「夏は嫌いだ」
夏は好きじゃない、暑いから。
夏は好きじゃない、無条件に心が昂るから
夏は好きじゃない、「もしも」を空想してしまうから。
とにかく俺は夏が好きじゃない。
青く高い空に浮かぶお化けみたいな入道雲だとか、そんな夏らしい空に一筋かかる飛行機雲だとか、それを急激に覆い隠すような夕立だとか、花火、海、夏の星空、こいつらは何もかも俺が愛した物語の中では夏の舞台装置だった。彼ら彼女らは夏で楽しんでいた。
青い空のもとで仲間と流した汗、一緒に食べたアイスの味、僕も私もなんて言いながら冷たさとともに駆け抜ける頭の痛みはまるで、ほんの少しの苦みや辛さが料理の甘みやうま味を引き立てるように『共有』という記憶の一ページに刻む文字をより深く彫り込む。
急に降られた夕立。雨宿りを共に過ごした記憶はきっと薄れたって消えることはない。
目を閉じると瞼の裏で明滅する花火もきっと、光が網膜から剥がれ落ちたとしたとしても記憶は消えない。
感覚と記憶は強く結びついていて、舌に残った味や、目に焼き付いた光景、共に過ごした時間はすぐに消え去ってしまうとしても、記憶は石板のようによほどの衝撃でたたき割りでもしない限り消えることはまずない。
感覚だけは容易に想像できる。でも記憶が伴っていない。そんな俺は夏を楽しんでいるとさえ言えない。
俺の中で俺は有象無象のエキストラに過ぎない。俺を取り巻く物語は悲劇も喜劇もない。それが幸せなことはよく分かっている。
目を閉じると喜怒哀楽を包み隠さずに仲間と共有している自分が見えた。嫌いだ嫌いだと言いながらどこかで羨ましくもあったそんな風景。
そんな俺の嫌いな夏に始まる物語。
放課後の教室。俺は担任の教師と一対一で面談をしている。この一週間の恒例行事となってしまった。。季節はまだ夏真っただ中だ。空気は熱と湿気を帯びていて肌にまとわりつくようである。しつこいのは熱さだけ間に合っている。
「言っておくけど俺はやりませんからね」
話し合いの場で開口一番飛び出すフレーズとしては最低だ。
「まだ何も言ってないじゃないか」
強面の眉間に深く皴が寄せられる。撫でる顎に蓄えた無精髭、人相通りのどすのきいた低い声は相対する人間の意思を揺らがせるのに十分すぎるほどだ。俺はこの人からの交渉を一週間断り続けている。
「どうせ同じことの繰り返しでしょう。また同じ文句で俺を説得しようってなら帰りますよ」
「何がそんなに気に食わないんだ」
「先生の仕事を肩代わりすることです」
「手塚、お前なぁ、この一週間で俺はまだ『頼みごとがあるんだ』しかお前に用件は伝えてないぞ」
「それ以上聞くと断るに断れないでしょう。あれこれ理由をつけて押し切られるのがオチです」
違う、あれこれ理由をつけているのは俺のほうだ。「言われたことに従いたくない」。そんなくだらない反抗でちっぽけなプライドを守ろうとしているに過ぎない。そんなことは理解しているがそれでも素直に言うことを聞く気にはならない。一度言い出したことを簡単に取り下げられるほど俺は大人になり切れてない。
先生は男性にしては長い髪をかき上げながら大きく息を吐いた。困った眼でこちらを見つめる。
「まあ正直言って面倒なことに違いはないがな」
「まあさすがに一週間粘られたからには用件だけは聞いてあげますよ」
「手塚、波多野夕実は知ってるな?」
波多野夕実。小中ともに同級生。今はクラスは別だが、すれ違えば挨拶くらいはする唯一といってもいい女子だ。当時はそれなりに仲もよかった記憶がある。
小学生のころからそれなりに仲のいい女子。と聞けば何かと想起させる要素はあるが誰もが期待するような展開はここには含まれていない。起と承だけあってゆるやかに結末へと向かう物語のようなものだ。多分世の中の人間関係というのはほとんどがそういうものである。そんな誰彼構わず起承転結があろうものなら世の中に物語を作って売るという仕事は存在しない。物語は憧れであり、他人事だから楽しいのだ。
俺の物語はもっと緩やかでよかった。だから冒険をしなかった。
好きか嫌いかと問われればそれはまた別の話だ。でも伝えなければ同じこと、いま彼女との間には何の繋がりもない。
だから発するべき言葉は一つ。
「小学校からの知り合いです」
これ以上に語ることなどない。
「あいつがお前に頼みがあるんだとさ」
先生が大きな欠伸をする。そして背もたれにだらしなく寄りかかり、長い足を放り出す。先ほどまで前のめりで説得しようとしていた人間の突然の変貌に拍子抜けしてしまう。
「それだけですか?」
「俺が頼んだところで無意味なのが分かったからな。直接、波多野から聞け」
「それはそうと」
口の端を持ち上げ先生がにやりと笑う。窓から差し込む夕日を背景にした先生の顔は逆光によって影を落としており、暗い影の中で卑し気な笑みを浮かべる悪人面はもはや犯罪者である。
「俺相手にはあんなに牙むき出しだった手塚が、波多野の名前を出しただけで興味津々じゃないか」
先生が遠回しに伝えようとしていることは露骨に伝わってくるが、先生の期待するほど面白い理由で俺は動いているわけじゃない。
「友人には最低限敬意を払おうと思ったまでです」
先生は豆鉄砲でも食らったかのような表情を浮かべた。
「俺には?」
「そんな間柄でもないじゃないですか」
「そんなに俺らは仲良しか」
「最近じゃ一番よく会話するのは先生ですよ。それに敬意も払いっぱなしじゃ疲れるんです」
「まあその立ち位置にいられることを光栄に思うことにするよ。教師冥利につきるってもんだ」
「それじゃあ俺はこれで」
「波多野の件、よろしく頼むな」
「考えてはおきますよ」
一人で歩く廊下はやけに足音が響く。長く伸びた影も一人でに動き出しそうなほどの静かさ。学校という空間が見せる不思議な静寂はまるでこの世界に自分しかいないかのような錯覚を引き起こす。
窓の外には一日授業で疲れているはずなのにも関わらずそんな素振りも見せず動き回る人影がある。
学校という場所は好きだ。
学校という場所は良くも悪くも現実とつながっているようでつながっていない。基本的に外から何者かが介入することはないし俺たちは決められた時間内は外に出ることはできない。普通にみんなが通う場所ではあるが社会から見ればこの空間は異常としか言いようがない。しかし、その閉鎖空間が作る自由は何物にも代えがたい。
その自由をみんなが謳歌している姿を見るのが好きだ。自分はその輪の中にいたいとは思わない。きっと楽しそうに見えてもそれと同じだけの辛いことがあるだろうから。輪の外からそんな姿を見てささやかな感傷に浸るくらいが俺にとってはちょうどいい。
輪の中に入りたくなかったかと言われればそういうわけではない。でも俺は外のほうがいい。ただそれだけ。
窓の外で赤橙色に塗られたグラウンドを駆ける人影を見てそんなことを思う。
外に出ると俺を迎えたのは燦燦と照る西日。
西日というのはどうしてこんなにもまぶしくて熱を持った光を発することができるのだろうかと不思議に思うくらいに熱い。
帰りの道中考えていたのは波多野夕実のこと。思い、巡るのは『なぜ』。たったその二文字が延々と回り続ける。