寂しさを感じた。産まれてから戦争に行くまでの三年間、俺はこの子に、何を教えられたんだろうか。
「そうだ、ガーウェイ。いつまで、ゆっくりしてられるの?」
「え、お父さん、またどこか行っちゃうの?」
「さすがに明日、明後日から任務でってことはないよな、義兄さん」
皆が俺を見て、不安そうな顔をする。
実はすでに王都に戻る前に、次の任務は決まっていた。ラウニードという貴族の指揮下で、戦時下と同じ部隊の仲間、王国各地へ赴くというものだ。そこで何をするのかまでは、まだ、聞かされていない。
だが、もう家族と離れるような日々を送るつもりはない。
「実は、それなんだけどな」
俺は一人決めていたことを口にする。
「軍を、辞めようと思ってるんだ」