ゴーイングマイウェイ
1.
久織舞花は憎むべき敵だ。いつか必ず天誅をくだしてやると、その機会を虎視眈々と狙っていた。
しかしことはそう易々とはいかない。何故ならやつには力がある。我が清廉学園を取りまとめる生徒会委員において、生徒会長の任を受けているからだ。つまり、指先一つで生徒会委員の連中を操ることができる権力をもっているということ。
権力、すなわち力。
だがそれらはやつが持っている新の力の前では些末事でしかない。やつが学園内で本当に恐れられている理由は別にある。久織には力は力でも、腕の力。つまり圧倒的暴力が備わっているのだ。
やつが入学してまもない頃、ある事件があった。
学生時代に素行が悪かった生徒が卒業後、教師にお礼参りしに来たのである。今となっては古臭くて恰好悪くて、人から奇異の視線を向けられること間違いなしの、いわば化石染みた連中。とはいえ、数が揃えば厄介なことには違いない。族の輩も引き連れて、総勢百名はくだらない札付きの悪が学園内を占拠したとき、当時の生徒会長も教師も打つ手なしで警察の介入を待つのみの状態だったという。だが、そんな絶望的な状況を拳一つで打破した者がいた。
誰だ。そう、久織だ。
やつは嵐の如き暴力をもって、やつらを残らず地に叩き伏せた。しかもかすり傷一つ負わずに。武器を使わず、ただ己の拳のみで族を成敗したやつの功績は、今や清廉高の伝説となっている。なっているのだが、それが良くなかった。
その事件をきっかけに久織は理解してしまった。人望を集め、ただ自らの意思を貫き通し従わせるには暴力を用いるのが一番手っ取り早いと。
品行方正、清廉潔白、大和なでしこを地でいくやつが変わっていったのは大体、件の百人斬り事件のあとだったという。それからというもの、久織は自らに従わない連中は悉く暴力でねじ伏せていった。やつの道を塞ぐ者は誰もなく、やつに泥水を舐めさせる者などあろうはずもない。無論、ただ暴力を振るうだけならそれ以上の暴力でねじ伏せられるのみであり、人一人の力なんて知れているのだから、学舎でそのような行為を働く不届き者が放置されようはずもない。
しかし、学校側がやつを追求することは一度もなかった。
何故なら、久織は正しかったからだ。
どのような場面においても、久織は相手が『間違っている』ときにのみ暴力を振るう。還付なきまでにぼこぼこに叩きのめす。褒められる行為ではないのは確かだが、周囲はやつを糾弾するどころか恐れおののき、中には支持する者まで現れる始末。
正義を執行する冷徹なサイボーグは段々と勢力を拡大させ、ついには生徒会選挙まで立候補するまでになり、学園の生徒満場一致でついには生徒会長の地位にまで上り詰めた。
だというのに。
久織は全く嬉しそうではなかった。
心ここにあらずといった感じで、当選後のスピーチを行っていた。
だだっ広い壇上の中心で、一人だけスポットライトを浴びながら、形式染みた口上を述べる姿にはどこか影があった。元気がないわけではない。喋りははきはきしていて、背筋はピンと伸びており、優等生の理想を体現した立ち振る舞いだったことは言うまでもない。
だがそれでも、やはり久織は別のなにかを見ているようだった。
それがわかったのは俺がやつと対決しようと決意した、とある夏の日のことだった。
2.
「ふざけるな、今度という今度は我慢ならん! 貴様にはここで引導を渡してやる!」
怒りに任せ、渾身の力を込めて拳を机に叩きつける。
その拍子に机上の書類や筆記用具が床に転がり落ちるも、眼前の女は眉一つ動かさずに微動だにしない。それどころか腕を組み足を組み、生徒会長席のバロンチェアに坐したままこちらを睨み続けていた。
久織舞花。
背丈が百八十ほどある俺とそう変わらぬ高身長に、肩口で切り揃えられた黒々とした癖のない髪。目は凛とし、顔立ちは整っているが女性らしさよりも気の強そうな印象が先に立つ。いつも眉尻が上がっているからだろう。宝塚にでも行けば、立派な男役になれそうな相貌をしている。
「引導か、なるほど面白い。そんな言葉、久々に聞いたよ」
「ちゃかすな、この鬼女め。貴様が負わせた傷によってやつが今度の県大会に出れなかったとき、どう責任を取るつもりだ」
俺から片時も視線を外さずじっと睨み続ける久織に対し、負けじと渾身の眼力で応える。
「責任? 責任だと? バカなことを。その言葉、そっくりそのまま返してやる。水鳥は三度の忠告も耳を貸さず、重ねて校則を破った。それが全てだ。あの男が犯した罪はどこかで清算する必要があった。それが偶然、今の時期だったというだけだ」
悪びれずにがんとした態度を崩そうとしない久織を見ていると、尚更腹が立つ。だが、やつの振る舞いには僅かの隙も見当たらなかった。これでも剣士の端くれ、相手の実力を見極め不要な闘いを避けるのも強者の条件だ。
久織と闘うには、己の命を賭す覚悟が求められる。
それだけの強者であることは容易に理解できた。
だが、男には避けられない闘いがあるのだ。
「確かにやつがやったことは人道を逸れた悪行だ。それは認める──だが手首を負傷した剣士が真剣試合に臨めぬことは貴様も理解できたはずだ! なのに……何故、わざと手首を狙った! 答えろ!」
「罪には罰を、だ。嫌がる女生徒を無理矢理連れ回し、交際まで迫るなんて言語同断だ」
「わかっている、やつはそれだけのことをした! 手を振るったことについて責めているのではない! 故意に剣を握れぬ体にしたことを責めているのだ!」
腹から絞り出した怒鳴り声は室内はおろか、廊下にまで響いていただろう。
下手をすれば部外者がやって来て、この問答は中止に追い込まれるかもしれない。それがどうした望むところだ、受けて立つ。
「報いを受けさせたんだ」
「なんだと?」
「水鳥に連れ回された生徒は手を出されはしなかったが、深い傷を負った。生き方が変わるかもしれない、心の傷だ。だというのに、彼女たちは報復の一つもできなかった。理由はわかるか? 単純だ、弱かったからだ。」
弱肉強食。
それはこの世界の真理。
強き者は喰らい、弱き者は糧となる。
武器を手に取る必要のなくなった現代社会においても、それは少しも変わっていない。
「強者の使命をお前は知っているか? 弱者を救うことだ。力無き者を救い、自らの力で歩むことができるよう導いてやることだ。どれだけ抵抗しようとも、水鳥が彼女たちを連れ回した時間分の対価は、私が死んでも払わせる」
そう告げて、久織は静かに立ち上がった。生徒会室にいるのは久織と俺のみ。この場でなにが起ころうとそれは二人だけの秘密、誰も預かり知らぬことだ。ならば、かくなるうえは尋常に────
「舞、一年の目安箱のアンケート用紙取ってきたよー。ってあれ?」
生徒会室の扉を開き、闘争の前触れがあったことも露知らず、気の抜けるようなふんわりとした呼びかけの後に何食わぬ顔で目黒は入室してきた。
目黒は生徒会役員でありながら、我が剣道部のマネージャーも引き受けてくれている、善良な女生徒だ。背丈は女の中でもかなり小さな部類に入り、長身である久織と比べると、目黒はやつの半分ほどの身長しかない。まるで童女である。
ボブカットで前髪がぱっつん切りになっているせいか、俺はこいつを見る度に座敷童を連想してしまう。
「しょ、翔子! すまない、本当は私がとりに行くつもりだったんだが……」
「いいのいいの。舞、いつも忙しそうだし。ん? 佐々木ちゃんは、どうして生徒会室に? 部活はどうしたの?」
問われて、俺はあっけにとられてしまった。なんというか、この女には人から闘争心を削ぎ落す超能力でも備わっているようだった。会話をしているだけで、先ほどのひりついていた空気が嘘のようである。
「いや、そのだな……水鳥の件でこの女に話が────」
「あーそうそう、そうなんだ! ついさっきまで水鳥に送る見舞いはどのようなものが良いか話し合っていたところなんだ! ようやく結論が出そうなところでお前が帰ってきたところだったんだよ」
あたふたと。全身全霊で身振り手振りして誤魔化そうとする久織が実に哀れだった。何故隠そうとするかまでは問わまい。しかし、一つだけはっきりしたことがある。
久織は目黒に闘争する自分を見せたくないらしい。
「……なんか怪しい」
「な、なにをいう。ぜ、ぜぜ、ぜんぜん怪しくなんかないぞー。なあ、そうだよな佐々木」
「…………さあな。自分の胸に問うてみろ」
目黒に疑念の眼差しを向けられた久織は、まるで蛇に睨まれた蛙だ。単純な力でなら、むしろお前が蛇──いや龍だろうとはっきり言ってやりたかった。だが、この場でそれを口にするのは憚られる。部員の連中に軍曹やら鬼教官やらスパルタクスやら散々こき下ろされている俺でも、多少は空気も読めるのだ。
「わ、私の胸は関係ないだろ! 胸は! なあ、翔子!」
目黒は僅かに首を傾け答える。
「また喧嘩したの」
訝しむ視線を向けられ、久織は見たこともないぐらい慌てふためいた。
「まさか、この前ちゃんと約束しただろう? 今後は一切、生徒会長としての仕事をする上で暴力は働かないと」
「暴力はダメ、絶対」
「もちろん、ああもちろんだとも。私がお前との約束を破るわけないじゃないか」
整列されていた横長のワークデスクを押しのかす勢いで一歩前進。そのまま自らの胸に手を当てると迫真の表情で目黒に語りかける久織。なんと情けない有様だ、これが清高の生ける伝説とは聞いて呆れる。
「怪しいけど……佐々木ちゃんもいるしね。今は聞かないでいてあげる」
抱えていたアンケート用紙を生徒会長席にまとめて置いて、目黒はゆったりとした歩みで生徒会室をあとにしようとする。入口の扉に手をかけ、横向きのスライドを目一杯開くと振り返り、
「それじゃ、先に行ってるね。道場で待ってるよ」
とだけ言い残し、その場を去って行った。
かくいう久織はだらしなく緩み切ったブルドッグみたいな顔面を晒しながら、扇子でも振るように片手をひらひらさせて見送っていた。こいつには誇りというものがないのだろうか。
「行ってしまったが」
俺はぽつりと呟く。
すると。
「翔子……やはりお前は天使だ」
「は?」
「抱きしめたい! 頬ずりしたい!」
自分の身体をきつく抱き、久織はなにやら気色の悪いことを言う。もはや俺の存在など毛ほども認識していないらしい。こいつの頭の中は今、目黒で一杯なのだろう。
「正気か? 女の貴様が何故目黒に欲情しとるのだ、この変態め」
「うるさい黙れそれ以上口を挟むと二度と言葉を紡げない体にしてやる」
末恐ろしいことをさらっと口にするやつだった。殺気も眼力も先ほどの数倍以上。とはいえ、もはやこの女に恐れを成す理由を探す方が困難なようだった。
「問うぞ。貴様、視察だと言ってここのところ毎日道場に足を運んでいたな」
びくりと、久織の肩が跳ねる。
「他の部活動にはよくて週一、へたをすれば一ヵ月に一度程度の頻度だったにも関わらず、我が道場には毎日毎日足繁く通っていたな」
再度、久織の肩が跳ねる。
「我が部の方針にあーでもないこーでもないと姑の如く口を挟んだ揚げ句、何故か練習後やたらと目黒に寄りついて会話していたようだが……その辺りの事情、詳しく聞かせてもらえるんだろうな」
途端、久織の体は怯えたチワワのように震え出した。顔は俯き、こちらからは伺いしれない体勢となる。拳を握り締め、背中を丸め、引き絞った弓を彷彿とさせる勢いで溜めた力を開放して言った。
「だって仕方がないだろう! かわいいんだから!」
俺はやつを無視して踵を返し、目黒みたいにその場を去ろうとした。このような愚か者に構っている時間が無益だ。水鳥への見舞いの品を選定するのはもちろんだが、県大会に向けての練習も怠れない。早々に退散しよう。
だがその思いも虚しく、後ろから右肩を掴まれ滞在を余儀なくされた。
「待て! 待つんだ佐々木!」
「待たん。聞かん。話さん。貴様と話すことはもうない、そこでチワワのように震えているがいい」
「誰がチワワだ! ではなく……お前も思うだろ、翔子はこの学園一、いや人類史上における最もかわいらしい娘だ」
会話をしたくなかったので無視を決め込み、無理矢理に歩を進めようとする。しかし、肩が万力で締め付けられているようにびくともしない。振りほどこうと懸命に藻掻くが、藻掻くほど痛みに苛まれるばかり。ついには諦めの気持ちしか残らず、俺は久織に向き直った。
「貴様が目黒について語り合いたいのはよくわかった。だがそれには条件がある」
「なんだ言ってみろ」
「水鳥に誠心誠意謝れ、そして俺と一緒に見舞いに来い」
「よしわかったお安い御用だ翔子の話をしよう」
引くほどの早口で言い切ると、久織は恍惚とした表情をして自らの両手を頬に添えた。この色情狂の相手をして水鳥の無念を少しでも晴らせるのならば、俺は喜んで犠牲になろう。
こいつは嘘はつかまいし、水鳥も水鳥で許されざることをしたわけなのだから、今回の謝罪をもって両成敗という運びにしたい。
できるかはわからんが。
「全く、なんという変わり身の早さ……貴様、それでいいのか」
「過去のことなんて知らん。私は私だ。罰を受けた者に必要以上の制裁は与えない」
誰が相手でいようと、どんな立ち位置にいようとも、行いは常に心のままということか。
俺には真似できそうもない芸当だ。
「話をするといってもだな、俺は目黒に特別な感情などなに一つ持ち合わせていない。貴様が喜々とする話題が提供できるとは思えんが」
「待て、まあ待て。至高のかわいさを持つあの娘と毎日傍で練習しているわけだろ。照れ隠しするのは無理もない。だがここは腹を割って話そうじゃあないか。確かにほんの数分前、私たちは敵同士だった。拳を交えることも厭わない怨敵だった。でも今は違う。旧来の友のように、肩の力を抜いてリラックスしようじゃないか。これからコーヒーでも淹れるから、まずは楽にしてくれ。ほらっ、そこの席がいい。なあにすぐさ。時間は取らせない。モノはすぐに用意するから存分に語り合おう。なあ、佐々木。今ならこうは思えないか? 憎しみから始まる友情もあるのだと」
「ない」
きっぱりと切り捨てた。
「なに!? お前は翔子がかわいくないというのか!? 本当にお前は人間か!」
人外の疑いをかけられてしまった。
甚だ不愉快だ。
「紛れもなく、正真正銘ただの人間だ」
「なら翔子はかわいいだろう? そうでないとおかしい」
「おかしいのは貴様の頭だ。目を覚ませ」
きょとんした顔をする久織。
「おかしなことを。私はこうして起きているじゃないか」
「違う! そのピンク色した夢から目を覚ませと言っとるんだ!」
「ピンク? ピンクかー、確かにピンクのフリルがついたスカートも『あり』だな!」
「貴様ホントは俺をおちょくりたいだけなんだろ。えっ? そうなんだろ?」
会話の成り立たなさに業を煮やした俺は久織に詰め寄る。だが、やつは間合いに入られたことなどどこ吹く風。顔を紅潮させたまま、妄想の世界に旅立ったまま謎の独り言をべらべらとのべつ幕無しに呟くだけ。
どうやら俺はとんでもないやつに絡まれてしまったらしい。
これなら闘争の方が何倍もましだ。
「佐々木は翔子のどういったところがかわいいと思うんだ?」
「いや……だから別に目黒のことを女として好意的に見たことなんて──」
「佐々木は翔子のどういったところがかわいいと思うんだ?」
目のハイライトがカットされ、奥には黒々とした深淵なる闇があった。俺は数歩後退りしたが、やつも合わせてにじり寄ってきた。
「な、何度も言わせるな……お、俺は別に目黒の──」
「佐々木は翔子のどういったところがかわいいと思うんだ?」
もはやこれは会話ではなく尋問ではなかろうか。
「引き返す道もなし、負け戦もやむなし……か。仕方ない。しばらく付き合うから、一つコーヒーを淹れてくれ」
「任せろ、すぐに済む。淹れてる間にさっきの質問の返しを考えとくんだぞ、いいな」
久織は部屋の給湯所まで向かうと淡々とポッドに水を入れ、準備を始めた。心なしか口元がにやついているようだ。なにがそんなに嬉しいんだかわからん。俺はというと、久織が指定した椅子に腰を下ろし全身を脱力させ途方に暮れていた。
ああ、この椅子思ったより座り心地悪いな。どうせ客人として迎えられるのなら、堂々と久織の席にあるバロンチェアに踏ん反り返ってやれば良かった。あの狂人にこれからどれだけの時間付き合わされるのかと考えると、胃が痛くなる。
やれやれ、今日は厄日だな。
3.
「それでな、この前行ったケーキバイキングで翔子のやつ、ショートケーキはいちごが本体だと言い出したんだ。それはケーキに対する冒涜だと思った私はケーキがあってこそのいちごだぞと、強く言ってやった。すると、するとだな。翔子、涙ぐんだ目でこっちを見るんだよ……あぁーもうたまらんだろ! すぐにでも抱きしめてよしよししてやりたかったんだがさすがに店の中、公衆の面前でそんな真似できんだろ? だからあいつの手を握って『すまなかった、そんな顔をしないでくれ。お前の言い分にも一理ある、今はショートケーキを美味しくいただくことに専念しよう』と言ったわけだ。そしたらな、もうっこれ以上ないくらい目を爛々とさせて『うん、そうだね』とか言うんだ。でな、さっきまで泣きそうだったから余計ことお目目がキラキラしていてな。あれはまるで地上に降り注いだ流れ星……煌めく星々を集めた宇宙だった。宇宙だぞ、宇宙! はー、翔子を泣かせるなんて天と地が割れようとも絶対にあってはならない緊急事態だが、非常時だけにしか経験できないこともあるものだぞ。あれは良いものだ。やはり大枚はたいてでもデートに誘って正解だった。願わくば月一ぐらいのペースでいけたら理想なんだが。いや、あくまでも理想だぞ。私たちはなんだかんだとはいえ受験を控えているわけなのだから、そこは節度をわきまえて勉学にも励まなくてはならない……あっ、思い出した! この前の小テストで翔子が良い点を取ったときの話があったな」
「もう目黒の話はいい! いつまで喋ってんだ貴様、これでは会話ではなくただの講義講習ではないか!」
あははと上機嫌に笑いながら、久織は軽く流そうとする。
「まあまあいいじゃあないか。同じ相手を好きになった者同士、語り合うネタは尽きないというもの」
「だから好きでも嫌いでもないと言っとるだろうが! いや、しかしマネージャーとしての活躍や心配りには大変感謝しているが……」
「だろ!」
身を乗り出し、今にも会長席の机上で踊り出しそうなテンションだった。
久織と目黒にまつわるエピソードを語り出してから、既に二時間以上が経過している。その間、『翔子』という単語を聞きすぎて記憶回路に翔子という人物名しか残っていない状態だ。やつの脳内フォルダは目黒とそれ以外の有象無象でしか分けられていないのだろう。なんという言葉の暴力。ひょっとすると、俺は今闘争の真っ只中なのかもしれない。
久織舞花との精神戦の途中なのかもしれない。
この戦に負けると漏れなく、俺は目黒のことを意識するようになってしまうのかもしれない。
────冗談じゃない。
他人の言葉巧みな誘導に乗せられて想い人を選定するなど言語道断。男としてあってはならぬ失態だ。それだけはなんとしてでも避けなければならない。
だがしかし、一つ引っかかることがある。
久織の目黒に対する狂気に触れながらも、俺はこいつのことを昔よりも嫌いになれなかった。
憎き怨敵だとは到底思えず、むしろ好意的な印象すらあった。
何故か。
何故なのか。
あくまでも推測だが、予想は立てられる。
こいつはきっと、目黒のことを心から愛しているのだ。
ひたすらに真っ直ぐ、迷いも曇りもない感情で心の底から好いているのだ。
だからどれだけ話しても話題は尽きず、楽しそうに笑顔で居続けられるのだ。
純粋な、愛。
重すぎるそれは鎖にも成りかねない危険なもの。けれど、こいつに限ってはその心配は無用だろう。何故なら、真に愛する人を傷つけて笑顔でいられる人間などいないからだ。
いるとすれば、それは人ではない。
鬼だ。鬼、化物、人外、またはその類の魑魅魍魎。
俺は考える。
眼前で目黒について未だに喋り続ける久織を見て、深く考える。
俺は年端もいかない頃から、剣の道を歩んできた。自らの意思ではなく、親父の勧めに従って仕方なしに。良い太刀筋を見せると親父だけでなく、周囲の皆が喜んでくれた。だからやめるわけにはいかなかった。
どうやら俺にはそこそこ剣の才能があるらしい。
否応なしに強いられたわけではない。いくつかの道を選択する機会はあったし、委ねられてもいたはず。
だが、俺は────
俺は今。
久織が目黒を愛するように、心の底から剣道を愛せているだろうか。
「おい、久織」
「なんだ翔子のことが好きになったのか? やらんぞ」
じと目を向けるな。
人を盗人のような目で見おって。
「いらん。俺が聞きたいのは目黒に関してではない」
「なに!? 今は翔子の話をする時間だろう!!」
「貴様は瞬間湯沸かし器か! 沸点が低すぎる! これではうかつに目黒の名を出せんだろうが!」
珍しくこちらが話を振ろうとしたときに限って、謎の目黒推しをされてしまう。
いい加減、そろそろ俺の話も聞いてもらわなければ困る。
「むっ、確かに少し一方的すぎたか。お前から私の知らない翔子の行動が見えるかもと思ったが、こちらが話すばかりでは得るものも限定される。よし、いいだろう。話してみろ」
傲岸不遜、厚顔無恥もいいところだった。
この女、いつか泡を吹かせてやるからな。
「……貴様が目黒のことをどれだけ強く想っているかは嫌というほどわかった」
「まだ百分の一も終わってないが」
「わかった! もういい、もういいから、頼むからしばらく静かに俺の話を聞いてくれ!これでは明日の朝になってもこの部屋から出られんではないか!」
久織は顎に手を当てて数秒考えこむ仕草をして、
「それはマズい。下校登校時に翔子に会えないじゃないか」
などと大真面目な顔で言う。
「納得いかんが今はそれでいいから。おほん……まず貴様の目黒熱は異常だ、常軌を逸している」
「私はこれが普通だぞ」
「普通じゃない。普通じゃないんだよ、貴様は。よくそれで他の生徒会連中とまともにコミュニケーションを取れたものだと、俺は素直に関心していたところだ」
それもある種のカリスマが成せる技だろうが。
敢えて口に出そうとは思わない。
「翔子は良い子だからな。あの娘の話をするとき、私の周囲の者は皆楽しそうだぞ」
「……返答に困る」
嘘か真か。
恐怖政治か、女神を祭り上げてるだけか。
剣道部の目黒翔子しか知らない俺では判断に迷うところだ。
「で、私が普通じゃないと? だからどうした。普通の基準なんて他人が決めるものでしかない。普通であることを強いる者は大抵、つまらない価値基準という名の物差ししか所持していない」
一遍の迷いなく。
そう断言する。
できてしまう。
それが可能な時点で強者であることを、こいつは気がついていない。
「誰もが貴様のように強くなどなれん。皆、弱さがあるから他人を思いやれるのだ。強さだけしかない者が歩む道は修羅しかない」
鬼となりて。
修羅となりて。
成って果てるしかない。
「強い? 私が? ハハハハハッ、おい佐々木。中々面白いことを言うじゃないか。よりにもよって、この私が? 違うよ、全然違う。私は強いんじゃない──最強なんだ」
この女、今なんと言った。
己が最強だと、そう言ったのか。
「自惚れも甚だしいな。世界を知らない、井の中の蛙だ」
「いいや、世界はここだ。私が世界で、私が頂点だ。あとはその他大勢。私とその他、これで人類は二分できる」
「目黒も、その他大勢に含まれると?」
迷いなく。
思考する時間さえ刹那に。
「そうだ。だから最強なんだ」
あっさりとそう口にした。
「最愛の人を切り捨てることが貴様の強さの真髄なのか」
返事は思っていたものとは違った。
「違う。切り捨てるんじゃない、背負うんだ。翔子がその他大勢でいてくれるから、最強でいられる。頂点でいられる。誰よりも強くいられる。ただ強いだけだった私を、最強でいさせてくれるんだ」
まとめて背負う。
背負いこんで、離さない。
確かに良い鍛錬になりそうだ。だが重さに耐え切れなかったとき、背負っていたものは自身を押し潰す重しとなるだろう。
「ずっと聞きたかった。入学したときから貴様の噂は校内でも絶えず、百人斬りのときも、鹿男事件のときも、清廉祭のときも貴様の名を呼ぶ者が絶えることはなかった。強い女がいると聞いて胸躍った。なあ久織。何故、目黒なんだ? 貴様をさらなる高みに連れて行ってくれる者は他にもいるんじゃないか?」
幾ばくかの期待はあった。
我が校──いや、自分が知る限り最強の女の支えが、ただの友人だという事実を否定したかった。
久織はロッキングチェアに激しくもたれかかり。
こちら見下しながら。
「いない。翔子が全てで、全てはその他大勢」
蜘蛛の糸を切り捨てるかの如く。
確固足る意思をもって断じた。
「理由を聞かせてくれないか」
俺がそう言うと、久織は口角を上げてにやりと笑い。
「ようやく翔子が好きになったか。でもやらんぞ」
当たっていないが案外的を得た指摘をした。