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ジャカランダ慕情

作者: 水流慎太郎

ジャカランダ慕情


 ヤン・スマッツ国際空港に山崎が降り立ったのは、秋が始まりだした頃の早朝であった。

成田を離陸したのは五月の連休明けだったが、南半球ではこれから秋冬に向かおうとする季節である。空港内に暖房はまだ入っていないようで、機内で暖まっていた身体には寒気がチリリと快い。

ヤン・スマッツ国際空港は一九九四年にヨハネスブルグ国際空港と名を変えたが、二〇〇六年にはアパルトヘイト闘争の英雄の名を取り、現在はオリバー・タンボ国際空港となっている。山崎が南アを訪れた頃は、南ア現地生まれの白人で南アの首相を務めたヤン・クリスティアン・スマッツの名にちなみ、ヤン・スマッツ空港と呼ばれていた。

空港内には多民族国家を反映して、色とりどりの民族衣装を装った人々が旅客の送迎に出ている。肌の色もさまざまだが、やはり黒い人々が圧倒的に多い。

イミグレイション・チェックを終え、ゲートを出てほどなく、人混みの中で自分に手を振っているシャーリーの姿が目に入った。胸のあたりで微かに手を左右に振って微笑んでいる。

肩より高く手を上げ大仰に名前を呼んで駆け寄って来たりする、よくいる外国人とは違い、日本の昔の女性のようなあえかなる気配が窺える。

「トシ、おはよう、疲れたでしょ。遠いから」

近づいて静かな声をかけて来た。

「お元気のようね」

シャーリーのブルーアイが山崎の目をじっと見つめてほほ笑む。

「バイア・ダンキ(ありがとう)、シャーリー」

「あら、バイア・ダンキだなんて、私たちの言葉で嬉しいわ。ホテルで少し休んだら。お昼過ぎに迎えに行きます」

シャーリーはホンダ車を駐車場から駆り出し、ヨハネスブルグのダウンタウンへと向けた。高速道路は砂漠の中を左右に、そして上下に大きなうねりをつくって進んで行く。遠くに高いビルが林立しているのが見える。思いのほか樹木が生い茂っている。紅葉が始まっていた。

「アフリカというから、キリンやゾウがあちこちにいるのかと思ったよ」

 山崎はシャーリーにニヤリと目を送った。

「まさか」

 シャーリーは一九世紀中ごろ、この地に白人社会を構築したオランダ系白人の末裔である。彼らはオランダ語から派生したアフリカーンスという言葉を使うが、英語も話す。山崎は、海外出張の時はいつもそうであるように現地語の「ありがとう」や「ごめんなさい」それに数字の数え方などを飛行機の中で学んできた。


 午後、紺碧の空のもとホテルから車で五十分ほど走ると、そこは南アフリカ共和国の首都プレトリアだった。

街中には、目にも鮮やかな青紫の花を満開に咲かせた大きな木が、道の両側に並木としてズラッと植えられている。樹木の高さが十メートルはゆうにあるような巨木で、枝も自由奔放に伸びきった感がある。

「この花というか木は・・・」

「ジャカランダよ、素敵でしょ、今ごろが一番の見ごろなの」

 山崎は、初めて見る彩度の高い花の色彩とそのボリュームに圧倒され言葉も出ない。

空も見えないほど密になっている青紫の花のトンネルを緩やかに走り出ると、小高い丘の上に来た。シャーリーに腕をそっと押されて見晴らし台のようなところに着いた。そこからの景観に山崎は思わず息をのんだ。

プレトリアの市街地が一望できる。それはともかく、市街地のビルの間という間や通りの沿道には、ジャカランダの青紫の花が一面に敷き詰められたように見下ろせる。

「もうひとつお見せしたいところがあるの」

シャーリーは、山崎をそこから遠からぬ所にある記念碑(フォールトレッカー開拓記念碑)へと案内した。記念碑とはいえ、ちょっとしたビルになっている。広い内部の壁面は、オランダ人が最初にたどり着いたケープタウンを基点とする南西部ケープ植民地から、プレトリアを含む北東部地域へ移住してきた、その苦難の開拓の歴史が横長の絵巻物のように大きなレリーフとなっている。

ケープ植民地が拓かれてからはオランダ人は次第に増え、やがてボーア人という民族集団を形成する。彼らは大きな農園を経営するようになるが、それを支えていたのは、紀元前から居住していた原住民を奴隷として使う労働力であった。ここにその後のアパルトヘイトの源流を見ることができる。

ナポレオン戦争後、南アは正式にイギリス の領地となった。英語が公用語となり、英語を解さないボーア人は二等国民として位置付けられた。ボーア人は自らをアフリカーナーと自称し地位保全を目指す。しかし、イギリス人治世下で奴隷労働の廃止が打ち出されるや、これに反対して北東部の奥地へと大移動を始めたのである。

北東部への移住と言っても、行く先々では先住民との戦いがあり、食糧難なども加わり大変なキャラバンだったことは想像に難くない。この記念碑はそれを後世に伝えようと建てられたという。しかし、ここを訪れている、山崎の周囲にいる人々の中には先住民の末裔たる黒人は見当たらない。

シャーリーにしてみれば、この記念碑は自分たち開拓民族アフリカーナーの誇りかもしれないが、山崎は居住地を追いやられ、戦いに倒れた先住民の無念の情を思いやらずにはいられなかった。


 山崎とシャーリーが初めて出会ったのは、その前年であった。シャーリーは国際的なダイヤモンド・シンジケートの南ア本社の社員、山崎はその企業の日本市場のマーケティングを担当していた。

 その企業が主催する教育セミナーが、ローザンヌでは最も素晴らしいとされる、レマン湖の畔に建つ瀟洒なホテルで開催された。ドイツ、フランス、スペイン、チェコなどヨーロッパ各国から山崎と同職の男女が十人ほど集い、トレーナーと共に十日間ほどを過ごす。

主にダイヤモンド原石や研磨済ダイヤモンド、およびダイヤモンドを使った宝飾品の商品知識の習得や高級宝飾品小売店の経営方法を学ぶ。これを元に自国のダイヤモンド宝 飾品店の販売支援をするのだ。

しかし問題は言葉だった。ローザンヌはフランス語圏内なのでヨーロッパ人は難なくフランス語を話す。しかし、山崎がフランス語を使えないということがあって、一同は英語を話すことになった。しかし、議論百出し話が佳境に入ると、いつの間にかフランス語になり、山崎は取り残されることになる。

ロンドンの営業本部から来ているコーディネーター役のジェニーがこれに気が付き、

「バックトゥージイングリッシュ、フォー・トシ、プリーズ」

と参加者に英語で話すことを促す。そんなジェニーからの喚起があっても英語の中にフランス語はかなり入ってくる。

 これに困惑気味の山崎を見かねたのか、休み時間を挟んで山崎の隣に座ったのがシャーリーであった。

色白の肌、薄い栗毛色の髪を無造作にキリリと束ねあげ、目はブルーアイ、赤地に細かい白の水玉模様のブラウスに黒のパンツ・ルックであった。普通の外国人女性に比べると小柄である。

セミナーの間中、ジェニーは時々、

「バックトゥージイングリッシュ、プリーズ」

と参加者に英語復帰を促さざるを得なかったが、ちょっとフランス語が続くとシャーリーは、その意味を山崎の耳元で英語で囁いてくれた。時々、山崎の耳にかかる彼女の吐息が彼をときめかせた。

 セミナーの一日が終わると、それぞれシャワーを浴び、そろって外部のレストランへ夕食に繰り出すことになっていた。集合時間にロビーへ下りると、シャーリーが手を振って近寄った。

 シャーリーは髪をおろし、淡いグリーンのワンピース姿に変えていた。リングやイヤリングも付けてきた。なべて派手な装飾品を付ける他の参加者に比べると、彼女のそれは質素なデザインであった。しかし、よく見ると石目は小さいがクオリティの高いダイヤモンドがセットされていた。

 一行は二台のバンに分乗し、街灯もない漆黒の森の中の舗装路を走り、再びレマン湖の畔に出た。湖にせり出したデッキの上のテーブルに予約が取られていた。テーブルの上には無造作にパンが置いてある。

おのおの好みで飲み物と食べ物をオーダーする。しかし、メニューは生憎フランス語だ。肉だの魚だのオードブルといった程度のフランス語はわかるが、メニューのひと品ずつは、山崎にはとてもわからない。するといつの間にか隣に席をとったシャーリーが、一品一品ずつ英語で説明を始めてくれた。

「主なメニューだけでいいです」

と言ったのに、

「でも、せっかくだから・・・」

と静かに言い、根気よく英語で全部説明してくれた。毎晩異なったレストランへ行ったが、その都度シャーリーが説明してくれた。

 一同、卓上のパンを肴に、料理が出るまでの長い時間、ワインを口にしながら諸国の事情に話を咲かせた。シャーリーは日本のことに非常に興味を示し、東京の街の様子、歌舞伎や柔道、食べ物、そして女性のファッションと、質問は矢継ぎ早に出てきた。

 食後、一同はホテルへ戻り、ラウンジで再びグラスを手にし、話の続きをする。山崎は同じ女性とばかり同席しては具合が悪かろうと案じたが、シャーリーはそんなことにはいっこうに構わず、いつも山崎の横へ滑り込むように座って微笑みかけた。

 ひとりふたりとラウンジを後にするころ、シャーリーは湖畔を歩きたいと山崎の目を見つめて言った。ローザンヌは治安の良いところとは言われているが、夜ともなれば犯罪に巻き込まれないとも限らない。

 しかし、セミナーに来て何日か経過し、毎日好意的に奉仕してくれるシャーリーに対し、山崎の中に仄かな親愛の情が芽生えつつあるのに自分で気がつかない訳ではなかった。感謝の気持ちを超えた感情が醸成されつつあった。街灯に照らされている遊歩道なら大丈夫であろうと、山崎はシャーリーの申し出に応じることにした。

 ホテルを出て人目を気にしなくてもよい辺りへ来たとき、シャーリーは山崎の片腕を自分の胸に抱えた。押し付けられたシャーリーの胸を通して彼女の鼓動が伝わってきそうだった。湖畔を這う緩やかな夜風で、シャーリーの髪が山崎の顔を柔らかに掃いた。シャーリーのフェミニンな香りが山崎の鼻をかすめた。


 山崎が南アを訪れることになったのは、日本の主要宝飾店のオーナー達を、南アのダイヤモンド鉱山やゲーム・リザーブ(動物保護区)へ案内するためであった。

 山崎は一行より一足早く日本を発ち、南アでシャーリーと二人だけで会える日を捻出したのだった。

プレトリアでの観光をあとにして、二人は再びヨハネスブルグへ取って返した。

 夕食前に街を歩きたいという山崎のリクエストに、シャーリーは彼を宵闇がせまる商店街へと連れ出した。何の躊躇もなくシャーリーは山崎の腕を胸に抱いた。ふたりの足並みに合わせて、彼女の胸が山崎の腕を押した。

 街はなんとなく埃っぽかった。古い新聞紙がショッピング・ウインドウの前に滞っていたりする。ディスプレイも商品も陳腐で、山崎の何の関心も惹かなかった。

 すると、どこからともなく貧相な身なりをした子供たちが現れた。山崎たちの前にきて、

「ギブミーマニーフォーブレッド(パンを買うおカネをちょうだい)」

と手を出してくる。

 山崎はいくらくらい差し出せばいいかシャーリーに尋ねた。

「トシ!、ダメよ!。アブソルートリー・ノー!(絶対ダメよ)」

 いつも静かな言動のシャーリーが強い剣幕で山崎に言った。彼は余りの事にたじろいだ。

「トシ、ここでいくらかでもおカネを渡したら、またたく間に何十人という子が、あなたからのおカネをもらいに集まるわよ。無視して行きましょっ!」

 シャーリーは山崎の手首をグングン引いて歩きだした。子供たちが二人をバタバタと追いかけた。山崎は鳥肌が立った。

 予約したレストランのビルまで辿り着き、二人はその中へ逃げ込んだ。子供たちは守衛に追い返され入れなかった。

 レストランでもシャーリーの態度があまりにも毅然としていたので、山崎は何を食べたのか思いだすことはできない。

 やや色の薄い黒人女性がオーダーを取りに来た。山崎はいつも海外出張でするように機内で覚えたばかりの現地語で、ひと言ふた言、そのウェイトレスに話しかけた時だった。シャーリーが山崎の手首を捕まえて強く振りながら、

「ダメ、ウェイトレスに話しかけてはダメよ! あなたはそういう立場にいません!」

と、ブルーアイで山崎を凝視し、強い口調で山崎がウェイトレスに話しかけるのを制止した。いつも物静かに話すシャーリーが、お互いにこころのひだをいつくしみ合うことができるようになっていたのに、山崎が何かとんでもないことをしでかしたかのように別人のようなきつい口調で詰ったのだった。

 ウェイトレスはそんなことには慣れているかのようにその場を流したが、シャーリーに咎められた山崎の心臓の鼓動は止まらなかった。俺が何をしたというのだ。シャーリーが、まるでこれまでに二人の間に何もなかったかのような他人のように、次第に遠ざかっていくような気がした。

 それより数年前、山崎は米国の一流企業の日本支社にいた。あるとき米国本社の管理職が日本の経営を学ぶということで数十人、東京に来たことがある。

 ホテルのレセプション・パーティで山崎は、白人数人とグラスを持って立ち話をしていた。と、その内の一人が山崎に尋ねた。

「トシ、もし仮に黒人が君の家庭を訪問したいと言ったら、君はその人を迎えるかね?」

山崎が躊躇なくイエスと答えた瞬間、彼は踵を返してその場を去った。同席していたひとりが、彼はタカ派で有名なんだ、アメリカ人がすべて彼のように考えている訳ではない、とあわててとりなした。しかし山崎はアメリカの人種差別の深淵を覗き見た気がした。

 いまシャーリーの、あのときのアメリカ人のような人種に対するこころの一端を突然見せつけられた山崎は、彼女が育った社会環境や教育が、アパルトヘイト一色になっていたことに思いを馳せる。

しかし、環境や教育で人がたとえどのように原体験を脳に刷り込まれようと、その後の己の教養が高まるにつれ、同じ人間が肌の色だけで差別されることへの不平等は是正されるべきだと思うようになる。

シャーリーはその後、勤めていた企業を辞め、ケープタウンの幼稚園で働くようになったと便りを送ってきた。ケープタウンはヨハネスブルグほど人種差別がひどくないと書いてあった。

ヨハネスブルグで会ったシャーリーは、表面的にはとても日本的な、静かで優しく、しかし積極的なイメージがあったが、内面的にはアパルトヘイトは当然と認識している南ア白人の感じは否めなく、山崎の中では彼女のすべてを容認できないもどかしさと彼女への慕情が静かに渦巻いていた。

しかし、ケープタウンからの手紙を読み、ジャカランダの花の香りとともに、山崎はあえかなるシャーリーへの思いをいよいよ掻き立てられるのだった。(了)

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