「双見湖」
波打つ湖面に陽光煌めく昼も間近な巳の刻に、昨夜も降ったか踏み跡の無い雪面を、辿るも一人と判る痕跡を残せば、雪の下地に砂利を感じて湖畔を歩く。
湖面に張った氷と水辺に積もった雪とを波間に揺らし、寒風がシャーベット状にかき混ぜ鳴らすシャリシャリと、角を削られ丸くなった岩の欠片は隙間に水を通し転がり擦れる音軽く、歩みに踏めばギュッと鳴らして沈み込む。
先日ここ双見湖で起きた事故に、ネットで書き込まれた妙な噂の尾ひれを目にして気になり、数週間待った冬休みに帰省の序でと勝手にフィールドワークと称し湖畔を歩き調査していた。
「馬鹿な質問すんげねえ、この税金泥棒が。こん方ば、こがん格好すんげもエラい学者先生だがぞ!」
昼前の湖畔を若作りに白いショートダウンにスリムパンツで厚底スニーカーを履いた女が独り大きなバッグを背負い湖面を見つめ、石を持っては覗き込む姿が傍目に異様な雰囲気にでも見えるのか、入水自殺志願者と疑われ巡回中の警察官から不審者扱いに職務質問されていた中、私を言語地理学の講師である加々見温子と知る男が呼び止める。
数年前、地域史研究会の刊行誌に鑑石市と槍水町の成り立ちを寄稿するのに協力をいただいた双見湖歴史館の館長さんだが、会話の流れに何故かそのまま歴史館の応接間へと連れ込まれてしまった。
「先生ば都の大学から来られた言う話で、知らずお恥ずかしい話ばですげ、後で加々見先生が|槍水の加々見方にあるお社の宮司ばしんかった八代さんのお孫さんだお聞ぎしましで」
「ええまあそうなんですけど、血げ濃ぐなるのを嫌い村の外に嫁がす風習に反じ、父は各務、カクムの各務家の母と一緒に家ば飛び出したもんで、謂わば駆げ落ち同然で、産まれた私ばクッションにしで戻る感じに、幼少と高校ばこっぢで、後は……」
今日は元々この地方の神事を取り仕切る面々が集まり会合を開く予定だったらしく、その主題こそが私の調べている噂の尾ひれにも関わる事だと聞いて話に入る事にしたものの、いっこうに始まる気配は無く。
大学講師とは思えぬだろう格好に引け目を感じるこちらよりも、久々に女と話すかの如くに目が浮かれ、何処ぞの店も行けばバレる狭き町故か、我慢のタガが外れる手前の老人青年団、とはいえ協力してもらった手前にウンザリ顔も出せずにいる。
協力いただいた数年前、私は刊行誌に寄稿する為この地方の地域史を調べる事になり、久々にゆっくりとした里帰りと気を緩ませ温泉に浸かる等して色々のぼせ上がっていた。
当初は調べ纏める作業にも元宮司の祖父八代から聞かされていた話や、蔵で隠れ読んだ書物の概要を基礎に、肉付けすれば済む程度の話と思っていたからだ。
けれど村社会の構造はそれだけでは済まない話が多くあり、血統に基づく家系の上下に揺らぐ争いの上で成り立つ社会をまざまざと見せられ、跡目相続にお家騒動は付き物と政治だけでは片付けられず、更にはそこに神事が仲裁する形で入り込んでいる。
村の史実には子供の頃から聞かされていた我が村の神事だけではなく、神事を通して関わる他の村や山や湖やの神事と共に決まり事が作られ、政治的な役割を担いこの地を守って来た。
その湖の神事こそがここに集まる者達が話す鑑石市や槍水町の祭りに関係しているもので、古くから住む家の納屋や蔵に残っていた書物を漁り読み解く作業に追われた。
元は加々見村の雪屏風から湖へと注ぎ込む川を加々見川、何時の頃にか消えるも鑑石村から湖へと注ぎ込む川もあったようで、その名を鑑見川と記す古い書物が残っている。
その二つの川により生まれた湖が故に、名を双見湖と言う。
今居る湖南地区はその名の通り湖の南側に位置し、双見湖から東南へ流れる麻布川と、西へ流れる美子川と、双見湖を水源に流れ出す二本の川に挟まれる地域を言う。
春夏紅葉シーズンは観光船ともなる水上バスの3つの港駅には【加々見】【鑑見】【湖南】と、今に昔を残す名が付く。
脇を流れる麻布川の由来は、江戸中期の古文書に銀鉱山だった名残か間歩(坑道)の痕跡が残っていたと記されている事から、江戸より前の戦国の世に掘られていたようで、奴隷商人でもあるポルトガルとの交易で鉄砲伝来と、武器を買う資金に銀を掘っていた可能性もあり、銀を都へ運搬する水路としての役割があったと思われる。
一方の美子川は、古くは巫女川と記されており、生贄に捧げられた女の流した涙が溢れ出た神聖な水とされ、病気や厄払いの清めにと川へ身を投じたり、神事には必ず美子川の水を汲んで行われる。
生贄を捧げられるのは冬に湖面が凍結すると行われる神事の折で、【双人鏡の儀】と呼ばれ、大きな鏡を合わせ太陽の光を一点に集光し凍る湖面に穴を開け、水を齎す双穴水鏡山の神とされる鑑見様への祈りに生贄を捧げ、その御心を鎮めるというもの。
明治初期までは生贄の儀式も執り行われていたようで、神事に関する書物の中では女人が巫女姿で凍った湖面で踊り経を唱えて祈りを捧げ、開けた穴に身を投じるシーンもあるが、昭和も戦後になると湖畔に鏡を置き祈りを捧げ、開けた穴に養殖で育てた在来魚の鱒をバケツ一杯放流するのを生贄としている。
昭和後期までは凍る事も多かったが、平成に入ってから凍る頻度が減ったが為に、神事を知る若者自体も減っており、50を過ぎた青年団の悩みのタネだ。
双見湖が凍らなくなった近年、湖畔で幼児や女性が湖に消える事故が頻発していて、助かった皆が一様に何かに引っ張られたと証言しており、中には何者かの仕業とする目撃談も多くあり、娘に咬み付き湖の奥へと泳ぎ引き摺り込もうとする2㍍大の黒い塊を見たという者も居た。
中南米や中央亜細亜の方に生息するような巨大ナマズやワニ等を何処かの馬鹿が放流したのでは? 等と憶測に妙な噂が町の外にまで流れると、ネットでは不吉な噂話を流して愉しむ輩が居るらしく、風雪の流布は神事の情報を捻じ曲げ創った怪談話にもならない下世話なものまで散見される。
そうした中には「生娘の生贄が必要だ!」だのと抜かす不貞な輩が保守を謳い、やれ左翼を沈めろだの喫煙者を生贄にすればいいだのと、何処ぞの国の利権に則して分断を煽り起こして漁夫の利を得ようとする下衆な団体の民衆誘導が蔓延るネット社会の闇が浮き彫りに。
神事を知るも不信心な者が鑑見様の祟りだのと抜かせば便乗し、土着信仰を勘違いに土人等と揶揄する若者達も増えており、土地神とは関係ない寺や社や神域までもを手前勝手に踏み入り荒らし貶めネットに晒す。
観光地の宿や空き地を買収しては外資に売って利を得ようとする投資家や政治屋からしてみれば、寺社仏閣が破壊されれば格好の的となる。
給料の目減りに日本人観光客を減らし外国人を招き入れる政策で増えた外資系企業、政党や議員の後ろ盾に何故か逮捕されない輩共の悪質な地上げが横行しているのが今の鑑石市と槍水町の湖南辺りの現状でもある。
双見湖の事故で湖南の神事が妙な注目を浴びている事に、危惧し集まり話し合おうという最中に私が来た事で、学者の立場を使って解決出来る手立てはないかと探る青年団の話は、謂わば猫の手としての歓迎にすら思えて来る。
神事を行う者や一般客までを撮影しては断りもなくネットに晒すを平然とする今の世は、見た目で人を見るような者達ばかりで、陽の下で行われる寺社仏閣程に揶揄に晒され、カルト的な教団程タブー視されて晒される事も少ないという、その卑怯な行動規範こそがカルト的でもあり皮肉にも思えて来る。
実際、鑑石市では鑑見港よりも更に北側にある山の一部を妙な教団に占拠され、市は道路計画の変更に翻弄も、その道路建設中に高速道路や周辺道路からの排ガスの二酸化炭素が吹き溜まり、信者が十数人亡くなっている。
事故と判断されはしたが、細菌兵器か何かではと疑う者も多く、教団施設の移設を求める声はあったが、何故か声の大きい者に不幸が起きる連続に、怖がり口を閉ざしているのが現状だ。
元は暴力団等の教団幹部が起こす事件も、教団との関わりと警察も知ってて知らずを通しているのだから検挙件数が減るのは当然で、近年は公表するのを検挙件数ではなく事件発生数に切り替え、当然の話に事件として受理しなければ発生件数は減らせる訳で……
その結果に誰にも追われぬ事件事故が増え、その犯人達が教団施設へ常習的に出入りしている事から、事情を知らぬ観光客は兎も角、地元住民は危険な地区としてあまり近付かない。
私が調べているのも警察が受理せず、オカルト扱いに地元紙やネットで時折書き込まれる程度には知られている、湖の中へと引き摺り込もうとする何かについてが、我が家の神事にも絡んでいる気がして物見程度に情報を集めていた。
というのも、雪屏風の名がメジャーになった今は冬幻鏡の云われを知る者は殆ど居ないが、私が学生時代に起きた事故で大人達が話していた内容を聞いて以来、私はその正体を突き止めたくて仕方がなくなり、先ずは古文書を読めるようにならなければと勉強を重ね、大学講師の立場にまで上り詰めたが今。
流石は神童の孫娘と氏子家系の皆に持て囃されるも、私がソレを調べようとしてこの道に進んだ事がバレると、途端に女がしゃしゃり出るなと叱られ、妥協案に言語学へと道を変えさせられた。
とはいえ院生時には、祖父が翻訳した偉い学者先生が訳し記したという明治期の書物を内緒で読み漁り、祖父の翻訳を答えとして照らし合わせてみれば解読にも成功していた。
宮司を継いだ各務家の洞弥おじさんが、仮名で弥代とする事にも現代の名義変更手続きの複雑さに理解を示した祖父八代は、流石に大学の講師ともなれば私に文句も言えず、年を取ったか文句よりも質問が増えている。
宮司になった洞弥おじさんは叔父にあたり、当時の事件の話を強請りに詳しく聞いて、あの冬幻鏡に関わっているモノノ怪の正体の調査にようやく着手する事が出来るようになったものの、本当に危険だからと今尚私があのお社の中に入る事は許されず、あくまでも書物の探求に留めよと念押しされた。
「だっげ先生、あげん所で何ばしとがですか?」
水難事故の話に飛び付き、またも帰省に家へも寄らず勝手に湖畔を調査し職質を受けていた理由を言える筈もない。
「あぁぁ、今年も凍らんげ双人鏡ば出来んじ、どがしたもんげね思いよっだら双見湖に触れだぐなっで……」
言い訳も思い浮かばず苦しまぎれに意味の解らぬ言葉を造るが、肩書き故か勝手に深く考え神事を慮っての好意と捉え感謝に握手を求められ、こちらの思考を悟られぬようにと笑顔を造る。
訛りがキツく、聞いてる内に私の言葉も濁りに訛る。消して町を出たつもりでも都では残る訛りに笑われて、帰り地元の空気を吸えば元に戻るは魔法のようで、言語学に身を置く者とは思えぬ訛りで話をずらす。
「何げ耳したげ、また事故が起きたち話ば、そげに関わる者と思われとんげかな?」
それとなく職質の言い訳に見せかけ事故の話に探りを入れる。狭い町の話は直ぐに広まり噂に尾ひれが付けば元の話すらも分からなくなる。
村の中には火消しに付く嘘と貶めに付ける嘘があり、二つは似てるようで正反対の意義を持ち、村八分をする側とされる側の力関係を判らせる。権力に近ければ悪事も消され、その灰を他人に被せて逃げ果せる。
詰まる処、村の中の話だけなら村人は誰が付いた嘘かも知れているが口を閉ざすだけ。
けれど村の外で付随する嘘は誰が付いたか判らず追えなくなる。ネットの無責任な書き込みが事件事故の犯人の逃走を助けてしまう。
故に急ぎこの事故の真相を探りに来た。
「はああん、あの事故の話ば都まで行っとるがで、そんげ大層な事故だがね」
工務店の専務が口にした一言は、事故の詳細を知っていると判らせる。職業柄に顧客との会話に噂話も多量に聞いているのだろう。
「専務さんは見たがですか?」
「げんげん、あれば息子の同級生で知った顔だげ、偶然隣家の天井修理で話ば聞いて驚きんしたんがよ」
話によれば被害男性は電気工事士で、何処かの電線架替え工事をしている最中に目眩いを起こし、過労を心配に半休にされるも、趣味の釣りをと湖畔に向かい竿を垂らした2時間後、精神を病んだか唐突に入水自殺を謀るも近くに居た観光客に助けられたらしい。
珍しい男性の被害者と判り、興味津々に目を光らせている気がしてお茶を飲む。
「例の噂に聞ぐあん話ば出んがかで?」
「ほうげ、それば言いしんがで頭可怪しなっただ診断されげ、双見病院にお入りなったがらしいで」
噂に聞く話とは、皆一様に何者かに引っ張られたと言うアレだが、警察の発表により力の弱い女子供が湖とはいえ引波の水の威力に負けただけとしたが為、馬鹿にし嘲笑うネタとされていたもの。
けれど高所車両に乗り相当に重たい架空線を持ち上げ架替える電気工事士の男性が、湖に引っ張られたと言うのであれば、警察の見立ても崩れ前提は全て覆される。
それこそ湖に何かが居る可能性が高まる話だが、警察はコレを自殺として処理した訳で、さして調べも考えもせず面倒事を嫌ったか、間違いと気付くも保身に認めず間違いを吐き通す気か、もしくは面倒事の原因を最初から知っているから手を出さないかの何れかだ。
「ほげ! そん噂の黒いもんだげな、うぢの婆さまが茶をすげでだ部屋べさある掛け軸の絵がな、ハンザギ言うがかにも似たもんが二匹描がれだの見でたんが、婆さま毎朝そげに拝みんしでたげ、アレば鑑見様ぞ言うてば気がすんべがな、如何せんじゃりの頃がてよう思い出せんばがよ、先生何が解らんがか?」
初めて聞く酒屋旦那の話に呆ける頭も、話を要約するにとんでもない事実が待ち構えているような話と理解し息を飲む。
「あの、そげ見れんばが!?」
ハンザギと言えば大山椒魚の別称にも聞く半分に裂いても生きてる事から付けられた名だと何かで読んだ記憶に則して考えれば、江戸より昔に斬り殺しても死なぬは神か仏か化け物か等と思われても可笑しくはない。
仮に大山椒魚が鑑見様だとすれば、冬幻鏡から流れる加々見川や、今は無い鑑見川に居たとするなら、双見湖で見られていても不思議は無く、女子供が引っ張られたというのも食に獰猛な大山椒魚なら起こり得る。
何処かの地方の風習に、昔は大山椒魚を食べていたと書かれた地域文化研究の刊行誌を読んだ記憶があり、ハンザギとカンガミは呼称の響きも近く、ずれた呼称に名を変えた可能性も十分にある。
掛け軸を証拠に据えれば新たな研究の材料にもなり、大山椒魚が双穴水鏡山に生息している可能性に調査もされれば水源地を守る意識に、邪な政治屋の絡む開発業者も手を出せない防壁ともなる話だ。
「そっだら掛け軸もう消えん去りしたでな、婆さま亡くなりんして直ぐに相続税がじ、土地も取られで家ん中さ物も競売かげで売りん去ったげ、何処さ行っだがな知るげでねえがに」
凡そ地域史の壁はこれだ。山を持つ家も昭和の終わりまでは子供が多く、勤めに都会へ出た子供達との分配に、跡目相続よりも相続税の支払いに家を売って済ませる方を選択に、放棄された山や家やが田舎に増えて、今はそこを外国人に買い叩かれ水源地をも失っているのが日本人。
政治屋が外資企業から献金を貰った政策に保守を謳うのだから、売国に走る日本の政治に未来は見えず憂うばかりの今を見るようで、消えた掛け軸に古き日本人の心をも売られた気持ちに打ちひしがれてか溜め息が漏れる。
「まあほうげよね……」
「だがだっげ、及川さんどごの娘さ消えで何年なる?」
「奥さんば気ぃ可怪しぐしで双見病院入っとるげ、旦那独りだげな」
「毎朝湖畔ば歩き周りんしで娘探しとるげ、見てられんがざ」
及川家は湖南に住む銀行員の父親と看護士の母親と娘の3人暮らしだったが、随分と前に奥さんが娘と湖畔で遊んでいた折、娘が何かに引っ張られるのを見て慌てて湖に飛び込み奪い返したらしいが、その時の恐怖からか気を可怪しくしてしまい、今も双見精神病院に入院しているらしく。
母親と共に娘も警察に話したが、警察は精神病患者と子供の戯言として信用せず放置したが為、小さな町の事に噂は直ぐに広まり、町に危険を齎す変人とされある種の村八分的な扱いを受けてしまい、娘も学校で虐めの対象にされた。
けれど負けず嫌いが勉強に力を注ぎ、名の知れた大学に入り東京の方へと出ていたが、就職が決まり秋休みに帰省するも、数日後に自転車で出かけたまま帰る事は無かったという。
姿を消す前日、娘は母親の言っていた物を見付けたと話していて、出かける折。
「確認してくる」
と言い残していた事から、何かの事件に巻き込まれた可能性があるとして、父親は警察に捜索願いを出したが受理されず。
その後も見付からずで、警察は母親の事を相手に言えず男と駆け落ちに逃げただけだろう等と、余計な尾ひれを付けた話を外部に漏らし、町では娘もロクなもんじゃない等と噂に火を付け油を注ぎ、父親は独り町で笑われながら生活する日々。
地方銀行とはいえ信用が第一と、父親は降格人事に出向扱いで銀行が担保に取った宿で会計事に従事させられ、宿屋の主人からも厄介者扱いにされている。
金を借りて尚横柄な態度に、銀行側も迂闊を出来ない相手なのだろうと町の噂に知るその背後関係故か、やたらとその宿屋ばかりが宣伝され客は入る。
けれど妙な事に湖南地区に住む者にも及川家の事情を聞いて蔑み罵る者も居るが、その殆どは後から市に来た者達ばかりで村八分というよりネットリンチに近く、子供に噂を流しているのも後から移住してきた親子からばかり。
後から移り住んで来て何故に地元の個人情報を知り得て噂を流せるのかに、余程の警察とのコネがあるか公安課を使った扇動活動か、いずれにしても隣家の情報を何処で仕入れて何処で話すのかにも、噂を流す輩にろくな者は居ない事だけは間違いない。
「何べか前も娘の描いだち言う妙な絵ば湖岸に貼っで怒られとったがじ、あれば事故げ起ぎる度だげ、よっぽどだ」
「何げ、そげも私知らんがよ」
聞けば父親は水難事故が起きる度に危険を知らせるポスターを貼り、娘の描いたメモの絵と共に見たら逃げてと書かれているとの話に、前のめりになっていた。
「こごにも来で貼らせで下さい言うが、目立たん所で良かが言うし受付の下ばに貼りおったままげ、見るがか?」
「是非、お昼も過ぎよるもんで……」
時計に目をやり13時、既に昼を過ぎている事から食事を言い訳に席を立つも、史跡や古文書よりも興味津々なのがバレた気もしつつ頭を下げ館長の案内に部屋を出る。
入口脇の喫茶ラウンジの壁に貼られる市内の祭りや観光案内やのポスターや地図やとは別に受付にも多くの観光ポスターが貼られる上部とは別に、受付窓口の台下に遠目に見ないと気付かない位置に貼られているのを屈んで覗く。
「こげ、ちょ、写真ば撮らえてもええが?」
「ええげええげ。良げんば中に何枚があんで持っで行ぎます?」
「え、えがですか?」
「えがえが、先生が調べんなさるち聞いだら及川さんも喜びんしよ。シライシさん、こげのポスターあんげ」
受付の女性が事務所の中に入って3分程して、脇のドアからポスターを丁寧に筒に包み入れて持って来た。恐らく先生と調べる言う響きにした事だろうと敢えては言わず受け取った。
絵を見て先の酒屋の話が気になった。絵の顔は違えどフォルムは大山椒魚と似ている。古い書物ばかりを漁っていた事もあり、思い返すに鑑見様とされる絵は見た事もない。
ふと神事を行なって来た双巫神社が浮かび、まだ後ろに残る皆に訊いてみる。
「鑑見様の描かれた絵や掛け軸言うんば他にもあるげですか?」
皆が顔を渋くする中、金物屋が顔を上げた。
「あ、確か双巫の社務所に何げそんがん見だ気がすんなぁ……」
「そげどんが姿でした?」
唸るばかりで答えは出そうも無く、行った方が早い事を判らせる。これ以上居ては昼も食べれず日が暮れる気がして笑顔を振り撒き外へ出る。
とはいえ歴史館は食事処の在るような場所になく麻布川沿い。気になる双巫神社は美子川沿いで、渡れば槍水町の商店に美味しい店も在ると知るだけに。
「先生、宿まで送りましょうか?」
双見湖まで行けばバスは在るが本数も少なく、そもそも宿ではなく祖父の家へ行く予定、出来れば双巫神社へ立ち寄りたい。
「あぁ、槍水のパン屋に行こうかと……」
「ほんげ送ります」
酒屋の配送用の軽トラに揺られ槍水へ、道中に幾らか聞けた情報で凡そ見えて来たのは、酒屋の祖母は加々見村の出で、噂の教祖石神家とも上の方で繋がる親戚である事、詰まる処が石神家もまた加々見村の血が入っているという話になる。
田舎の世間は狭過ぎる、と笑う酒屋の話に少し背筋が寒くなるのと同時にパン屋の前に着いていた。
「あ、先生こげ持って行きんなて」
降りた私に一升瓶を渡して走り出す。車が過ぎるとパン屋の窓に映る場違いな水商売の呑兵衛女が立ち尽くす姿があった。
とりあえずに一升瓶をバッグに入れてパンを買う。中で食べる勇気を失ったのは正しく鑑見様の呪いのようだと心に思い、食べ歩きに菓子パンを咥えながら美子川沿いを行く。
職質をされたのが今なら、バッグには酒と着替えと土産のお菓子と母に美顔器と父に頼まれた髭剃りに歴史館で貰った筒、それこそ言い訳も浮かばない不審者だろう事を自覚し、周囲に警官が居ないか警戒し確認する様こそが不審ではある。
そこそこ歩き双巫神社に着いた途端に理解した。
「あぁぁ、こげ、な……」
我が家の社と同じく双巫神社にも狛犬は無く❛❜おたまじゃくしのようにも見える勾玉や太極図の類かと思えていたその狛こそが及川家の娘が描いた絵にも似た大山椒魚の如き生き物。
加々見の社の狛は雪に削られ既に絵すら無く、ただ丸い何かの塊が乗るだけだ。
「あぁんげ、八代さん所のお嬢さんでねえげ?」
階段の上からコチラを覗く宮司とは親族みたいなもの、先の刊行誌の際にも協力いただいたが、何故に一番の当事者が歴史館で集まる中に居らずここに居るのかとは思うも、今ここに居る事に感謝する。
「あの、こげ、狛のこげて何?」
「ん、あぁそげなあ。確か、何ち言うたが、ハンザギか何か言うち、お、そが! 社務所にそげっぽのが在っただ気がすんげ、見るがか?」
「見る」
久々だなと子供の頃の恥ずかしい話を口にしながら社務所の鍵を開け、一応に宝物庫っぽい部屋の棚の引き出しを開けては探すをしながら何を思い出したか宮司が口にした。
「あれ、前にも誰かこげ、ああ、及川さんか。ほうが、あげで出して、見せて何処げ入れたがな……」
あの及川さんに違いない。だとすればこれに気付いたと考えるのが自然だ。確認次第及川さんに会わないとだ。
「娘さん消えた及川さんの事?」
「ほうげ、あ、ほうげ! あっこがよ」
棚の引き出しではなく隣の部屋に向かうと応接間、壁に掛けられていた絵を見て確信した。
「こげが鑑見様げ?」
「多分な、偉え古い物ざげ詳しいば解らんが、明治の頃に学者が調べち言う物らしいで」
「明治の学者……」
「ほれえ、前ざオメさん所で見付かっちアレげ言う話だば」
祖父が訳したアレを書いて穴に落ちたという学者が、これを調べ観て鑑見様としたなら、加々見村の出である酒屋の祖母が拝んだそれを何処で知り得たかが気になる。
「こげ、うぢの方でも知っとるの?」
「知らんがろ、だげ俺も知ったば最近だげな」
詰まり及川さんが調べたという事だ。だとすれば……
「ほげ、あん創穴鑑見構の石神家て加々見とどが関係がよ? 酒屋の祖母が加々見家の出で石神家とも遠い親戚関係て聞いたげ」
「ああ、詳しいまでば知らんが、あん石神の祖母はカクムの各務家の娘ち言う話ば聞いた事あるげ、そもそも石神家ば寺の養子だが言う話ち、元の寺ばやなぐ鏡石ば信じ云う神社の家系と寺の娘が恋仲なっでくっ付いだち言う話だっげが思うばざ」
とんでもない話になって来た。先ずは及川さんが何処まで調べているのかを確認する必要に、勤め先の宿屋が在る鑑石の方へ向かう事にし双巫神社を後にする。
「ほいじゃ、また来るげ」
絵を探すのに随分とかかり、時計を見れば既に21時を過ぎていた。
冬季に水上バスは運行せず、タクシーも鑑石市の北に在る駅の方に居るこの時間、ある種の賭けに終バスで鑑石の宿屋へ行くも。
「及川さんば入院しとる奥さんの見舞いげ双見病院行っだち聞いとるがよ」
賭けに負けたか今日に全てを訊くのを諦め、ゆっくり温泉に浸かり夕飯を食べた深夜に外へ出るもタクシーは通らず、ふと駐車場でチェーンを装着しようと必死になっている大学生程の男共が目に入る。
「乗ってく?」
声をかけられ、いい歳なんだから村に若い男でも連れて来いと口煩く言う母の顔が浮かび、ある意味若い男を連れ帰ると考え笑顏を造る。
「良かった。今から山向こうの病院に行きたいんだけど、いい?」